第102話「目覚める構文」
朝焼けの港が、淡い金色に染まっていた。
潮の香りの奥に、鉄と焦げた魔力の匂いが微かに漂う。
静かな海面が揺らめき、波間を割って小舟が滑っていく。
陽光は優しいはずなのに――どこか、世界そのものが息を潜めているようだった。
ティアは桟橋の端で風を受け、じっと海を見つめていた。
波の反射が頬を照らし、瞳の奥で赤い光が揺れる。
夢の残響がまだ胸の奥でざわめいていた。
あの声――ゾルドの嘲笑。
熱に似た冷たさが、心臓の奥を叩く。
「……寝られなかったか?」
背後から、ユウリの声。
静かで落ち着いているのに、不思議と心の深いところに響く。
ティアは振り返らず、ゆっくりと首を横に振った。
「うん。なんかね、海の底が、呼んでる気がするの。」
ユウリはその言葉に目を細め、すぐさまβを呼んだ。
「β、解析を。」
《了解。……港沖約三百メートル、水深五十メートル地点にて異常魔力波を検知。周期は約九秒。》
「周期……心臓の鼓動みたいだね。」
《的確な比喩です。波形は脈動型。構文的には“意識残響”の可能性があります。》
潮風が二人の間を抜けた。
波の音が近く、まるで誰かが海の奥で息をしているように感じられる。
βの青い投影が水面に浮かび、揺れる波と共に光がきらめいた。
ティアは無意識に拳を握る。指先が震えていた。
「主様、行こう。」
「まだ危険域の解析が済んでいない。」
「でも……放っておけない。もし“あれ”がまた誰かを壊すものなら……。」
その声は震えていなかった。
覚悟だけが、潮騒に混じって響いていた。
ユウリは短く息を吐き、目を閉じた。
「……いいだろう。ただし、俺の制御下で動け。」
「了解、主様。」
ティアの唇が、微かに笑みを作った。
それは戦う者の笑み――恐れを超えた者のそれだった。
◇◇◇
港の沖。
小型の船を借りて出航する。
波は穏やかだが、風は妙に湿っていた。まるで海そのものが警告を発しているようだ。
甲板の上にβの光が浮かび、青白い解析ウィンドウがいくつも展開される。
《対象地点接近。構文層の乱れを確認。――これは……異常です。》
「どうした、β。」
《“人格複製式”の断片構造を検出。識別コードは……ゾルド・ガルバ由来。》
ティアが小さく息をのむ。
「やっぱり……あのときの“声”……。」
海面の下で何かが蠢いている。
見えない脈動が、足元の板を通して伝わってきた。
ユウリは構文を起動。掌に赤い陣が展開する。
《改造構文:流体干渉領域展開》
その瞬間、海の表面が光を帯びて割れた。
水が重力を忘れたように静止し、青い光が螺旋状に立ち上がる。
深淵の底から現れたのは、ぼんやりとした“人影”。
半透明の輪郭に、無数の符号が流れている。
それは人ではなく、構文で作られた幻像――人格の残滓だった。
『――観測開始。人格端末、起動確認。』
《警告:ゾルド人格端末、稼働率12%。自律行動を開始。》
βの声が鋭くなる。
「自律行動って……!」
《こちらの観測波を利用し、逆侵入を試みています。防壁が侵食されています!》
ユウリが舌打ちし、指を鳴らす。
「くそ、迎撃だ。ティア!」
「了解っ!」
その瞬間、海面が裂けた。
渦が生まれ、黒い柱が天へと伸び上がる。
圧力が甲板を歪ませ、木が悲鳴を上げた。
ティアの背中から炎の翼が展開する。
紅の光が海霧を焼き払い、空を朱に染めた。
琥珀の瞳が紅に変わる瞬間、彼女の呼吸が竜の咆哮と化す。
《警告:竜核共鳴率、上昇中。主様、リンクの安定を!》
「β、制御補助。」
《了解。補助構文起動――再定義接続。》
青い光の輪がユウリとティアを結ぶ。
二人の心音が重なり、波の音が止む。
「主様、いくよ!」
「ああ。燃やせ、ティア。」
紅炎が海を貫く。
渦の中心に立つ黒影が悲鳴を上げた。
『――拒絶。再定義者、貴様に“制御”はできない。』
「制御じゃない。“修理”だ。」
ユウリの構文が炸裂し、紅と黒の波が交錯する。
炎とコードが混じり合い、空間が歪む。
《リンク共鳴率、92%。干渉成功域到達。》
βの声が震える。
光が炸裂し、海が爆ぜた。
黒い影が音もなく崩壊し、海面に霧が広がる。
潮騒が戻る。
炎は消え、ただ静寂だけが残った。
ティアは膝をつき、荒い息を吐いた。胸の奥が焼けるように熱い。
ユウリが肩に手を置き、短く頷く。
「よくやった。」
ティアは微笑み、かすれた声で言った。
「……主様。あれ、消えたのかな。」
《否。人格断片の一部が、海底構文層に残留しています。》
「つまり――」
《はい。“呼びかけ”はまだ続く可能性があります。》
波間の向こう。
光の粒が、まるで心臓の鼓動のように脈打っていた。
『……解析完了。次段階、接続を開始する。』
βの光が一瞬だけ乱れた。
《……いまの、誰の声……?》
ユウリは静かに答える。
「ゾルド本人じゃない。もっと深い――構造層の声だ。」
ティアは夜明けの空を見上げた。
太陽がゆっくりと昇る。
金と紅が交じり合い、世界の輪郭を照らし出す。
だがその光の奥で、確かに――何かが目を覚まそうとしていた。




