第112話「潮騒の余燼 ― 祈りが還る浜辺」
夜明けの風が、まだ焦げた砂の匂いを運んでいた。
前夜、祈導兵たちとの激戦が終わり、浜辺には静寂だけが残っている。
波がゆっくりと寄せては返し、砕けた甲冑の残骸をさらっていくたび、
光の粒が幾つも浮かび上がっては空に昇っていった。
「……終わった、のかな」
ミナが呟いた。
その声は、夜明けの潮騒の中に溶けて消えていく。
彼女の足元では、白い砂の上に金の光がまだちらほら残っており、
踏みしめるたびに淡い輝きがふわりと舞い上がった。
リアナは静かに膝をつき、掌を砂に当てる。
彼女の祈りが始まると、潮風がやわらかく吹いた。
「命令に縛られた魂が、ようやく眠りにつけたのです。……どうか安らかに」
その声は小さく、けれど確かに祈りの波を残して、砂の下へ沈んでいった。
砂の中で、誰かの光がほっと息を吐いたように瞬いた。
崖の上では、ユウリが海を見渡していた。
荒れた波間に浮かぶのは、祈導兵たちの祈りを媒介にした光の筋。
夜の戦火を忘れたように、海はただ青く、静かに息をしている。
その隣にβの投影体が現れ、夜明け色の光を帯びた。
《観測結果。残留構文の揺らぎは収束傾向。……ただし、一部の信号が人の祈り波形に同調しています》
「つまり、祈りは奪われて終わりじゃない……ってことか」
《はい。命令のために使われていた祈りが、人の想いに戻ろうとしています》
βの声はいつもより柔らかく、微かな震えを帯びていた。
ユウリは海を見下ろし、静かに言った。
「……なら、拾ってやらないとな」
彼の手の甲に紅い構文紋が浮かび上がる。
「《改造構文:流体干渉領域展開》――残滓の信号を再定義。命令を、“願い”へ戻す」
次の瞬間、風が止まり、海面がわずかに逆流した。
散っていた光粒が渦を描き、波の流れに逆らって浜辺へと帰ってくる。
潮の香とともに、温かい気配があたりを包んだ。
ティアが目を丸くする。
「主様……これ、祈りが“帰ってきてる”?」
「奪われた祈りは消えない。ただ、帰る場所を探してるだけだ」
ユウリの声は低く、けれど優しかった。
その隣でβが静かに微笑む。
《帰る場所……理解。では、記録名を“帰郷の祈り”に設定します》
「好きにしろ」
《はい。――今のわたしには、その“好き”という概念が心地よいです》
ティアが頬をかきながら照れ笑いした。
「βちゃん、ほんとに人間っぽくなってきたね」
《観測結果:あなたの笑顔に幸福波が多く含まれています。おそらく“感染”です》
「う、うわ、なんか照れる!」
ティアが顔を赤くし、ミナが笑い、リアナまで小さく吹き出した。
笑い声が波に溶けて広がり、戦場の残滓をそっと包み込む。
◇◇◇
昼下がり。
ラナシェル沿岸の小村――潮の民が暮らす漁村は、戦火の跡を残していた。
屋根が崩れ、桟橋が半ば沈み、港には焼け焦げた木片が浮かんでいる。
それでも人々は諦めず、互いに支え合いながら復旧に取りかかっていた。
その中に、ユウリたちの姿があった。
「釘の角度は……よし、ここを再定義っと」
ユウリが軽く指を弾くと、砕けた木材が淡い光を帯びて結合した。
まるで時間が巻き戻るように、ひび割れた壁が滑らかに元の形を取り戻していく。
「す、すごい……! 本当に直っちゃった!」
道具を手にしていた村の青年が目を丸くした。
「“魔法”じゃない。ただ、壊れた構造を正しい形に戻しただけだ」
「でも……助かりました。祈導兵に壊されたままで、もう諦めてたんです」
その言葉にユウリは小さく頷き、静かに微笑んだ。
リアナは別の場所で、負傷者たちの包帯を交換していた。
光の祈りが彼女の掌から流れ出し、傷口を包み込む。
