第4話:「君はこちら側の人間か」って…だから、私は普通のJKだってば!
「まさか…あの時の…!?」
目の前の光景に、私の思考は一瞬にして凍りついた。女子生徒の手首に浮かび上がった禍々しい黒いアザは、昨日音楽室で感じた不吉な気配そのものだった。あれは、気のせいなんかじゃなかったんだ…!私の平穏な(はずだった)日常が、ガラガラと音を立てて崩れていくような気がした。
「どうやら、ただの体調不良ではないらしいな」
隣で冬城が冷静に呟く。そして、私の方をちらりと見て、低い声で付け加えた。
「…夏海瑠々、君も“何か”を感じているんだろう?この異様な気配を」
その言葉は、私の心の奥底を見透かすような響きを持っていた。この男、一体どこまで知っているというの…?
私たちは、意識を失っている女子生徒を保健室へ運ぶため、他の生徒や教師を呼びに行った。その間、冬城は驚くほど手際が良く、的確な指示で周囲を動かしていた。まるで、こういう危機的状況に何度も遭遇してきたかのように。その冷静沈着な姿は、正直、ちょっとだけ…ほんのちょっとだけ、頼りになるかもしれない、なんて思ってしまった自分に腹が立つ。
騒ぎが少し落ち着いた放課後。私はどうしても気になって、一人であの不気味なピアノの音が再び聞こえた廊下へと足を向けた。もう一度確かめなければ。あれが本当に、音羽さんとは別の「何か」なのかを。だって、緋和がまた怖がったら可哀想だし…別に、私が興味本位で来たわけじゃないんだからね!
旧校舎の渡り廊下は、夕暮れの赤い光が差し込み、床に長い影を落として、どこか現実離れした雰囲気を醸し出している。そして…聞こえてきた。昨日よりもずっと鮮明に、そして聞く者の神経を逆撫でするような、不快な音階を奏でるピアノの旋律が。それは、悲しいというより、むしろ聞く者の心をざわつかせ、内側から不安を掻き立てるような、悪意に満ちた音色だった。
息を殺して音楽室のドアに近づき、そっと隙間から中を覗き込む。
そこには、誰もいなかった。
けれど、ピアノの鍵盤が、カタカタと不気味な音を立てて、ひとりでに動いている。まるで、見えない何者かが、怒りに任せて鍵盤を叩きつけているかのようだ。時折、鍵盤が血のように赤黒く染まる幻覚さえ見える。そして、ピアノの周辺には、昨日よりもずっと濃く、黒いモヤのようなものが渦巻いていた。それは生き物のように蠢き、じっとりと重い圧力を放ちながら、部屋全体を侵食しようとしているように見えた。
やっぱり…音羽さんじゃない。もっと、ずっとヤバい何かがいる…!
背筋を冷たい汗が伝う。逃げ出したい。でも、足が竦んで動かない。金縛りにあったように、その場から一歩も動けなかった。誰か、助けて…!なんて、柄にもないことを考えてしまうくらいには、パニックだった。
その時だった。
「…ほう、君ほどの者が、こんな低級なマガツモノに手こずっているとはな」
背後から、どこか嘲るような、それでいて妙に落ち着いた低い声が聞こえた。ビクッとして振り返ると、そこにはいつの間にか、冬城紫苑が立っていた。音もなく近づいてきた彼に、心臓が早鐘のように鳴り響く。彼の影が、夕日によって私の体に長く伸びていた。なんだか、捕らえられた蝶みたいじゃない、私。
彼は、私が覗いていた音楽室のドアの隙間に冷たい視線を向け、そして再び私に目を戻した。その黒曜石のような瞳は、感情を一切排したかのように冷たく、私の心の奥底、自分でも気づいていないような弱さまでも見透かそうとするかのようにじっと見つめてくる。やめてよ、そんなに見ないで!
