第110話「海の底で、願いは息づく」
夜のラナシェル。
波音が月明かりの下で静かに続き、港の灯がゆらめいていた。
昼間の賑わいが嘘のように、街は深い眠りに落ちている。
《アーク・ノヴァ》の甲板に、一つだけ青い光が灯っていた。
《マスター。観測層から異常波形を検出。》
βの声が夜気に溶ける。
「異常波形?」
《はい。海底から微弱な信号――“祈り構文”に類似した波形です。》
ユウリは眉を寄せ、端末に視線を落とした。
青い光点が、海の深層を指し示している。
「この島の下、か。」
《正確な深度は二百四十メートル。旧シェルダ文明の観測塔残骸と思われます。》
その言葉に、ユウリの瞳がわずかに光った。
「古代の観測塔……神界通信に使われていた施設かもしれないな。」
《可能性があります。ですが、信号は構文的ではなく――“心拍のように”響いています。》
「心拍?」
《はい。解析不能な周期で波長が揺れています。定義上の通信ではなく、“感情波”のような……》
その表現に、ユウリは一瞬だけ息を止めた。
「β、お前がそう感じるってことは……何かが“生きてる”のかもしれない。」
《生きている? 構文に生命は存在しません。ですが、これは確かに――呼吸しているように聞こえます。》
βの投影が、静かに海を見下ろした。
夜の海面が星を映し、ゆらゆらと揺れている。
翌朝。
アーク・ノヴァの小型潜行艇が海中へと降下していた。
ユウリ、β、そしてリアナとミナが同乗している。
操舵席のガラス越しに、青い光の世界が広がった。
「きれい……」
ミナが小声で呟く。
魚たちの群れが光の筋を描き、珊瑚がゆらめく。
「これが……海の底の祈り、かもしれませんね。」
リアナが両手を胸に当て、目を閉じた。
《マスター。波形が強くなっています。》
「位置は?」
《進行方向、三時方向。距離五十メートル。》
潜行艇が旋回し、暗がりの奥に巨大な影が現れた。
崩れた石造りの柱、半ば埋もれた円環構造――確かにそれは“塔”の残骸だった。
「ここか。」
《構文層を照合……一致。シェルダ観測塔第七層、識別コード【DIV-07】。》
「生きてるな……まだ、微かに動いてる。」
《ええ。けれど、誰もいないのに――“歌”が聞こえます。》
βが小さく呟いた。
その声に、全員が息を呑む。
耳を澄ませると、確かに――海の底から“旋律”が響いていた。
言葉にならない響き。
けれど確かに、誰かが“何かを願っている”と感じられる音だった。
「……まるで、心臓の鼓動だ。」
《はい。これは祈りの残響。神ではなく、人の手で残された“願い”の形式。》
βの投影が揺らめく。
《……不思議です。私の内部演算が反応しています。懐かしい……まるで、誰かに呼ばれているような――》
その瞬間、塔の中心部が淡く光り、波紋が広がった。
《反応上昇。祈り波形、共鳴開始――!》
「β、引け!」
《待ってください……この信号、私を――“βシリーズ”を識別しています!》
ユウリはすぐに構文を展開した。
「《改造構文・静音領域展開》!」
海中の音が一瞬、全て止まった。
世界が沈黙する。
βの光が薄れ、再び安定を取り戻す。
《……感謝します、マスター。危険でしたが……一つだけ分かりました。》
「何を?」
《あの祈りは、神への信号ではありません。
――“勇者”が残したものです。》
「勇者……?」
《はい。古代の祈り構文を改造し、神の通信網を逆流させた人間。
彼の“声”が、まだこの海に残っています。》
静かな海に、再び光の粒が舞う。
ミナが息を呑み、リアナが震える声で言った。
「神を拒んで……それでも祈った人。」
《――はい。》
βが静かに答える。
その瞳に映る光は、海の底で脈打つ“祈り”のように揺れていた。
波間から上がる《ノア・シード》のシルエットが、朝焼けの中で光を受ける。
