第15話:絶望なんてしてないんだから!私の力で、みんなを守ってみせる!
ゴゴゴゴゴ…!
祭壇の石板が完全に二つに割れ、その裂け目から溢れ出したのは、底知れないほどの絶望と、全てを飲み込まんとするかのような強大な闇だった。それは、これまで私たちが対峙してきたマガツモノとは比較にならない、まさに「古き災い」と呼ぶにふさわしい、圧倒的な存在。その黒い影は、まるで生きているかのように蠢き、地下空間全体を侵食していく。空気が歪み、呼吸さえもままならないほどのプレッシャーが、私たちにのしかかる。壁からは不気味な囁き声が響き、床はまるで巨大な心臓のようにドクンドクンと脈動し、私たちの足元を揺るがした。そのおぞましい光景は、もはや悪夢という言葉では片付けられない、現実の地獄だった。
「くっ…!なんて力だ…!これでは…手も足も出ないというのか…!我々の知るマガツモノとは、次元が違う…!」
冬城が、銀の短剣を構えながらも、苦悶の表情で後ずさる。彼の額には玉のような汗が浮かび、いつもは完璧に整えられた銀髪が、今は数本乱れて額にかかり、その下の黒曜石のような瞳には、初めて見るかもしれない焦りの色が浮かんでいた。彼の唇が、微かに震えている。
「冬城くんでも…ダメなのか…!?そんな…馬鹿な…!」
秋月先輩もまた、神社の秘伝のお守りを胸に掲げ、必死で抵抗しようとするが、黒い影の放つ禍々しい瘴気の前に、その清浄な光は風前の灯火のようにかき消されそうになっている。その顔には、焦りと絶望の色が濃く浮かんでいた。彼の握りしめた拳は、血が滲むほどに強く、小刻みに震えている。それでも、彼は私と緋和の前に立ちはだかり、決して退こうとはしなかった。
緋和は…入口で待っている緋和は、この異様な気配に気づいているだろうか。彼女のことだ、きっと私たちのことを心配して、ここまで来てしまうかもしれない。ダメだ、彼女だけは、絶対に巻き込んじゃいけない…!あの太陽みたいな笑顔を、こんな恐怖で曇らせるわけにはいかないんだから!
「きゃあああっ!いやぁぁぁっ!」
黒い影から伸びた無数の触手が、まるで意思を持ったかのように私たちに襲いかかる。それは、粘つくような闇を纏い、先端は鋭い鉤爪のように変化し、空間を切り裂くような音を立てて迫ってくる。
冬城と秋月先輩は、それぞれそれを避け、あるいは弾き返そうとするが、数が多すぎる。目にも止まらぬ速さで繰り出される攻撃に、二人は徐々に追い詰められていく。冬城の頬を黒い触手が掠め、一筋の赤い血が流れた。先輩の甚平の袖も、鋭い爪によって引き裂かれている。
数本の触手が、先輩の足に絡みつき、彼をいとも簡単に宙吊りにしようとする。先輩の苦悶の声が、私の耳に突き刺さる。その声は、私の心の奥底にある何かを、激しく揺さぶった。
「先輩っ!」
私は叫び、咄嗟に先輩の方へ駆け寄ろうとするが、別の触手が私の足首を捉え、その場に引き倒されてしまった。冷たく、そして粘つくような感触が、素肌を這い上がってくる。その感触は、まるで蛇に睨まれた蛙のように、私を恐怖で縛り付け、体の自由を奪っていく。
「夏海さん!逃げろ!僕のことはいいから、早く…!」
先輩の悲痛な声が響く。彼の顔は苦痛に歪み、それでも私を逃がそうと必死だった。その瞳には、私への深い、深い想いが込められているように見えた。
絶望的な状況。これが、古文書に記されていた「古き災い」の力だというの…?私には…私たちには、何もできないの…?
大切な緋和、いつも優しくて、私に初めて「特別」をくれたかもしれない先輩、そして…なんだかんだ言いながらも、ここまで一緒に戦ってくれて、私のことを気にかけてくれているのかもしれない冬城くん…。みんなが傷ついていくのを、ただ見ていることしかできないなんて、そんなの絶対に嫌だ!私のせいで、みんながこんな目に遭っているのかもしれない。私が、この忌まわしい陰陽師の血を引いているから…。
でも、だからって、諦めていいはずがない!そんなの、私じゃない!
私が…私が何とかしなくては…!みんなを…この学園を…私の日常を、守らなくちゃ!この想いだけは、絶対に誰にも邪魔させないんだから!
その強い想いが、私の心の奥底で燻っていた何かに火をつけた。まるで、堰を切ったように、熱い何かが体中を駆け巡り、私の魂を焦がす。
「ううううううううっ…!あああああああああっ!」
私の右手首、あの「星影の印」の兆候が現れた場所が、まるで太陽のように、これまでにないほど強く、そして眩い黄金色の光を放ち始めたのだ!その光は、私自身の体を突き抜け、地下空間全体を、まるで真昼のように明るく照らし出す。その光は温かく、そして何よりも力強かった。
「夏海さん…その光は…!?なんて、なんて綺麗なんだ…まるで、女神のようだ…!」
先輩が、苦痛の中でも、驚愕と、そしてどこか見惚れたような表情で私を見つめる。その瞳には、涙が滲んでいた。
「…まさか…あれほど強大な浄化の力を、未覚醒の状態で、しかもこれほどの規模で…!夏海瑠々、君は一体、どれほどの力を秘めているんだ…!?」
冬城もまた、信じられないものを見るような目で、私から放たれる光を見つめていた。その黒曜石のような瞳が、大きく見開かれ、驚きと、そしてほんの僅かな…畏敬のような色が浮かんでいる。
私の体から迸る黄金色のオーラは、周囲の禍々しい瘴気を薙ぎ払い、黒い影の動きを明らかに鈍らせていく。その光の中で、私の黒髪はまるで生きているかのようにふわりと舞い上がり、瞳は強い意志を宿して金色に輝いていた。恐怖で青ざめていたはずの肌は、内側から輝くような血色を取り戻し、その姿はまるで神話に登場する戦乙女か、あるいは降臨した巫女のようだ、と誰かが言ったとしても、今の私には否定できないかもしれない。でも、そんなことはどうでもいい。この力が、みんなを守れるのなら!
