第36話:天空の社と、嵐の序曲。私のこのドキドキ、風のせいじゃないんだから!
霧幻の泉での激闘と、水無月氷華ちゃんとの出会い、そして別れから数日。私たちは、星詠鳥の鈴が示す次なる封印の場所、「風の記憶が囁く天空の社」を目指し、まるで世界の果てへと続くかのような、険しい山岳地帯を旅していた。あの泉で得たものは大きかったけれど、同時に、氷華ちゃんの安否や、古文書の不吉な予言、そして私の力の「代償」という言葉が、重く心にのしかかっていた。おまけに、あの後、冬城が妙に私に優しくなったような気がして、なんだか調子が狂う。いや、優しくなったというよりは、何かを探るような視線を感じることが増えた、と言った方が正しいかもしれないけれど…。
「夏海さん、大丈夫かい?少し顔色が優れないようだけど…無理していないか?この岩場、かなり足場が悪いから、僕の手を掴んで」
険しい岩場を、文字通り四つん這いになりながら登っていると、先を行く秋月先輩が心配そうに振り返り、私に手を差し伸べてくれた。その優しい眼差しと、差し出された大きな手に、私の心臓がキュンと高鳴る。先輩は、いつも私のことを気遣ってくれる。その温かさが、今の私にとっては何よりの支えだ。彼の指先は、少しだけ土で汚れていたけれど、それが逆に男らしくて、ドキッとしてしまう。
「だ、大丈夫です、先輩!これくらい、平気ですから!先輩こそ、お怪我の具合はもういいんですか?あんまり無理しないでくださいね!」
私は、慌てて笑顔を作ってそう言った。本当は、足はもうパンパンだし、息も切れ切れで、今にもへたり込みそうだけど、先輩の前で弱音を吐くわけにはいかない。それに、先輩は前の戦いで私を庇って怪我をしていたのだ。彼の白いシャツの袖口から覗く包帯が、私の胸をチクリと刺す。
「ああ、もうすっかり良いよ。君が、あの時…力を貸してくれたからね。君のその…一生懸命なところが、僕に勇気をくれるんだ」
先輩は、そう言って私の頭を優しく撫でた。その手の感触が、あまりにも優しくて、私の頬がまた熱くなる。このドキドキは、きっと高山病のせいなんかじゃない。絶対に、先輩のせいだ。彼の言葉の一つ一つが、私の心に温かく染み渡っていく。
「…別に、私だけの力じゃないですから…先輩が、いてくれたから…です…それに、その…頭を撫でられるのは、ちょっと…子供扱いされてるみたいで、あんまり好きじゃないんですけど…」
思わず、いつもの調子でそっけなく、そして俯きながら答えてしまう。ああもう、なんで私は素直に「先輩に撫でられるの、すごく嬉しいです!」って言えないのかしら!でも、ほんの少しだけ、先輩の手が私の髪に触れている時間が長かったような気がしたのは、気のせい…?
「フン、感傷に浸っている暇があるなら、さっさと足を動かせ。この先の天候は荒れるぞ。お前のようなひ弱な女が、そんなところで立ち止まっていたら、風に飛ばされて谷底へ真っ逆さまだ」
不意に、私たちの間に、冷や水を浴びせるようなクールな声が割り込んできた。冬城だ。彼は、まるで山岳ガイドのように、険しい岩場を軽々と、そして信じられないほどの速さで登っていく。その黒い旅装束が、風に翻っている。その姿は、悔しいけれど、少しだけ…いや、かなりかっこいい。
「なっ…!何よ、あんた!人がせっかく良い雰囲気になってたのに、邪魔しないでくれる!?それに、ひ弱ってどういうことよ!失礼しちゃうわね!」
私は、思わずカッとなって冬城に食ってかかった。この男は、本当にデリカシーというものがないのかしら!それとも、わざと私たちの邪魔をしてるの!?
