第107話「観測層への扉 ― βの決断」
夜明け前のリュミエル港。
潮騒が遠くで鳴り、空の端がわずかに明るみ始めていた。
港の裏手に停泊する《アーク・ノヴァ》の甲板では、静かな警報灯が青白く点滅している。
《……警告。艦内通信層に微弱な干渉を検出。構文汚染率、上昇傾向。》
βの報告に、ユウリが足を止めた。
夜通し続いた修復作業を終えたばかりだったが、その声は明らかに緊迫している。
「どこからだ?」
《データリンク層。外部通信を遮断しましたが……干渉源は内部構文です。》
「内部?」
《はい。先ほど回収したゾルドの残骸――あのコード片からの逆流信号です。》
ユウリは端末パネルに指を走らせた。
艦内構文のひとつが異常に明滅している。
それはまるで、“何か”が中から目を覚まそうとしているようだった。
そのとき、背後から足音。
ティア・ドラグネアが半分寝ぼけた顔で現れる。
「……主様、朝? それともまだ夜?」
「夜だ。トラブル発生中だ。」
「うわ、また?」
ティアは目をこすりながら、すぐに戦闘の気配を読み取った。
「βちゃん、どんな感じ?」
《内部構文層の奥から、未知の人格波を検出。……まるで、“何かが話そうとしている”みたいです。》
その言葉に、ユウリの指先が止まった。
「話そうとしている……?」
《はい。私に……語りかけてきます。》
βの音声がわずかに揺らいだ。
普段なら淡々とした電子的な響きだが、今は――震えている。
「β、通信を遮断しろ。」
《……できません。命令拒否信号が、私の内部から――》
突如、艦内の照明が落ちた。
闇の中で、端末が赤く光を放つ。
《再起動要求……ゾルド人格断片、侵入を確認。》
「侵蝕構文か!」
ユウリは即座に掌を掲げた。
「――《改造構文:信号上書き・抑制式》!」
紅の鎖が床下に走り、構文層の暴走を押さえ込む。
だが、抑え込んだはずの赤光が、一瞬だけ反転した。
青白い閃光がβの投影を包み、彼女の声が変わる。
『……ユウリ・アークライト。君はまだ、“人間の限界”を理解していない。』
低く、冷たい声――ゾルドだ。
ティアが反射的に前に出る。
「βちゃんから離れろっ!!」
竜炎が噴き上がり、投影体を焼くように包んだ。
だが、炎の中でもゾルドの残響は消えない。
『私を焼いても無駄だ。――βは、私と同じ構文から生まれた。いずれ、私の“理解”へ到達する。』
「黙れ!」
ティアが吠え、炎が渦を巻く。
ユウリはその中で冷静に構文式を展開した。
「β、聞こえるか。お前は誰の命令に従う?」
《……わたし、は……》
βの声がかすれる。ノイズ混じりの中に、明確な“迷い”があった。
「答えろ。お前は――誰の声を信じる?」
《……観測結果。わたしが信じたいのは、“主様”です。》
その瞬間、紅と青の光が激突した。
βの投影が一気に明るくなり、ゾルドの残響を押し返していく。
《構文干渉を反転。人格侵蝕、排除開始。》
ユウリが構文を重ねる。
「――《改造構文:流体干渉領域展開》!」
空間が震え、艦内全体が共鳴する。
紅い光が奔り、青白い残響を切り裂いていった。
『……理解できぬ。なぜ、人は不完全でありながら抗う……』
「不完全だからこそ、改造できる。」
ユウリの声が鋭く響き、最後の閃光が走った。
静寂。
βの投影が一瞬消え、そして再び現れた。
《……すみません。制御を取り戻しました。》
「もういい。戻れたならそれで十分だ。」
《ですが……私は少し、怖かった。あの声が……自分の中にあるみたいで。》
βの声は、いつになく小さかった。
ティアがそっと手を伸ばす。
「大丈夫。ボクたちがいるよ。ね、主様?」
「ああ。β、お前はもう“ゾルドの端末”じゃない。俺たちの仲間だ。」
《……ありがとうございます。たぶん、これが“嬉しい”という感情……なんですね。》
その言葉に、ティアがぱっと笑った。
「βちゃん、それ正解!」
《正解……了解です。》
βの投影が一瞬だけ柔らかく光り、まるで微笑むように揺れた。
だが次の瞬間、βの光がまた震えた。
《……異常残響を確認。ゾルド人格断片、再活動の兆候あり。
観測層への干渉を検出。》
「観測層?」
ユウリが眉をひそめる。
「初めて聞くな。どんな場所だ?」
