第100話「風の下の微睡み ― βの記録する“ぬくもり”」
港の朝は、昨日より少しだけ騒がしかった。
魚を積んだ荷車の列が通りを埋め、桶を叩く音や値切りの声が潮風に乗って飛んでくる。
スープ屋台の香辛料と焼き魚の匂いが混ざり合い、空気が目覚めるようだった。
宿の前で、ユウリはゆっくりと息を吐く。
遠くでマストが軋み、帆が風を受けて鳴る。
港の喧噪の中にいても、心の奥は不思議と静かだった。
“生きている音”がする――そう感じた。
ティアたちは早起き組と遅起き組に分かれていた。
ミナは焼きたてのパンをくわえ、口いっぱいに頬張りながら尻尾をぱたぱた振っている。
リアナは宿の女将と談笑しつつ、昨日の食事代をきっちり計算して支払っていた。
セリスは二階の窓辺に立ち、潮風を胸いっぱいに吸い込んでいた。
長い翠の髪が陽に透け、微かにきらめく。
「……風が、少し違う。」
静かな一言。
βの光点が宿の影で淡く点滅した。
《観測ログ更新。風向きは安定。ですが――微弱な魔力波の混入を検知。自然由来か、人為かは未確定です。たぶん》
「たぶん、か。」
ユウリは目を細めて言う。
「β、港の南区を監視しておけ。過剰な干渉があれば報告を。」
《了解。監視レベルを“軽度警戒”に設定。主様の言う“過剰”の定義、再確認を希望します》
「……血の匂いが混じったら、だ。」
《記録更新。“血の匂い”=危険基準、承認。》
短いやり取りの後、潮風が二人の間を抜けた。
ティアはその様子を見て、目を細める。
昨日より、ずっと柔らかい空気。
ユウリとβの声が、冷たい命令ではなく“人と人の会話”に近づいていた。
ミナがパンを食べ終えると、口の端に粉をつけたまま駆け寄ってくる。
「主様! 今日は何するの?」
「見て回るだけだ。休養日だぞ。」
「じゃあ魚市場! 魚市場行こう!」
「……もう行く気満々じゃないか。」
リアナが笑いながら肩をすくめた。
「こういう日があるのも大切ですよ。心が弛まなければ、魔力も歪みますから。」
彼女の穏やかな声に、港のざわめきが少し和らいで聞こえる。
ティアは少しだけ考えて、小声で言った。
「主様……今日も、隣を歩いていい?」
「好きにしろ。」
「……うん。」
そのやり取りを、βは記録していた。
《感情タグ:安堵、共鳴、幸福。平均心拍、安定。》
βの音声に、どこか誇らしさのようなものが混じっていたのを、ティアは感じた。
◇◇◇
市場はまるで海そのものが溢れ出したように活気づいていた。
魚を並べる音、塩を撒く声、焼き串の煙が陽光を霞ませる。
ティアが興奮気味に指をさした。
「主様、見てあれ! 貝の飾り! ミナ、見て見て!」
「きらきらしてる……でも値札もきらきらしてる……」
「う、うわ、高っ!」
「お土産にいいけど……主様、買ってもいい?」
「予算内ならな。」
「やった!」
ティアが駆けていく背中を見て、リアナが微笑む。
「子どもみたいで、見ていて飽きませんね。」
「子どもだからな。」
ユウリの答えに、リアナがふふっと笑った。
セリスは一歩離れ、潮風の方へ顔を向けていた。
「潮の音が……ざわめいてる。」
リアナが問いかける。
「精霊の声?」
「……違う。たぶん、“記録”が歌ってる。」
《補足:風系統の魔力波、一定周期で再現信号を確認。人工的模倣の可能性あり。》
βの報告に、ユウリは短く息を吐く。
「また、“似せて作った構文”か。」
《はい。強度は低いですが、パターンは既知の人格複製式に似ています。》
ティアが立ち止まり、拳を握る。
「……ゾルドの、残りかす?」
《断定はできません。けれど、“意志のない模倣”という点では近いです。》
潮風が一瞬止み、ティアの髪が頬に貼りつく。
昨日までの笑顔がわずかに曇った。
「……あいつの“作ったもの”が、まだ漂ってるの?」
「風に紛れてるだけだ。放っておけ。」
ユウリの低い声が、彼女の肩の力を抜かせる。
「今は休む日だ。」
「……はい。」
ティアはそれでも、遠くの海を見ていた。
波間の奥、誰かが呼ぶような錯覚が胸の奥に残る。
◇◇◇
昼下がり。
宿の屋上は日差しが白く、潮風が布をはためかせていた。
βが手すりの上で淡い光を灯しながら、一定のリズムで声を発する。
《記録整理中。市場での会話データ、幸福タグ上昇率:前日比148%。》
「β、それ数値化する意味あるのか?」
《はい。……たぶん。》
「“たぶん”が便利すぎるな。」
《ですが、言葉を丸くするのに便利です。主様もよく使います。》
「……使ってない。」
《使ってます。ログ検索結果、主様の“かもな”“まあいい”は、“たぶん”と同意語です。》
ユウリが苦笑し、風に髪を揺らした。
その笑い声を、潮風がさらっていく。
ティアはそれを見て、小さく微笑んだ。
“主様の笑顔”、それだけで胸の奥が熱くなる。
βが小声で続ける。
《補足ログ:主様の笑顔、観測頻度、増加傾向。……うれしい、です。》
誰もそれを指摘しなかった。
ただ、潮の音が静かに拍手のように鳴っていた。
◇◇◇
夜。
港の灯りが消え、潮風だけが窓を叩く。
βが淡く輝きながら、報告を上げた。
《観測層通信を検出。発信源は上空二百メートル。……内容、不明瞭。》
声が一瞬だけ震えた。
《この波形、どこかで――》
ノイズが走る。
《――β、構文不整合を確認。制御再調整……すみません、勝手に喋っていました……》
ユウリはすぐに目を開けた。
「β、再起動ログを送れ。」
《了解。……主様、これ、風じゃありません。上から来ています。》
ユウリは立ち上がり、窓の外に視線を向けた。
夜空の切れ間、遠くで青白い光がまたたいた。
それは一瞬だけ波を照らし、そして消える。
隣の部屋から、ティアの寝息が聞こえた。
ユウリは短く呟く。
「……ゾルド。やっぱりお前は、生きてるか。」
潮風がカーテンを揺らした。
静かな夜の中で、βの光がかすかに脈動した。
その鼓動は――まるで“街”そのものが息をしているようだった。
100話達成しました。お話しはまだまだ続きます。これからもよろしくお願いします。
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