「良い雰囲気、ねぇ…。お前たちは、ピクニックにでも来ているつもりか?我々は、世界の存亡を賭けた戦いの最中にいるということを忘れるな、夏海瑠々。それに、俺は事実を言ったまでだ。お前のその華奢な体では、強風に耐えられるとは思えん」
冬城は、私を一瞥すると、ふいと顔を背けた。その横顔は、どこか険しく、そして何かを案じているようにも見えた。彼の言葉はいつも厳しいけれど、その奥には、彼なりの不器用な優しさが隠されているのかもしれない…なんて、まさかね。でも、彼が時折見せる、私や仲間たちを気遣うような素振りや、戦いの中で見せる圧倒的な強さと冷静な判断力は、私の心を少しずつ揺さぶっていた。この男のこと、まだ全然分からないけれど、なんだか目が離せない。そして、さっきの「華奢な体」っていうのは、どういう意味で言ったのかしら…!?
「瑠々ちゃん、先輩、冬城くーん!見て見てー!高山植物が咲いてるよー!すっごく綺麗!このお花、なんていう名前なのかな?瑠々ちゃん、知ってる?」
少し先を歩いていた緋和が、岩陰に可憐に咲く、見たこともないような美しい紫色の花を見つけて嬉しそうに声を上げる。今日の彼女は、動きやすいようにと、瑠々が昔着ていた少し大きめのパーカーとデニムパンツというボーイッシュな格好だが、その笑顔は相変わらず太陽みたいに眩しい。そのパーカーは、実は私が昔、秋月先輩にもらったものだったりして…なんて、そんな偶然あるわけないわよね!彼女のその明るさが、私たちのこの過酷な旅の、唯一の救いだ。その小さな花は、まるで彼女の笑顔のように、私たちの心を和ませてくれた。
「本当だ、綺麗だね、緋和ちゃん。でも、あまり道から外れると危ないから、気をつけてね。その花は…確か、“星見草”と言って、古くからこの地方では、旅人の道しるべになると言い伝えられている花だよ」
秋月先輩が、父親のような優しい笑顔で緋和に注意しながら、その花の名前を教えてくれた。先輩、物知りだなあ…。
そんな和やかな雰囲気も束の間、空がにわかにかき曇り、まるで獣の咆哮のような轟音と共に、突風が吹き荒れ始めた。それは、まるで何者かが私たちの行く手を阻むかのように、激しく、そして悪意に満ちていた。気温も急激に下がり、肌を刺すような冷たい雨粒が、私たちの頬を打ち始める。
「…来たか。どうやら、この“天空の社”の番人は、随分と気性が荒いらしいな。歓迎の挨拶としては、手荒すぎるだろう」
冬城が、空を見上げながら、鋭い光を宿した瞳で呟いた。彼の銀髪が、激しい風に煽られて乱れ、その表情はいつになく真剣だった。彼の口元が、ほんの僅かに引き締まったのを、私は見逃さなかった。
私たちは、吹き荒れる風雨の中、必死で「天空の社」を目指した。それは、切り立った崖の上に、まるで空に浮かぶようにして存在する、古びた小さな祠だった。周囲には、風の精霊が宿ると言われる奇妙な形の岩が点在し、風が吹き抜けるたびに、まるで誰かの囁き声のような、あるいは獣の唸り声のような、不気味な音が響き渡る。崖の下は、底が見えないほどの深い谷底で、見ているだけで足が竦む。
「ここが…風の記憶が囁く天空の社…。なんて、禍々しい気配なの…」
私は、息をのんでその光景を見つめた。その場所からは、間違いなく強大な、そしてどこか荒々しい、コントロールされていない自然の力のような「気」が放たれている。それは、まるで嵐の中心にいるかのようだ。私の髪や服は、もうびしょ濡れで、寒さで歯の根が合わない。
私たちが社に近づこうとした、その瞬間。
「何奴だ!この聖域を汚す者どもめ!我が眠りを妨げるのは、許さんぞ!」
