第23話:やっと一息…って、なんで私、こんなにドキドキしてるの!?先輩とあいつのせいよ、絶対!
刺客が黒い粒子となって消滅した後、銀杏の木の周囲には、まるで嵐が過ぎ去ったかのような、奇妙な静寂が訪れた。禍々しい気は完全に消え失せ、代わりに清浄で穏やかな、そしてどこか甘い花の香りのようなものが漂っている。私は、まだ信じられないという気持ちで、その場にへなへなと座り込んでしまった。全身の力が抜け、指一本動かせそうにない。制服は土と汗で汚れ、髪もボサボサだ。こんな姿、誰にも見られたくない…。
「夏海さん!大丈夫か!?すごいじゃないか、本当に…!君は、僕たちの…いや、この学園の救世主だよ!」
秋月先輩が、興奮冷めやらぬ様子で私のそばに駆け寄り、その大きな手で私の両肩を掴んだ。その瞳は、私への賞賛と、そして隠しきれないほどの安堵の色でキラキラと輝いている。
「せ、先輩…そんな、大げさですよ…私なんて…」
先輩のあまりにもストレートな言葉に、私の顔はきっとトマトみたいに真っ赤になっているだろう。救世主だなんて、そんな柄じゃないのに!でも、先輩がそんな風に言ってくれるのは、正直、すごく…嬉しい。
「大げさなんかじゃないさ!だって、君がいなかったら、僕たちは今頃…考えただけでもぞっとするよ。ありがとう、夏海さん。本当に、ありがとう」
先輩は、そう言って、私の頬にそっと手を伸ばし、そこに付いていた土埃を優しく拭ってくれた。その指先の温かさと、真摯な眼差しに、私の心臓はまたしても限界を突破しそうなくらいドキドキしていた。その距離の近さに、息が止まりそうだ。
「…別に、私一人の力じゃないですから…先輩と、その…あいつがいてくれたから…です…」
思わず、いつもの調子でそっけなく、そして俯きながら答えてしまう。ああもう、なんで素直に「先輩の言葉、すごく嬉しいです!」って言えないのよ、私は!
「…フン、感傷に浸っている暇があるなら、さっさと次の手を考えるべきだな」
不意に、私たちの間に、冷や水を浴びせるようなクールな声が割り込んできた。冬城だ。彼は、腕を組み、銀杏の木の幹に寄りかかりながら、私たちを冷めた目で見ている。その手には、刺客が残した黒曜石のような水晶のかけらが握られていた。
「あれは、おそらく組織の中でも下っ端だ。もっと厄介な奴らが、これからいくらでも出てくるだろう。お前がそんな甘い認識では、すぐに喰われるぞ、夏海瑠々」
相変わらずの嫌味な口調。でも、その言葉は、どこか私を試すような、そしてほんの少しだけ…心配しているような響きを含んでいる気がした。
「なっ…!何よ、あんた!人がせっかく感動的な雰囲気になってたのに、水差さないでくれる!?」
私は、思わずカッとなって冬城に食ってかかった。
「感動的な雰囲気、ねぇ…」
冬城は、私の言葉を鼻で笑うと、おもむろに私の方へ歩み寄り、私の顎にそっと指を添え、ぐいっと上を向かせた。その黒曜石のような瞳が、至近距離で私を射抜く。
「きゃっ…!な、何すんのよ、いきなり!」
彼の突然の行動に、私の心臓は別の意味でドキドキと暴れ出す。彼の指先の冷たさが、私の肌に直接伝わってくる。
「…お前のその瞳、確かに力は増しているようだが、まだ迷いが見える。それに、そんなに簡単に男の言葉を信じるな。もっと疑うことを覚えろ」
そう言うと、冬城は私の顎から指を離し、ふいと顔を背けた。その横顔は、どこか複雑な感情を浮かべているように見えた。そして、彼が私の瞳を見つめていた時の、あの真剣な眼差しが、なぜか私の脳裏に焼き付いて離れない。この男、一体何を考えているの…?それに、さっきの「男の言葉を信じるな」って、もしかして先輩のこと…!?