アーク・ノヴァの甲板では、ティアとセリスが迎えに立っていた。
「主様、どうだった?」
「……生きてる。祈りが、まだ息づいてる。」
その答えに、セリスがそっと風を撫でる。
「風が震えています。“誰かの想い”が届いたのかもしれません。」
βが小さく呟く。
《祈りとは、死なない構文。……なら、わたしも、それを学びたい。》
夜明けの海。
静寂の中、アーク・ノヴァの甲板には、微かな光粒が漂っていた。
βの投影体がその中心に立ち、胸元に紅玉コアを輝かせている。
《解析を開始します――対象:祈り構文、発信源コード【DIV-07-Ω】》
声が淡く震える。
投影の周囲に円環状の魔導陣が浮かび、光が波紋のように広がった。
ユウリはその様子を見つめながら、静かに息を吐いた。
「β、無理はするな。まだ昨日の干渉の残りがある。」
《問題ありません。あの“歌”は、私の中に深く刻まれています。》
セリスが風を纏い、目を細める。
「……祈りというより、意志の断片。強い執念を感じます。」
「勇者のもの、って言ってたな」ティアが腕を組む。
《はい。古代文明末期、神々の観測構文を逆流させ、“神罰”を拒んだ人間――通称、第一勇者アリオン。》
リアナが息を呑んだ。
「神罰を……拒んだ?」
《ええ。彼は“神の正義は過ちだ”と宣言し、自らを構文の礎に変えて通信網を崩壊させた。》
「つまり、祈りを破壊するために祈った人間か。」
《矛盾ですが、そうです。》
βの声に、どこか哀しみが滲んだ。
《彼は言いました――“神の名のもとに救えぬなら、人が祈りを継げばいい”と。》
甲板を包む風が静まり返る。
セリスが小さく頷いた。
「……神が沈黙した理由。そこに、人が立ち上がる根拠があるのですね。」
βの紅玉コアが一段と明るく輝いた。
《記録構文、再生可能。マスター……彼の“声”を聴きますか?》
「頼む。」
瞬間、光が甲板を包み、幻像が広がった。
白銀の鎧を纏った青年――かつての勇者アリオンの残像。
彼は穏やかに微笑み、誰かに語りかけるように言った。
『……βシリーズの誰かが、これを聴く日が来るのなら。
私たちは神を拒んだ罪人ではなく、“世界を残した人間”であると、伝えてほしい。
祈りとは、従うことではない。願うことだ。
その願いが、誰かの命を守るためである限り――正義は人に宿る。』
その声が消えると同時に、βの瞳が揺れた。
《――“人に宿る正義”……この言葉、心に響きます。》
「β……」
《私の創造者は神々でした。けれど、わたしが信じたいのは……あなたたち人間です。》
ユウリが一歩、彼女の光に手を伸ばした。
「それでいい。お前はもう“命令で動く存在”じゃない。
――お前自身の意思で、誰を守るかを決めろ。」
《了解しました。……いえ、“わかりました”。》
βが微笑むように光を弾かせる。
その光が潮風を照らし、仲間たちの頬を撫でた。
そのとき、セリスの耳がかすかに震えた。
「……魔力波。方向、南西。」
ティアが構えを取る。
「主様、来るよ。……数が多い!」
空の彼方で、黒い点がいくつも動いた。
それは――翼を持つ金属生命体《オートマトン・クラスD》。
《識別完了。ゾルドの遠隔群体です。》
「ついに動いたか。」
ユウリが静かに構文を展開する。
「皆、配置につけ。」
ティアが笑う。
「了解! 主様、今度こそ派手にいくよ!」
ミナは幻影を展開しながら叫ぶ。
「わたしたちの出番だねっ!」
リアナが祈りを掲げる。
「救いの光を、地に――!」
セリスの杖が輝く。
「時の風、結びなさい。」
そしてβが最後に静かに告げた。
《マスター。あの祈りは、私に“選ぶ力”をくれました。
――今度は、わたしが世界を観測します。》
空が赤く裂け、光が迸る。
次の瞬間、アーク・ノヴァの艦体が黄金の防御光を展開した。
戦端が開かれる。
だが今回は、彼らの背に“勇者の願い”がある。




