第7話:美術準備室の悪夢!…って、私、こんなことしてる場合じゃないのに!
夕闇が濃くなり始めた旧校舎は、昼間とは打って変わって、まるで異界への入り口のような不気味な静けさに包まれていた。私と冬城は、息を殺して美術準備室の古びた木の扉の前に立っていた。扉の隙間からは、じっとりと重く冷たい空気が漏れ出し、私の細い肩を震わせる。思わず自分の両腕を抱きしめたが、鳥肌は収まらない。
「…本当に、入るの?なんか、ここ…すっごく嫌な感じがするんだけど…」
思わずか細い声で尋ねると、不意に背後から優しい声がかかった。
「夏海さん?それに、冬城くんも。こんな時間に、旧校舎で何をしているんだい?」
振り返ると、そこには少し驚いたような、そして心配そうな表情を浮かべた秋月先輩が立っていた。手には、部活動で使ったらしい画材道具の入ったバッグを持っている。
「せ、先輩!?」
まさかこんな場所で先輩に会うなんて!私の心臓は、恐怖とは別の意味で、ドクンと大きく跳ね上がった。顔が熱くなるのが分かる。きっと、夕焼けのせいだけじゃない。
「いや、その…ちょっと、美術準備室に忘れ物をしたみたいで…」
しどろもどろに言い訳をする私。隣の冬城は、相変わらず表情一つ変えずに先輩に会釈している。この男のポーカーフェイス、本当にどうなってるのよ!鋼鉄の心臓でも持っているのかしら。
先輩は、私たちの様子と、美術準備室の扉から漏れ出す異様な雰囲気に気づいたのか、眉を寄せた。その整った眉が、心配そうに少しだけ歪む。
「美術準備室…?あそこは、あまり良くない噂があるから、暗くなってからは近づかない方がいいと思うけど…。何か、困っていることがあるなら、僕で良ければ力になるよ?」
その真摯な眼差しと、包み込むような優しさに、私の心はグラグラと揺れる。本当のことを話してしまいたい。この得体の知れない転校生に無理やり協力させられているって。でも、先輩をこんな危険なことには巻き込めない…!それに、私の家のことなんて、絶対に知られたくない。
「だ、大丈夫です!本当に、ただの忘れ物なので!先輩こそ、お気をつけて!」
私は、必死で笑顔を作ってそう言うと、冬城の腕を掴んで、半ば強引に美術準備室のドアを開けた。先輩の心配そうな視線を背中に感じながら。冬城の腕は、思ったよりも硬くて、少し冷たかった。
美術準備室に一歩足を踏み入れた途端、カビ臭い絵の具の匂いと、形容しがたい淀んだ空気が、私たちの体に纏わりついてくる。懐中電灯の頼りない光が照らし出す室内は、石膏像やイーゼルが不気味な影を落とし、まるで悪夢の中に迷い込んだかのようだ。壁一面に飾られたデッサンや油絵の人物たちが、こちらを嘲笑っているようにさえ見える。特に、部屋の奥、一番目立つ場所に飾られた「呪われた少女の肖像画」は、言いようのない圧迫感で私たちに迫ってくる。描かれた少女の瞳は、暗闇の中でギョロリと動き、まるで生きているかのように私たちを捉えた。
「ひぃっ!」
思わず小さな悲鳴を上げ、私は反射的に冬城の腕にギュッとしがみついていた。彼の腕は、制服越しでも分かるほどに硬くて、そして意外にも少しだけ温かかった。彼の纏う、石鹸のような、どこか冷たくて清潔な香りが、恐怖で混乱した私の鼻腔を微かにくすぐる。
「…離れろ。邪魔だ。それに、そんなに強く掴むな、痛い」
冬城は冷たく言い放つが、その声にはほんの少しだけ、動揺の色が混じっていたような気がしたのは、私の気のせいだろうか。それとも、私の恐怖が伝染した?私は慌てて彼から離れたが、まだ心臓はバクバクと暴れていた。彼の白いシャツの袖口から覗く手首が、やけに目に付いた。
突然、室内の温度が急激に下がり、棚の上の絵筆やパレットナイフがガタガタと激しく揺れ始めた。床がきしみ、壁からは不気味な囁き声のようなものが聞こえてくる。ポルターガイスト現象だ!
