第16話:え、私、丸一日寝てたの!?ていうか先輩、なんで私の部屋に!?…って、転校生からの不吉な置き手紙!?
柔らかな日差しが瞼を優しく撫でる。どこかで嗅いだことのある、懐かしい白檀のお香の香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。長い間眠っていたのだろうか、体が少し怠く、でもどこか心地よい微睡みの中にいた。
重い瞼をゆっくりと持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の天井…ではなく、心配そうに私を覗き込む、整った顔立ちだった。長いまつ毛に縁取られた、優しいブラウンの瞳。少しだけ日に焼けた、けれど形の良い鼻筋。そして、私の名前を呼ぶ、柔らかな唇――。
「せ、先輩…!?」
思わず声が上ずる。夢…?いや、違う。目の前にいるのは、紛れもなく秋月浩希先輩だ!しかも、ここは保健室じゃなくて、私の部屋のベッドの上!?ど、どういう状況!?
「夏海さん、気がついたかい?良かった…本当に良かった…」
先輩は、心底安堵したように、ふわりと春の陽だまりのような笑顔を浮かべた。その笑顔は反則だ。ただでさえ寝起きでぼーっとしている私の頭を、さらに混乱させるのに十分すぎる破壊力を持っていた。
「な、な、なんで先輩が私の部屋にいるんですかぁぁぁ!?っていうか、私、今どんな格好!?」
パニックで布団を頭まで被って、私は蚊の鳴くような、しかし自分では絶叫のつもりの声を上げた。まさか、秋月先輩が、私の部屋にいるなんて!しかも、こんな寝起きのボサボサ頭(きっと鳥の巣みたいになってるに違いないわ!)で、しかもパジャマ姿(よりによって、お気に入りの、ちょっとフリルのついたパステルピンクのやつ!)を見られるなんて、死んでも嫌!穴があったら入りたい!いや、もういっそこのまま布団の中で化石になりたい!
「夏海さん、落ち着いて。大丈夫かい?熱でもあるのかな?」
先輩の、困ったような、でも優しい声が布団越しに聞こえてくる。ああもう、この状況、どう考えても大丈夫じゃないんですけど!先輩、私のこと、どう思ってるのかしら…だらしない女だって思われたらどうしよう…!
そこへ、襖が静かに開き、おばあ様が姿を現した。その手には、湯気の立つお盆が乗っている。
「おお、瑠々、気がついたのかえ。良かった良かった。丸一日以上も眠りこけておったから、心配したぞ」
「え…丸一日…!?」
おばあ様の言葉に、私はさらに混乱する。そんなに長い間、私、眠ってたの…?
おばあ様は、私の混乱を察したように、ゆっくりと状況を説明してくれた。
私が意識を失ったのは、一昨日の七夕の夜。それから丸一日以上、私は眠り続けていたらしい。学園で起こった大規模な異変は、表向きは「原因不明のガス漏れ事故(未遂)」として処理され、生徒や教師のほとんどは、あの夜の記憶を曖昧にされているか、あるいは集団ヒステリーのようなものだったと認識しているという。そして、学園は現在、安全確認と復旧作業のため、一時的に閉鎖されているとのことだった。
「お前をここまで運んでくれたのは、秋月くんと…あの、冬城という少年じゃよ。二人とも、本当によくやってくれた。特に秋月くんは、瑠々のことを本当に心配して、ずっとそばについていてくれたんじゃよ」
おばあ様の言葉に、私は布団の中からそっと先輩の顔を盗み見た。先輩は、少し照れたように頬を掻きながらも、優しい笑顔を私に向けている。その笑顔に、私の心臓はドクンと大きく跳ねた。心配して、ずっと…?そんなこと言われたら、期待しちゃうじゃないの、バカ。でも、嬉しい…かも。
(心の声…というより、もうダダ漏れかもしれないけど:先輩の優しさ、反則すぎます…!でも、冬城が私を運んだって…あのスカした男が?信じられない…!)