「もうすぐ癒えますよ。命は、祈りと同じ。ちゃんと戻ってきます」
「ありがとう、聖女さま……」
「私は聖女ではありません。ただの祈導士です」
穏やかに答えた彼女は、老漁師の手を優しく握り返した。
涙ぐむその目が、久しぶりに光を取り戻す。
一方その頃、ミナとティアは子どもたちと一緒に瓦礫を片づけていた。
「ティアちゃん、それ重いよ!」
「だいじょーぶ! 竜人族の力をなめんなって!」
笑いながら瓦礫を抱えるティアを見て、子どもたちが歓声を上げた。
ミナはその隣で幻影を作り、子どもたちの頭上に小さな魚の光を泳がせた。
「ほら、逃げた魚を捕まえたら一休みね!」
「きゃー! ミナお姉ちゃんすごい!」
笑い声が村じゅうに響いた。
ティアが振り返り、汗をぬぐいながら叫ぶ。
「主様ー! 子どもが“遊び場を作って”って!」
ティアが汗をぬぐいながら手を振る。
「お前ら……もう休んでいいぞ」
「やだ! だって今のユウリ、めっちゃカッコいいもん!」
ティアが、陽光の中で満面の笑みを浮かべながら叫んだ。
その声は、いつもの“主様”ではなく――無意識の呼び捨て。
竜闘士ティア・ドラグネアにとって、ユウリは絶対的な主であり、敬意の象徴だった。
だが同時に、彼は“自分を封印から解き放ち、居場所を与えてくれた人”でもある。
忠誠と感情、その境界線は彼女の中でいつも揺れていた。
そして今、潮風と子どもたちの笑い声の中で、その線はそっと消えていく。
戦いの時には「主様」――けれど、心が満たされた瞬間にはただの“少女ティア”に戻る。
呼び捨てになったのは無礼ではなく、心の奥に隠していた素の想いが零れ落ちた証だった。
ミナが横でくすくす笑う。
「主様、顔赤い~」
「ほっとけ」
ユウリがそっぽを向くと、ティアは照れくさそうに尻尾をぱたぱたと揺らした。
リアナがそんな二人を見て、静かに微笑む。
「……いい風ですね。誰かの心を温める風。」
セリスも目を細め、海の方へと視線を流す。
「風が笑っていますね。」
笑い声がまた一つ、波のように広がっていった。
セリスは浜辺で風を読んでいた。
潮の流れ、風の向き、そして祈りの残滓。
「……祈りがまだ流れています。海が、それを受け止めている」
「風に願いが混じるって、ほんとなんだな」
「ええ。だから人は祈る。言葉が届かなくても、風が運んでくれるから」
セリスの横顔はどこか遠くを見ていて、その眼差しに宿る静けさが、海よりも深かった。
その上空に、βの投影体が淡い光を纏って浮かんでいた。
《マスター。これが“再生”という現象ですね》
「そうだ。壊れたものを直すのは、構文でも魔法でもない。人の手と心だ」
《……了解。では記録名を、“再生のはじまり”に変更します》
「勝手に命名してるな」
《観測対象の価値を正しく残すためです。わたしは――この世界の“温もり”を失いたくない》
βの光がゆらりと風に溶け、潮風に乗って村の空へ散っていった。
◇◇◇
陽が沈みかけた頃、空は金と紅に染まっていた。
子どもたちが笑い、焚き火の周りで村人たちが歌を口ずさむ。
浜辺には、朝まであった焦げ跡がもうほとんど見えなかった。
再生の手は確かに動き出している。
だが、ユウリはふと顔を上げ、水平線の向こうを見た。
海の彼方、赤い閃光がわずかに瞬いた。
《警告。残留信号の再活性を検知――ゾルド由来、南方域です》
βの声に、全員の表情が引き締まる。
「……来たか」
ユウリは拳を握り、潮風を背に立ち上がった。
その瞳に、再び炎のような光が宿る。
戦いは終わってなどいない。
けれど、この地には確かに“祈り”が残った。
願うことを、もう誰にも奪わせはしない。
彼らの再生は、ここから始まるのだ。