空気を切り裂くような鋭い声と共に、私たちの前に、風を纏った巨大な鳥のような姿をしたマガツモノ――いや、これはマガツモノとは違う、もっと神聖な、しかし怒りに満ちた気配を放つ存在――が現れた。その翼は嵐を呼び、その鋭い爪は雷を纏い、その瞳は燃えるような赤い光を宿している。その姿は、古文書に描かれていた「星詠鳥」の、どこか歪んでしまったような、そんな印象を受けた。
「我は、この天空の社を守護する“風の番人”!古の契約に従い、何人たりともここを通すわけにはいかぬ!特に、その娘…お前からは、忌まわしき“星影の印”の気配がする!お前こそが、この聖地に災いをもたらす元凶ではないのか!」
風の番人は、私たちを威圧するように、鋭い眼光で睨みつけてきた。その力は、これまでのどんな敵よりも強大で、私たちの全身を恐怖が貫く。そして、その言葉は、私の心の奥底にある、最も触れられたくない部分を抉り出すかのようだった。
「…どうやら、力ずくで道を開くしかなさそうだな。夏海瑠々、お前のその“印”の力が、本当に聖なるものなのか、それとも災いを呼ぶものなのか、ここで見極めてやる」
冬城が、銀色の短剣を構えながら呟く。その赤い瞳(今は元の黒曜石の色に戻っているが、その奥にはまだ赤い残光が揺らめいているように見える)が、再び妖しく輝き始めている。
「待って、冬城くん!まずは話し合ってみましょう!彼も、きっと何か理由があって私たちを拒んでいるはずです!それに、瑠々ちゃんの力は、絶対に災いなんかじゃない!」
秋月先輩が、冬城を制止するように前に出る。その声は、いつになく真剣で、そして強い意志に満ちていた。
「風の番人様、私たちは、この世界を脅かす“黒き月影”と戦うために、七つの星の封印を守護する旅をしています。どうか、私たちに力を貸していただけないでしょうか!そして、夏海さんのこの力は、人々を守るための、希望の光なのです!」
先輩の真摯な言葉に、風の番人は少しだけ動きを止めたように見えた。しかし、その瞳の怒りの色は消えない。
「…黒き月影…だと…?奴らもまた、この聖域を狙う不埒者どもよ!そして、その娘の力…それが希望の光だと?フン、戯言を。その力は、かつてこの地を大きな災厄で覆った、禁断の力そのものではないか!」
風の番人の疑念は深い。そして、その言葉は、私の胸に重く突き刺さった。私の力が、禁断の力…?
「私たちは、絶対にそんなことはしません!私のこの力は、みんなを守るためにあるんです!そして、この星影の印は、そのための…証なんです!」
私は、風の番人の鋭い視線を真っ直ぐに見返し、力強く宣言した。私の体からは、再び黄金色のオーラが放たれ始める。その光は、荒れ狂う風雨の中で、一際強く、そして美しく輝いていた。私の黒髪が風に激しく舞い、その白い肌は雨に濡れて艶めいている。その姿は、まるで嵐の中に咲いた一輪の華のようだ、と誰かが言ったとしても、今の私には否定できないかもしれない。この力が、希望の光であることを、私が証明してみせる!
「…ほう、その輝き…確かに、星影の巫女の力か…。ならば、試させてもらおう。お前たちが、本当にこの聖域を守るに値する者たちなのかどうかをな!そして、その力が、真に希望をもたらすものなのか、それともさらなる絶望を呼ぶものなのかをな!」
風の番人は、そう言うと、その巨大な翼を広げ、私たちに向かって、天を引き裂くかのような突風と、無数の雷の刃を放ってきた。
絶体絶命のピンチ!私たちは、この試練を乗り越え、風の番人の信頼を得ることができるのだろうか…!?そして、私のこの力は、本当にみんなを守れるのだろうか…!?