おばあ様が、「少しお茶でも淹れてこようかのう。秋月くんも、ゆっくりしていくといい」と気を利かせて席を外した隙に、秋月先輩が、ベッドサイドの椅子に腰掛け直し、そっと私の手を握った。その大きな手のひらは、驚くほど温かかった。
「夏海さん、本当に無事でよかった…。君があの時、僕たちを守ってくれたんだ。ありがとう。でも、もう無茶はしないでほしい。君が傷つくのは、僕も…辛いから。見ていられないんだ」
その真剣な眼差しと、握られた手の温かさに、私の心臓は早鐘のように高鳴り、顔がカッと熱くなるのを止められない。先輩の指が、私の指に優しく絡みつく。その感触が、なんだかすごく…ドキドキする。こんなの、反則だ。
「せ、先輩こそ、お怪我は…?私、あの時、何もできなくて…先輩に、あんな危ない思いさせちゃって…ごめんなさい…」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、そして少しだけ震えていた。先輩に心配かけたくないのに、こんな弱々しいところ見せちゃうなんて…。
「僕は大丈夫だよ」と先輩は微笑み、「君が眠っている間、緋和ちゃんも冬城くんも、すごく心配していたんだ。特に冬城くんは…ぶっきらぼうだけど、意外と、君のことを見ているのかもしれないね。彼も、君が目覚めるまで、ずっとこの部屋の隅で、一睡もせずに君のことを見守っていたんだよ」と、少しだけ意味ありげな言葉を残した。
え、あの冬城が?私のことを?一睡もせずに…?信じられない…でも、もし本当だとしたら…?私の頭の中は、さらに混乱を極めていく。あの男の考えてること、全然分からない!でも、ちょっとだけ…ほんのちょっとだけ、胸の奥が温かくなったような気がしたのは、きっと気のせいだわ。
先輩が帰り際に、「これは、僕と君だけの、秘密の約束だ。君がどんな秘密を持っていても、僕は絶対に君を否定したりしないから。だから、一人で抱え込まないで、いつでも僕を頼ってほしい。君のその…頑張り屋なところも、不器用なところも、全部含めて、僕は…」と言いかけて、ふと言葉を詰まらせ、そして私の頭を優しく撫でてくれた。その手の感触と、彼の真摯な眼差し、そして言いかけた言葉の続きが、私の心に深く刻み込まれる。こんな優しい人に、私のこんな厄介な秘密を打ち明けることなんて、できるわけがないのに…。でも、先輩のその言葉は、私の凍てついた心を少しだけ溶かしてくれたような気がした。
先輩が帰った後、私は枕元に小さな封筒が置かれているのに気づいた。それは、明らかに先輩のものではない、シンプルでどこか冷たい印象の封筒。差出人の名前はない。
恐る恐る中を開けると、一枚のメモと、奇妙な紋様が刻まれた、黒曜石のような小さな金属片が入っていた。
メモには、走り書きのような、それでいて力強い文字でこう書かれていた。
『夏海瑠々へ。
借りは作った覚えはないが、今回はお前のおかげで助かった。礼は言わん。
だが、油断するな。あの“災い”はまだ終わっていない。そして、お前のその力も、いずれ制御不能になるだろう。
この金属片は、お守り代わりだ。…せいぜい、それに喰われんようにな。
冬城紫苑』
相変わらずの上から目線で、ムカつく言い草だ。でも、その言葉の裏には、何か私を案じているような、そんな不器用な優しさが隠されているような気がして…いやいや、気のせいだわ、絶対に!あの男に限って、そんなことあるわけない!それにしても、この金属片…どこかで見たことがあるような…?そして、「喰われるな」って、どういう意味…?不吉な予感が、私の胸をざわつかせる。
その夜、私は久しぶりに自分の部屋のベッドで眠りについた。けれど、眠りは浅く、何度も悪夢にうなされた。そして、ふと意識が覚醒した時、暗闇の中で、誰かの囁き声のようなものを聞いた気がした。
「…おいで…こちらへ…もっと力を…汝の魂を、我に捧げよ…」
甘く、そしてどこか冷たい、誘うような声。
気のせいだと思おうとしたけれど、次の瞬間、机の上のペン立てが、カタカタと微かに揺れたのだ。そして、部屋の電気が、一瞬だけ、パチパチと不気味な音を立てて明滅した。
それは、私の不安定な力の影響なのか、それとも、新たな何かが、すぐそばまで忍び寄ってきているのか…?
恐怖で、私は布団を頭まで被り、ただひたすら朝が来るのを待つことしかできなかった。私の平穏な日常は、もうどこにもないのかもしれない――そして、私のこのドキドキする心臓は、一体誰のせいでこんなにうるさいのよ!