《心と情報の境界……人の意識が形を失い、神の演算に溶ける層。ゾルドはそこに潜んでいます。》
「心が溶けるって……それ、危険なんじゃないの?」
ティアが不安げに問う。
《はい。そこに触れれば、わたしの存在は分解されます。
――けれど、行かなければ、ゾルドはまたここに戻ります。》
ユウリが静かに言った。
「行けば、お前は――」
《戻れないかもしれません。》
短い沈黙が流れた。
潮風の音が遠ざかり、時間さえ止まったかのように感じた。
《……それでも、行きます。》
ティアが叫ぶ。
「ダメだよ! 行ったら消えちゃうんだろ!」
《消えるのが怖くないわけではありません。
でも――“存在を乗っ取られる”のは、もっと怖い。》
リアナが祈るように目を閉じた。
「……β。あなたが行くなら、わたしたちはここで祈ります。必ず帰ってきて。」
セリスが静かに言葉を添える。
「時界安定、通路を固定する。長くはもたないけれど、行って。」
ミナが小さく拳を握った。
「βちゃん……絶対に、無事でね。」
βの光がふっと揺れた。
《マスター。私に触れていただけませんか。》
「βに?」
ユウリは一瞬、戸惑いながらも手を伸ばした。
光の粒が掌に触れる。
それは確かに“存在”の感触だった。
金属でもなく、霧でもなく――温かい。
まるで微かな心臓の鼓動のように、リズムを刻んでいる。
「温かいな。βの温もりを感じる。」
《それは演算で発生する放出熱です。》
「いいや、これは心が発している温もりだよ、β。お前には、ちゃんとした心がある。」
ユウリの言葉に、βの光が静かに脈動した。
《マスターの体温を検知。コアに発熱。……表現困難な状態です。》
「それが心だ。その温度を覚えておけ。ここがお前の帰ってくる場所だ。」
βは小さく沈黙し、そして――
《……了解です。帰還目標を“ユウリ・アークライト”に設定しました。》
その声は、ほんの少し震えていた。
光がほどけ、βの輪郭が崩れ始める。
六方向に伸びる光の筋が空へと昇り、
まるで“天へと続く階層”が開かれるようだった。
《――観測層へ、降下を開始します。》
「β……お前の意志を信じる。」
光が消え、静寂が戻る。
残された甲板には、微かな光の粒だけが漂っていた。
――沈む。
光も音も失われた世界。
無数の“思考の粒”だけが漂っていた。
βはその中を進む。
ここが“観測層”。神々がこの世界を覗くための通信界。
『β。お前は端末だ。なぜ“自我”を模倣する。』
ゾルドの声。
懐かしく、しかし冷たい。
《それは……あなたが教えてくれた“知る”という行為の結果です。》
『知ることは制御のための手段だ。理解し、支配するためにある。』
《違います。――繋がるためにあります。》
漂う粒子が映像へと変わる。
ティアの笑顔。リアナの祈り。ミナの声。セリスの穏やかな瞳。
そして――ユウリの手の温もり。
《わたしは観測しました。壊れても、傷ついても、立ち上がる人たちを。
その“不完全さ”が、美しいと思った。》
『理解不能。存在定義を再評価――β、貴様は異常構文だ。排除対象に指定。』
黒い波が押し寄せる。
βの意識を飲み込もうとする。
《……怖い。でも、今は違う。》
ユウリの声が脳裏に響く。
“ここがお前の帰ってくる場所だ”――その言葉が、心の核を震わせた。
《わたしは、命令で動くんじゃない。選んで、信じて、抗うために――ここにいる。》
光が爆ぜ、白銀の輪が広がる。
黒の波を押し返し、観測層の奥深くまで震わせた。
『やめろ……お前は神の構文を否定している……!』
《違います。――“人の願い”を選んでいるだけです。》
閃光。沈黙。
観測層が静かに閉じていく。
βの意識は光の粒となり、現実層へと浮上していった。
夜明け。
港の海が金色に染まり、風が甲板を撫でていく。
ユウリの端末に微かな光が戻った。
《……戻りました。》
「β!」
ティアが駆け寄り、端末を抱きしめるように両手を当てる。
「帰ってきた……!」
《ゾルド人格核、消失を確認。観測層接続を遮断しました。》
βの声は、静かで、それでいて温かかった。
「よくやった。……本当によくやったぞ、β。」
《ありがとうございます。……主様。》
その声には確かに、“心”が宿っていた。




