8.最強の壁に
――最強の防壁。
魔物が多く棲む森と隣り合わせの領地を持つ伯爵家は、屈強な騎士団を抱えていた。
最強の二つ名をいただく騎士団とそれを率いる父はシャロンにとって誇りであり、いずれは自分も父の横に並び立つのだと夢見たものだ。
『シャロンはもうここまで肉体強化術が使えるようになったのか!』
『こんなに大きな斧だって持てるのよ!』
『さすが俺の娘だ。でも、もう少し女の子らしくしてもいいんじゃないかな』
『お父様はそのほうが好き?』
『いいや、お父様はどんなシャロンも大好きだよ』
抱き上げる腕が、頭を撫でる手が、頬ずりでチクチク刺さる髭が好きだった。長じて同年代の女の子たちより頭ひとつ大きくなっても、父の背中はずっと大きいままで。
国から遠征を命じられた日、同行を申し出たシャロンに父は最後まで首を縦に振らず、出発前夜は喧嘩のようになってしまった。
『……これ』
『おや。刺繍も上手くなったものだな。これがあれば百人力だ。ありがとう』
不貞腐れて目も合わせないシャロンの額に、父が控えめなキスを落とす。愛してるよとの父の言葉にアタシもと答えたのは、大きな背中が見えなくなってからだった。
薄桃色のハンカチを大切そうに懐へ仕舞う父の手を見つめたまま、頑なに顔を上げなかったあの日の己を嫌悪している。
父親が帰って来たのはそれから数ヶ月後のこと。簡素な箱に入った父は、運搬のための保存魔法がかかっているはずなのに幾分か小さくなったように見えた。
討伐対象はバルバーソという名の魔族だったらしい。
獅子奮迅の働きだった。彼がいなければ全滅だった。彼のおかげで魔族を追い払えた。命を賭して平和を守り切った彼は我が国の英雄だ。
誰もが口々にそう言った。英雄になんて、ならなくてよかったのに。
喪も明けない頃、ピエドラ家に陞爵の話が、さらにシャロンへ婚約の打診が、ほぼ同時にやって来た。
守り神たる「最強の防壁」を抱え、魔族を追い払う英雄を輩出したピエドラ家に褒賞を、という話らしい。
母はそれを他家による乗っ取りだと言って嫌がった。
どうやら陞爵を力強く後押ししたのが、他でもないシャロンへ婚約を持ちかけた侯爵家とその分家らしい。
シャロンは、喪が明けぬうちからそのような話をされたことに不快感を覚えこそすれ、家を存続させるためなら仕方のないことではないか、と考えていた。
が、真面目で潔癖な母には受け入れがたいことだったらしく、どちらの話も辞退することとなった。父が生きていれば頷かないだろうとの母の言葉に、シャロンも一定の理解を示して。
ありもしない母の醜聞がまことしやかに囁かれるようになったのは、そのすぐ後のこと。蝶よ花よと育てられたお嬢様だった母は、社交界に溢れる虚構と悪意に潰されるのも早かった。
意に添わぬ、女しかいない家を潰すのはさぞ簡単だったことだろう。
『母はお父様を愛しているのよ、他の男なんて知らないの。信じてちょうだい』
『わかってるわ』
『わたくしは魔族と通じてなんていないの!』
『大丈夫、わかってる。だからそのナイフを置いて、お母様』
母の最期の言葉は「おやすみなさい」だった。
いつもと同じ夜だと思ったのに、いつもと違う朝がきた。いや、父が物言わぬ姿で帰ったあの日から、同じ朝など一度も来なかったのだろう。
シャロンは震える字で書かれた「ごめんね」の書き置きをその場で火にくべ、母を弔うとすぐに家を出た。シャロンのような若い娘ひとりで汚名を雪ぐのは不可能と判断したためだ。
持ち物は母の遺した手鏡ひとつだけ。
少しの金銭と引き換えに、母の病状を度々外部へ漏らしたメイドがいるのを、シャロンは知っている。隣国まで安全に送り届けると言いながら、執事が己を女衒に売りつけたことにも気付いている。
伯爵家が立ち行かなくなった以上、彼らが生きるために金銭を欲することは自然の道理だ。恨めしい気持ちがないとは言わないが、まだ納得できる。
理解できないのは――政治的な陰謀を、母に告げ口した男である。
清廉な男だと聞いたことがある。曲がったことが嫌いで、貴族の世界は向かないと言って爵位継承権を早々に弟に譲ったらしいとも。
その男が母に近づかなければ、箱入り娘だった母は何も知らず全て受け入れていただろうに。少なくとも、いわれのない悪意に晒されて心を壊すことなどなかっただろうに。
絶対に許さない、あの男だけは。
ファヴがネネユノの時間停止ではなくクローの拘束術を指示したのは、頭を冷やせと言いたいのだろう。
シャロン自身も、あれが父ではないことくらい理解している。
だからといって、父を切れるかと言えば無理だ。父が苦しむ姿を見て黙っていられようはずもない。終わったら軍法会議は免れないだろうが――。
「――ひっ」
「トルヴァルドーッッ!」
少しでも冷静にならんと目を閉じて深呼吸を繰り返していたシャロンの身体に、何かが覆いかぶさった。さらにクローの絶叫が響き渡る。
シャロンが恐る恐る目を開ければ、そこには土気色の顔をしたトルヴァルドがいた。自身の身体を支えることもできないまま、ずるずると崩れ落ちていく。
さらに視線を上げれば父がシャロンを見下ろしている。父の姿をした亡霊がトルヴァルドの生気を吸い尽くしたのだろう。さらに言えば、トルヴァルドがシャロンを守って身代わりになったことは想像に難くない。
シャロンが絶対に許さないと誓った、あの男が。
「あ……。トルヴァ……」
「クロー、トルヴァルドを生かすからアイツを引き剝がして!」
「任されたぜ、ユノちゃん!」
目の前でトルヴァルドの身体が青い光に包まれる。ネネユノの時魔法だろう。
時魔法は死者を蘇生することはできないと聞く。トルヴァルドはまだ生きているのだろうか?
ヨナスは聖魔法を詠唱し直しているが、杖に集まる魔力はまだ小さい。
クローは得意の炎系魔術で父の注意を引いたようだ。魔術師がヘイトを取るなんて自殺行為なのに。そう、自殺行為なのだ。まさに今、父は炎弾を受けながら反撃の隙を窺っている。
このままではクローが殺され――。
「ねえ、シャロンはパパが好きなんでしょっ? だったらパパを守ってあげてよ! あんな魔物にパパを侮辱させとかないでよ!」
どこか幼さの残る涙声だ。
そう。父は誇り高い騎士だった。
『我々は防壁なんだ。防壁とは民を、仲間を守るためにある。それをゆめゆめ忘れてはいけないよ』
シャロンはひとつ大きく頷いた。
「そう。アタシはお父様みたいな堅く強い壁になりたかったの」