「あれは、低級なマガツモノだ。人の負の感情や、この場所に残る淀んだ気を喰らって、力を増しているらしい。放置すれば、さらに厄介なことになるだろうな」
マガツモノ…?初めて聞く言葉だった。でも、彼の口調は、それがまるで日常会話の一部であるかのように自然で、揺るぎない確信に満ちていた。この人、本当に高校生なのかしら。
「…何なのよ、あんた。なんでそんなこと知ってるの…陰陽師か何か?」
警戒心を最大限に高め、私は絞り出すように尋ねた。声が震えているのが自分でも分かった。こんな得体の知れない男の前で、弱みを見せたくないのに。
冬城は、私の問いには直接答えず、ほんの少しだけ距離を詰めてきた。彼の纏う冷気が、肌を刺すように感じる。近い、近いってば!
「問題は、なぜあれが今、この学園で活性化しているかだ。そして…なぜ君が、それを見て見ぬふりをしないのか、ということだな、夏海瑠々」
私の名前を呼ぶ彼の声には、どこか試すような響きがあった。その言葉は、まるで私の秘密を全て知っているかのような、そしてそれを暴くことを楽しんでいるかのような、不遜な響きを持っていた。なんだか、猫に弄ばれるネズミの気分だわ…。
二人の間に、張り詰めた沈黙が流れる。夕日が差し込む廊下は、不気味なほど静まり返っていた。私の鼓動だけが、やけに大きく聞こえる。お願いだから、このドキドキ、彼に聞こえませんように…!
その時、私たちのすぐ近くで、不意に穏やかな声がした。
「夏海さんと冬城くん?こんなところで何してるんだい?」
はっと顔を上げると、そこには、少し心配そうな顔をした秋月先輩が立っていた。どうやら、部活の帰りらしい。その姿は、まるでこの異様な空間に差し込んだ一筋の光のようだった。ああ、神様、仏様、秋月様!
「せ、先輩!」
私は、思わず動揺して声を上ずらせてしまう。こんな怪しい雰囲気の場所に、得体の知れない転校生と一緒にいるところを見られるなんて…!しかも、顔、絶対赤くなってる!
「いや、その…ちょっと、忘れ物をして…探し物が、その…えっと…」
しどろもどろに言い訳をする私の隣で、冬城は表情一つ変えずに先輩に軽く会釈しただけだった。その泰然とした態度が、ますます私の焦りを煽る。この男、絶対私のこと面白がってるわ!
秋月先輩は、私たちの様子を不思議そうに見ていたが、ふと、私のポケットから僅かにはみ出しているハンカチに気づいたようだった。それは、昨日先輩が落としたものを私が拾った、あのハンカチだ!しまった、返すタイミングを完全に失ってた…!先輩は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐにいつもの優しい笑顔に戻り、「そうか。暗くなってきたから、気をつけて帰るんだよ」と言って、私たちの傍を通り過ぎていった。
けれど、そのすれ違い様、先輩が私にだけ聞こえるような小さな声で、「何か困ったことがあったら、いつでも相談してくれ。夏海さんが一人で抱え込むようなことじゃないはずだから。…そのハンカチ、ありがとう。良かったら、今度お礼させてほしいな」と囁いたのを、私は確かに聞いた。その声に含まれた真摯な響きと、私のことを見守っていてくれるような温かさに、胸がキュンと締め付けられる。そして、最後の「お礼させてほしいな」って、それってどういう意味!?期待しちゃうじゃないの、バカ!同時に、先輩にこんなところを見られてしまったという自己嫌悪も押し寄せてきた。
先輩の姿が見えなくなると、冬城が再び私に向き直った。その瞳には、先ほどよりもさらに鋭く、そして何かを見極めようとするような光が宿っている。彼はもう一歩私に近づき、逃げ場を塞ぐように私の顔を覗き込んできた。その距離の近さに、心臓が嫌な音を立てる。さっきの先輩との会話、絶対聞かれてたわよね…!?
「夏海瑠々…」
彼は、私の名前を、まるで呪文を唱えるかのように、ゆっくりと口にした。その声は、私の耳朶を直接震わせる。
「君は、一体何者なんだ?そして…あの先輩とは、どういう関係だ?」
最後の問いかけは、明らかに余計だ。
私の日常が、もう二度と元には戻らないであろうこと、そして、この目の前の男から、私は決して逃れられないであろうことを、予感させるかのように。そして、なんだかすごく、厄介なことになりそうな予感も、一緒に。




