5.最初の戦闘
ぽつんとひとり残されたネネユノは、少しずつオレンジに染まり始めた空を見上げた。綿のような雲が形を変えながら流れていく。
――ネネユノ。時魔法が使えることは誰にも言ってはいけないよ。
――本当の名前は誰にも教えちゃダメ。わかった?
「パパ……ママ……」
懐かしい声が思い出され、ネネユノは足元の石をカラコロと蹴り飛ばした。
時魔法は歴史書の中にその存在が記録されるのみで、世間一般では「伝説」あるいは「創作」だと言われている。
その歴史書によれば、時魔法を極めると世界そのものの「時」を止めることもできるらしい。その真偽はともかくとして、そんな力があると知られたらどうなるか、孤児院育ちのネネユノでさえ考えずともわかる。
だから「ヒーラー」だと嘘をついて冒険者になった。患部を「負傷する前」に戻せばいいだけなのだから、時魔法は癒し手に最適な能力だ。
しかし蜂毒にしろニキビにしろ、発生から時間がたった症状は困る。患部だけを2日も前の状態に戻すなど、かなり繊細な調整が必要になるのだ。
アカロンに関しては、早くしろと殴ってきたから面倒になって、調整範囲を少し広げてしまった。彼が蜂に刺されたのはへその下あたりだが、仮に全身まで広げたとしても3日分戻した程度なら大きな影響はないだろう。恐らく。
「ん?」
先ほど蹴り飛ばした石ころがネネユノの足元に戻って来た。
見渡す限りの野っ原で打ち返してくれるような壁はないはずだ。もちろん、この石ころが先ほどのものと同一という保証はないのだが、大事なのはそこじゃない。なぜ石が転がってきたのかだ。
ゆっくり顔を上げたネネユノは、見知らぬ大猿と目が合った。知性を感じさせない濁った赤い目の猿だ。それがキェヘヘと変な笑い声をあげてネネユノに向かって石を投げたのである。
再び足元に転がった石に気をとられた瞬間、周囲が暗くなった。
「しま――っ!」
猿が真上に飛びあがったのだと頭では理解したが、瞬時に対応できるほどの経験値がネネユノにはない。彼女にとっての武器である懐中時計はベルトに下げたままだし、それに……時魔法を時魔法とわかる形で使っていいのかと、躊躇してしまったのである。
冒険者は一瞬の判断で命を落とす。それは耳にたこができるほど聞かされたはずなのに。
「ユノ!」
ぎゅっと頭を抱えたネネユノの脇腹に小さな衝撃が走る。と同時に視界がぐるんと回転した。
どうやら抱きかかえられたらしいと理解したときにはもう降ろされ、元いた場所には猿だったものがぐちゃりとふたつに割れて落ちていた。その脇には斧をくるくる回すシャロンの姿が。
「クロー、2時!」
「わかってるよーっと……おらよ!」
どうやら少し離れたところにも猿型の魔物がもう1体いたらしい。が、そちらも大きな火柱があがって一瞬で片付いてしまった。さすがエリート集団である。
「無事だな?」
「ははははい! ありがとうございますっ」
ぶんぶんと勢いよく頷いて見せると、ファヴも頷き返して周囲を見回した。
その間にネネユノは猿だったものの残骸を枯れ枝でほじくる。猿型の魔物はキラキラ光るものを集める傾向にあり、金貨銀貨や宝石類を溜めこんでいることも少なくないのだ。
と、何か光ったかと思うと即座にそれをシャロンが拾い上げる。ぐいと突き出すようにしてファヴに押し付けたそれは、平たいタグのついたネックレスであった。
「ねぇ、またネームタグよ。嫌になっちゃう」
「また?」
「そう、また」
また、という言葉に引っ掛かりを覚えたが、シャロンはそれ以上説明するつもりはないようだ。
ファヴたちがいなければネネユノはここで死んでいた。それくらい冒険者にとって死は身近なものだ。それこそ、落ちてるネームタグを集めれば鎧が作れるなどという冗談が流行るくらいに。
それを「また」と気にするのが、ネネユノにはなんとなく不可解であった。
「これは冒険者のタグだな」
「冒険者じゃないタグもあるんですか……?」
「元はオレたちみたいな正規兵がやってたんだよ。それをなんでか知らんけど冒険者たちが真似たんだよな。冒険者なんてほとんどが根無し草だろうに」
クローはそう言いながら冒険者と正規兵のネームタグの違いを丁寧に解説する。
素材が劣悪なのが冒険者、彫りが荒いのが冒険者、チェーンがごついのが冒険者。端っこにドラゴンが彫ってあるのが冒険者。聞いているうちに胸が痛くなって、ネネユノは耳を塞いだ。
冒険者はドラゴンが大好きであり、ネネユノも例に漏れないのである。
「――っ?」
ファヴがネームタグの汚れを拭ってポケットにしまったとき、突然ネネユノ以外の3人が武器を構えて戦闘態勢に入った。ネネユノだけが状況を理解していない。
もちろん3人の表情も理解しているとは言い難い表情だ。ただ不安、恐れ、緊張……そういったものが綯い交ぜになったような、そんな顔をしている。
「な、なんですか。どうしたの」
「こちらから姿は見えないが、近くに魔族がいる。恐らくこっちを見ている」
「……すごい圧迫感だ」
「アタシたちここで死ぬかもね」
魔族。
たった今現れた大猿や、ダンジョンなどにひっきりなしに湧いて出るスライムなどを魔物あるいは魔獣と呼ぶのに対して、人間と同等の知能を持つ魔を魔族あるいは悪魔と呼ぶ。
数こそ少ないが永遠に等しい時を生き、その力は強大――と説明してくれたのはギルドのベテラン冒険者だったはずだ。その時ネネユノは「おとぎ話でしょ?」と気にも留めなかったのだが、まさか実在するとは。
さらにそれが、今ここでこちらを見つめているとは。
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