「来るぞ!気を抜くな!」
冬城の鋭い声と同時に、肖像画の中から、黒い霧のような不定形の塊が、ゆっくりと、しかし確実にその姿を現した。「姿なき吸精鬼」――それが、緋和や他の生徒たちを苦しめているマガツモノの正体。それは実体を持たず、ゆらゆらと揺らめきながら、部屋の中を漂い始める。その霧からは、魂を吸い取られるような、強烈な圧迫感が放たれていた。まるで、見えない巨大な手に心臓を掴まれたような感覚だ。
冬城は懐から取り出した銀色の短剣――それはまるで月光を鍛えて作り上げたかのように美しく、そして鋭い輝きを放っていた――を構え、同時に数枚の護符を指の間に挟む。その流れるような動作は、まるで熟練の舞踏家のようだ。
「縛!」
彼が低い声で唱えると、護符がひとりでにマガツモノを取り囲むように飛び、光の鎖となってその動きを封じようとする。しかし、マガツモノは嘲笑うかのようにその鎖をすり抜け、霧状の体を自在に操りながら冬城に襲いかかった。
冬城は、その攻撃を舞うように華麗にかわし、時には短剣で霧を切り裂き、時には新たな護符を放って牽制する。その動きは、まるで洗練された剣舞を見ているかのようで、高校生とは思えないほどの戦闘能力。汗一つかかず、冷静沈着に戦う彼の姿は、正直、悔しいけれど…かっこいい、と認めざるを得なかった。彼の銀髪が、戦いの動きに合わせてサラサラと揺れ、その度にキラキラと光を反射する。こんな状況じゃなければ、見惚れてしまっていたかもしれない。
しかし、マガツモノは狡猾だった。冬城の強さを悟ると、ターゲットを明らかに戦力外の私へと変更したのだ。
「瑠々ちゃん…助けて…苦しいよ…」
どこからともなく、緋和の弱々しい声が聞こえてきた。ハッと顔を上げると、目の前に苦悶の表情を浮かべた緋和の幻影が立っている。その瞳は私を捉え、懇願するように揺れていた。
「緋和っ!」
私は思わず駆け寄ろうとするが、それはマガツモノの罠だった。緋和の幻影がニヤリと歪み、その背後から、禍々しい黒い霧の触手が、まるで蛇のように私に向かって伸びてくる。その先端は鋭く尖り、私の白い喉元を狙っているのが分かった。
「しまっ…!」
冬城が「夏海さん!」と鋭く叫び、私を庇おうと身を投げ出す。彼の体が私に覆いかぶさるように倒れ込み、その衝撃で私たちは床に強く打ち付けられた。彼の腕が、私の肩を強く抱きしめる。その瞬間、彼の体温と、微かに香る彼の匂いに、不謹慎にも心臓がドキリと跳ねた。彼の髪が私の頬をくすぐり、その近さに息が止まりそうになる。
絶体絶命。恐怖で目を閉じた、その瞬間。
私の体から、自分でも予期せぬ、眩いばかりの淡い光が迸った。それは、まるで内側から弾けるような、温かくて力強い光。その光は、襲いかかってきたマガツモノの黒い触手を、まるで太陽が闇を払うかのように、一瞬にして弾き飛ばした。
「なっ…!?」
私自身も、そして私を庇っていた冬城も、目の前で起こった現象に息をのむ。何が起こったのか分からない。ただ、体の奥底から、何か熱いものが湧き上がってくるような感覚だけがあった。私の体から放たれた光は、部屋全体を白く染め上げ、マガツモノの黒い霧を霧散させていく。その光の中で、私の黒髪がふわりと舞い上がり、恐怖で青ざめていたはずの肌は、内側から輝いているように見えたかもしれない。
光の奔流はすぐに収まったが、その威力に驚いたのか、マガツモノは怯んだように動きを止め、そして素早く肖像画の中へと逃げ込んでいった。
「…はぁ…はぁ…」
全身の力が抜け、私はその場にへなへなと崩れ落ちそうになる。意識が朦朧としてきた。さっきの光は、一体…?
「…しっかりしろ、夏海瑠々!」
冬城の声が、すぐ耳元で聞こえる。彼が私の体を支えてくれているのが分かった。その腕は、やっぱり硬くて、そしてなぜか少しだけ安心する温かさがあった。彼の顔がすぐ近くにあって、その整った顔立ちと、普段は見せない真剣な眼差しに、またしても心臓がドキドキと早鐘を打つ。彼の瞳が、心配そうに私を覗き込んでいる。
その時、美術準備室のドアが、ゆっくりと開いた。
「夏海さん…!冬城くんも…!やっぱり、何かあったのか!?」
そこに立っていたのは、息を切らせた秋月先輩だった。その手には、なぜか彼の家の神社で使われているらしい、古い木箱が握られている。その顔には、焦りの色と、私たちへの深い心配が浮かんでいた。
「先輩…なんで…」
「君たちの様子が、どうしても気になって…それに、この美術準備室のことは、僕も少しだけ知っているんだ。昔から、良くないものが憑いていると…もしもの時のために、これを持ってきたんだ」
そう言って彼が示した木箱からは、清浄な、それでいて力強い気が発せられているのが、今の私には何となく分かった。先輩は、こんなことまで知っていたなんて…。
先輩は、倒れている私と、私を支える冬城くんの姿を見て、一瞬複雑そうな表情を浮かべたが、すぐに駆け寄ってきてくれた。
「夏海さん、大丈夫か!?顔色が真っ青だぞ!」
先輩の大きな手が、私の頬にそっと触れる。その温かさに、なぜだか涙が溢れそうになった。こんなボロボロの姿、先輩には見られたくなかったのに…。
冬城は、そんな私たちを無言で見つめていたが、やがて苦々しげに呟いた。その声は、いつもより少しだけ低く、感情がこもっているように聞こえた。
「…やはり、君はただの人間ではないな。夏海瑠々…その力は、一体何だ…?そして、なぜ君はそれを隠している…?おまけに、妙な男まで引き寄せる厄介な体質のようだな」
最後の言葉は明らかに余計だ。でも、その言葉には、ほんの少しだけ、嫉妬のような響きが含まれていたような気がしたのは、私の気のせいだろうか。
薄れゆく意識の中で、私は自分の手首に、淡く星のように輝く痣が一瞬だけ浮かび上がったのを見た気がした。
そして、静まり返った美術準備室の、あの忌わしい肖像画の少女の瞳が、まるで全てを見透かしたかのように、嘲るかのように、一瞬だけ、深紅に爛々と光ったのを、私は見逃さなかった。