「瑠々ちゃんのバカー!心配したんだからねー!もう、瑠々ちゃんがいなくなっちゃったら、私どうすればいいのよぉ!うわーん!」
そこへ、状況を全く理解していない(であろう)緋和が、泣きじゃくりながら私に抱きついてきた。その小さな体は、小刻みに震えている。
「ごめんね、緋和。心配かけちゃって…でも、もう大丈夫だから。ね?」
私は、緋和の背中を優しくさすってあげた。彼女の温かさが、私の心にじんわりと染み渡っていく。やっぱり、緋和のこの笑顔が、私にとって一番の宝物だ。
「ねぇ瑠々ちゃん、さっきの光、すごかったね!まるで魔法少女みたいだったよ!それに、秋月先輩、瑠々ちゃんのこと、めちゃくちゃ心配してたんだからね!冬城くんだって、瑠々ちゃんがピンチになった時、すっごい顔してたんだよ!あれは絶対、瑠々ちゃんのこと…!」
少し落ち着いた緋和が、今度はニヤニヤしながら私の耳元で囁く。その瞳は、好奇心でキラキラと輝いている。
「なっ…!そ、そんなわけないじゃない!緋和の勘違いよ、絶対!先輩は、ただ優しいだけだし、冬城のやつは、ただの性格悪いスカした男だってば!」
顔を真っ赤にして全力で否定するが、心の中では、緋和の言葉がぐるぐると渦巻いていた。先輩のあの優しい眼差し、冬城のあの不器用な気遣い…そして、私を「綺麗な顔」だなんて言ったこと…。もしかして、本当に…?いやいやいや、そんなことあるわけない!私なんかが、そんな…!でも、考えれば考えるほど、顔が熱くなっていくのが分かる。
自分の部屋に戻った私は、鏡に映る自分の姿を見た。戦いで少し汚れた制服、額には小さな絆創膏。髪も、先輩に撫でられて、少しだけ乱れている。でも、その瞳には、以前にはなかった強い意志の光と、そしてほんの少しだけ…戸惑いと、何か新しい感情の芽生えのようなものが宿っているように見えた。
「私、もう逃げない。この力で、大切な人たちを、この学園を、絶対に守ってみせる…!」
そう心に誓う私の横顔は、自分でも少しだけ、凛として美しく見えたような気がした。そして、ふと、先輩の優しい笑顔と、冬城のあの真剣な眼差しを思い出し、胸の奥がキュンと締め付けられるのを感じた。この気持ちは、一体何なのだろう…?
私が懐に忍ばせていた夏海家の古文書の新たなページを、恐る恐るめくってみる。そこには、血のような赤い文字で、こう記されていた。
『水の記憶に眠る試練は、過去の悲劇と繋がり、心の奥底に潜む闇を呼び覚ます…星詠鳥の導きなくして、その封印を解くことは叶わぬ…心せよ、星影の巫女よ…お前の選択が、世界の運命を左右する…そして、汝の心を惑わす二つの光に、真実の道を見誤るな…』
水の記憶…古の社…星詠鳥…?そして、星影の巫女って、まさか私のこと…!?私の選択が、世界の運命を…?そんな、重すぎる責任、私なんかに背負えるわけないじゃない!それに、最後の「汝の心を惑わす二つの光」って、それってまさか…先輩と、冬城のこと…!?
新たな謎と、さらに困難な試練の訪れを予感させるその言葉に、私の背筋を再び冷たいものが駆け上った。
その時、ふと、部屋の隅に置いてあった、資料室で見つけたあの奇妙な木箱が、微かにカタカタと音を立てたような気がした。気のせいかしら…?でも、その木箱からは、どこか懐かしいような、そして少しだけ物悲しいような、不思議な気配が漂っている。この木箱も、古文書と何か関係があるのだろうか…。
私が懐に忍ばせていた夏海家の古文書の新たなページを、恐る恐るめくってみる。そこには、血のような赤い文字で、こう記されていた。
『水の記憶に眠る試練は、過去の悲劇と繋がり、心の奥底に潜む闇を呼び覚ます…星詠鳥の導きなくして、その封印を解くことは叶わぬ…心せよ、星影の巫女よ…お前の選択が、世界の運命を左右する…そして、汝の心を惑わす二つの光に、真実の道を見誤るな…月の影が満ちる時、古き契約は破られ、星の涙が地を濡らすだろう…』
水の記憶…古の社…星詠鳥…?そして、星影の巫女って、まさか私のこと…!?私の選択が、世界の運命を…?そんな、重すぎる責任、私なんかに背負えるわけないじゃない!それに、最後の「月の影が満ちる時、古き契約は破られ、星の涙が地を濡らすだろう」って、一体どういう意味なの!?まるで、世界の終わりを予言しているみたいじゃない…!
そして、「汝の心を惑わす二つの光」って、それってまさか…秋月先輩と、冬城のこと…!?私の恋心が、世界の運命に関わってくるっていうの!?そんなの、ありえない!
その夜、私は夢を見た。それは、深い、深い水の底に沈んでいくような、息苦しくて、どこまでも続く暗闇の夢だった。水面には、歪んだ月が映り込み、その周りを七つの星が不吉に輝いている。そして、夢の最後に、月影先生とは違う、新たな「黒き月影」の刺客の、氷のように冷たい笑い声と、そして…なぜか、優しいはずの秋月先輩の瞳が、一瞬だけ、ぞっとするほど冷たい光を宿したような気がした。さらに、冬城くんの背中には、大きな黒い翼の影が見えたような…。
「ククク…見つけたぞ、星影の巫女…お前の力は、我が主のものだ…お前の魂ごと、喰らってやろう…」
「夏海さん…君は、僕だけのものだ…誰にも渡さない…」
「瑠々…お前は、俺から逃れられない…お前の運命は、俺と共にある…」
複数の声が、私の頭の中で混ざり合い、響き渡る。どれが現実で、どれが幻なのか、もう分からない。
私の戦いは、まだ始まったばかりなのだ。そして、私のこのドキドキする心臓も、まだ落ち着くことを知らない。先輩のこと、そして…あのムカつく転校生のこと、考え出すと、どうしてこんなに胸が騒ぐのかしら…。これは、恋なの?それとも、ただの勘違い…?いや、そんなことよりも、この学園に、そして私に、一体何が起ころうとしているの…!?
窓の外では、不気味なほど静かな夜空に、ひときわ大きく、そして赤黒く輝く不吉な星が一つ、まるで私を見下ろすかのように、妖しい光を放っていた。




