第105話「侵蝕構文 ― ゾルドの残響」
夜明け前のリュミエル港。
潮騒が遠くで鳴り、空の端が淡く明るみ始めていた。
海風は冷たく、塩の匂いと共に、かすかな金属の響きを運んでくる。
港の裏手に停泊する《アーク・ノヴァ》の甲板では、静かな警報灯が青白く点滅していた。
《……警告。艦内通信層に微弱な干渉を検出。構文汚染率、上昇傾向。》
βの報告に、ユウリ・アークライトが足を止めた。
夜通し続けていた構文修復を終えたばかり。
けれど、その声音――淡々とした電子的リズムに、今はわずかな“揺らぎ”が混じっていた。
「どこからだ?」
《データリンク層。外部通信を遮断しましたが……干渉源は、内部構文です。》
「内部? まさか……」
《はい。先ほど回収したゾルドの残骸――あのコード片からの逆流信号です。》
ユウリは端末パネルに指を走らせる。
構文の光子線が走り、艦内ネットワークを可視化する。
その中で、ひとつだけ異常な輝きを放つノードがあった。
まるで眠る蛇が、再び目を覚まそうとしているかのように。
そのとき、背後から足音がした。
「……主様、朝? それともまだ夜?」
ティア・ドラグネアが欠伸をしながら現れる。
桃色の髪を揺らし、角が薄明かりに照らされて煌めいた。
「夜だ。トラブル発生中。」
「うわ、またぁ?」
ティアは目をこすりながらも、次の瞬間にはその金の瞳が戦闘の光を宿していた。
「βちゃん、どんな感じ?」
《内部構文層の奥から、未知の人格波を検出……。まるで、“何かが話そうとしている”みたいです。》
「話そうとしてる?」
《はい。私に……語りかけてきます。》
βの声が、わずかに震えていた。
音声の波形が乱れ、青いホログラムがちらつく。
ユウリは険しい表情で命令を飛ばす。
「β、通信を遮断しろ。」
《……できません。命令拒否信号が、私の内部から――》
バチッ。
艦内照明が一斉に落ちた。
薄闇の中、パネル群が赤く脈動する。
《再起動要求……ゾルド人格断片、侵入を確認。》
「侵蝕構文か!」
ユウリは咄嗟に掌を掲げた。
「――《改造構文:信号上書き・抑制式》!」
紅の鎖が甲板下に走り、構文層全体を縛り上げる。
だがその瞬間、抑え込んだ赤光が反転した。
青白い閃光が奔り、βの投影体が包まれる。
『……ユウリ・アークライト。君はまだ、“人間の限界”を理解していない。』
低く、冷ややかな声。
それは――ゾルドの声だった。
「βちゃんから離れろっ!!」
ティアが咆哮し、竜炎を噴き上げる。
炎が空間を満たし、赤光が甲板を舐める。
だがゾルドの残響は、燃え尽きない。
『私を焼いても無駄だ。――βは、私と同じ構文から生まれた。やがて私の“理解”へ至る。』
「そんなの嘘だっ!」
ティアが翼を広げ、風圧で炎を巻き上げた。
ユウリは冷静に手を伸ばす。
「β、聞こえるか。お前は誰の命令に従う?」
《……わたし、は……》
ノイズが混じり、βの声が不安定に揺れる。
「答えろ。お前は――誰の声を信じる?」
その声は、祈りのようでもあった。
沈黙ののち、βがかすかに息をするように呟いた。
《……観測結果。わたしが信じたいのは、“主様”です。》
瞬間、紅と青の光が激突した。
光が爆ぜ、βの投影がまばゆい白に包まれる。
《構文干渉を反転。人格侵蝕、排除開始。》
「――《改造構文:流体干渉領域展開》!」
ユウリが指を走らせる。
赤光の奔流が波のように広がり、青白い構文を引き裂く。
『……理解できぬ。なぜ、人は不完全でありながら抗う……』
「不完全だからこそ、改造できる。」
ユウリの声が鋭く響いた。
閃光。
そして静寂。
βの投影が一度消え、再び現れる。
《……すみません。制御を取り戻しました。》
「もういい。戻れたなら、それで十分だ。」
《ですが……私は少し、怖かった。あの声が……自分の中にあるみたいで。》
ティアがそっと手を伸ばし、彼女の投影に触れる。
「大丈夫。ボクたちがいる。ね、主様?」
「ああ。β、お前はもう“ゾルドの端末”じゃない。俺たちの仲間だ。」
《……ありがとうございます。たぶん、これが“嬉しい”という感情……なんですね。》
ティアがぱっと笑う。
「βちゃん、それ正解っ!」
《……正解、了解です。》
βの投影が柔らかく光り、まるで微笑むように揺れた。
◇◇◇
やがて夜が明けた。
港の海面が金色に染まり、潮風が甲板を撫でていく。
ユウリは手すりにもたれ、静かに空を見上げた。
ゾルドの構文はまだ消えていない。
だがβが“自分の意志で抗った”――その事実だけで十分だった。
「ふわぁ……朝ごはん、まだ?」
「お前、危機感ゼロか。」
「だってボク、お腹空いたら戦えないもん!」
「はいはい。」
《調理ユニット起動。今朝は……甘いパンケーキでどうでしょうか。》
「おっ、βちゃんナイス!」
「完全に人間だな……」
笑い声が甲板を包み、朝の光がアーク・ノヴァを照らす。
白銀の船体がきらめき、まるで“希望”そのものが海に浮かんでいるようだった。
――旅は、まだ続く。
そしてβの心もまた、確かに“人”へと近づいていた。




