第101話「波間の囁き ― ゾルドの影、再び」
――夢を見ていた。
音も色も、世界が薄い膜の向こうに沈むような感覚。
砂のように散る光が海面を覆い、静かな波が胸の奥で鳴っていた。
風が吹く――それは潮の匂いではなく、鉄の味を含んだ風。
そして、耳の奥で、低い声が囁いた。
『……目覚めろ。竜の血に選ばれしもの。』
ティアは反射的に振り返った。
そこには何もない。けれど、声だけは確かにあった。
氷のように冷たい、あの男の声。
『お前の主は“再定義者”。再生を掲げる者。だが――再生とは、破壊の果てに生まれるものだ。』
『お前の炎は、再び“秩序”に還る。』
白い霧の向こうに、ひとつの影が浮かび上がった。
片方の瞳だけが青白く光り、機械のように冷たい。
ゾルド・ガルバ――かつて滅びたはずの、古代の改造兵。
「……ゾルド……!」
名を呼んだ瞬間、波が弾け、周囲の光が崩れ落ちた。
潮の匂いが強くなる。
だがそれは海ではなかった。血と油の混じった臭気。
『――この世界はまだ、終わっていない。』
ゾルドの声が、彼女の心臓を叩いた。
『再定義は、再誕ではない。上書きだ。いずれ“彼”も――俺と同じになる。』
「主様が……あんたと同じになるわけないっ!」
ティアの叫びが闇に吸い込まれる。
だが返るのは、冷たい笑い声だけだった。
『ならば、確かめるがいい。お前の竜核に、私の残滓はもう刻まれている。』
『――次に目を覚ます時、それが証明される。』
視界が裂けた。光が弾ける。
ティアの身体が宙に投げ出され――
――目を開けた。
息を吸うと、胸が焼けるほど熱かった。
冷たい汗が背を伝い、寝具が肌に張り付いている。
港の夜は静かだ。波の音が遠くで囁く。
月明かりが薄く差し込み、βの光が枕元で淡く脈動していた。
《……異常心拍を検知。ティア様、睡眠状態からの急激な覚醒を確認。安静を推奨します。》
「……ううん、大丈夫。ちょっと……夢を、見ただけ。」
《夢、ですか。内容の報告を求めても?》
「……だめ。言葉にしたら、壊れそうだから。」
《了解。記録保留モードに移行します。》
βの光が一度だけ弱まった。
ティアは額の汗を拭いながら、小さく笑った。
「β……あなた、夢を見ることってあるの?」
《定義上は“不可能”です。しかし――観測していない映像を思い浮かべることはあります。》
「それって、“夢”じゃないの?」
《……たぶん、そうです。》
淡い光の揺らめき。
βの声が少しだけ柔らかくなっている気がして、ティアはそのまま目を閉じた。
だが次の瞬間、部屋の外で微かな振動音が響いた。
金属が擦れるような音。
ドアの前で、ユウリの声がした。
「……起きてたか。」
「主様……?」
「βが異常波を拾った。上空から、微弱な通信が続いている。」
ユウリの瞳は眠気の色をしていない。
βが空中に光を広げると、青い波形が部屋を照らした。
周期的な脈動――それは確かに“声”の形をしていた。
《解析中……一致パターン検出。人格複製式《ゾルド・モードA》の断片です。》
「……またか。」
《はい。強度は低下していますが、構文構造は明確。》
ティアの背中を冷たいものが走った。
あの声。夢の中と同じ。
「……夢で、聞こえたの。ゾルドの声……」
「夢じゃなかったってことだな。」
ユウリの言葉に、βの光が強くなる。
《通信波形に“人為的意志”を確認。命令形式ではなく――》
《――“呼びかけ”です。》
「呼びかけ?」
《はい。“複製体”を通じ、共鳴波を拡散しようとしています。ティア様の竜核波形と共鳴値が近い。》
ティアは唇を噛みしめた。
胸の奥で熱が揺れている。
まるで、竜の血そのものが応答しているようだった。
「……まさか、私の中に……あいつの構文が、まだ……?」
「可能性はある。」ユウリは短く答える。「けど、問題じゃない。」
「問題じゃ……ない?」
「残滓だろうが何だろうが、“改造”すればいい。俺が。」
ティアは目を見開いた。
その声音に、一切の迷いがなかった。
ユウリの言葉が、燃えるように胸に落ちる。
βの光がわずかに揺らいだ。
《……主様の発言により、対象ティアの安定指数上昇。心拍、正常域に回復。》
その声が、ほんの少し震えていた。
「β、今の気持ちを記録しておけ。」
《……はい。“安心”というタグを、新規追加します。》
ティアは俯き、唇を結んだ。
「……ありがとう、主様。」
「礼はいい。休め。」
そう言って、ユウリは窓の外を見やる。
港の沖、夜の海面がわずかに光った。
青白い閃光が一瞬走り、波に映る。
それは稲妻ではなく――構文干渉の光だった。
《通信断裂を確認。干渉源、完全消失。……ですが、深層波に“残響”が残っています。》
「残響?」
《はい。まるで“心臓”の鼓動のように、一定の周期で――》
βの言葉が途切れた。
海面の下、暗い闇の奥。
確かに何かが、ゆっくりと蠢いていた。
『――再定義の子よ。次は“深き声”で話そう。』
βの光が一瞬、乱れた。
《……いまの、録音されました。発信源――港の海底。》
「……ゾルドの端末か。」
ユウリは低く呟いた。
その横顔を見て、ティアは拳を握る。
不安よりも、怒りよりも、
――護りたい、という気持ちのほうが強かった。
《観測ログ更新:主様、ティア様、感情波形共鳴。共鳴率87%。》
《この数値……とても、きれいです。》
βの声が少し震え、
ティアは笑った。
「端末ちゃん、ありがと。」
《……どういたしまして。たぶん。》
港の灯りが波に揺れ、
その下の海底で、光の筋が蠢いた。
ゾルドの“残響”――人格の亡霊が、再び世界に触れ始めていた。