「古き災いよ…私たちの学園から…私の大切な人たちから…今すぐ、出て行けええええええっ!」
私は、無意識のうちに、夏海家に代々伝わる強力な浄化の祝詞を唱えていた。その声は、この広大な地下空間全体に朗々と響き渡り、まるで言霊のように力を増していく。それは、幼い頃、おばあちゃんが子守唄のように聞かせてくれた、古い古い祈りの歌だった。その歌は、私の魂の奥底に刻み込まれていたのだ。
しかし、その強大な力を使うことは、今の私の体にはあまりにも大きな負担を強いていた。全身の骨がきしむような痛み、そして魂が燃え尽きてしまいそうなほどの激しい疲労感。視界が霞み、意識が遠のきそうになる。唇の端からは、一筋の血が流れ落ちていた。それでも、私は歯を食いしばり、必死で力を振り絞った。ここで諦めるわけにはいかないんだから!先輩の優しい笑顔を、緋和の太陽みたいな笑顔を、そして…ムカつくけど、冬城のあの整った顔を、もう一度見たいから!この想いが、私を支えていた。
「夏海さん…!無茶だ、その力は君の体に…!もういい、もう十分だ!君が傷つくくらいなら、僕は…!」
「瑠々ちゃん、しっかりして!お願い、死なないで!瑠々ちゃんのいない世界なんて、私、嫌だよぉ…!」
秋月先輩と、いつの間にか意識を取り戻し、ここまで駆けつけてきていた緋和の悲痛な声が聞こえる。緋和の瞳からは、大粒の涙が溢れ落ち、私の名前を呼び続けていた。
「…馬鹿な女だ。だが…その覚悟、見事だ。夏海瑠々、お前は…本当に、美しい…」
冬城が、苦々しげに、しかしどこか称賛するような、そしてほんの僅かだけ…切なさを滲ませた声で呟いた。彼が「美しい」なんて言葉を使うなんて、信じられない。そして、彼は私に叫んだ。その声は、いつになく必死で、私の心に直接響いた。
「夏海瑠々!その力を、祭壇の石板に集中させろ!あれが、災いの力の源だ!あれを破壊すれば、あるいは…!信じろ、お前の力を!」
祭壇の石板…!そうか、あれを破壊すれば、この悪夢を終わらせることができるかもしれない…!冬城の言葉が、私に最後の力を与えてくれた。
私は、最後の力を振り絞り、黄金色の光の奔流を、割れた石板の中心へと向けて解き放った。その光は、まるで龍のように猛り狂い、石板に叩きつけられる。私の全ての想いを乗せて!
「グオオオオオオオオオオオオッッ!!」
黒い影が、断末魔のようなおぞましい叫び声を上げる。黄金色の光が石板を打ち砕き、そこから黒い瘴気が勢いよく噴き出したかと思うと、次の瞬間には光の中に吸い込まれるように消滅していった。
地下空間を満たしていた圧倒的なプレッシャーが、嘘のように消え去っていく。
そして、私を包んでいた黄金色の光もまた、ゆっくりと収束し、私の意識は…そこで途絶えた。最後に見たのは、私に向かって必死に手を伸ばす、秋月先輩の、涙に濡れた顔だった。彼の唇が、「瑠々…!」と、私の名前を呼んだような気がした。
次に気がついた時、私は誰かの腕の中に抱えられているのを感じた。ぼんやりと目を開けると、そこには秋月先輩の、涙で潤んだ優しい瞳があった。彼の頬には、私のものか、彼のものか分からない涙の跡が光っていた。その瞳は、私を愛おしむような、それでいて何かを失ってしまいそうな不安に揺れていた。
「夏海さん…!良かった…本当に、良かった…!君が、君がみんなを救ってくれたんだ…!ありがとう、瑠々…!」
彼は、私の名前を、初めて呼んだ。その響きが、私の心に温かく染み渡る。私は、彼の腕の中で、か細い声で答えた。
「先輩…みんなは…緋和は…?」
「ああ、緋和ちゃんも冬城くんも無事だ。君が…君が守ってくれたんだよ。ありがとう、夏海さん。本当に…ありがとう。君の勇気と、その…美しさに、僕は…」
先輩の言葉は、途中で途切れた。彼の顔が、ゆっくりと私に近づいてくる。その瞳には、熱い想いが込められているように見えた。え、これって、もしかして…!?私の心臓が、今度こそ本当に破裂しそうなくらいドキドキする。
ふと、冬城くんの姿が視界に入る。彼は、壁に寄りかかり、苦々しげな表情でこちらを見ていたが、私が彼に気づくと、ふいと顔を逸らした。その横顔は、どこか複雑な感情を浮かべているように見えた。そして、彼の手には、あの桜の木から回収したのと同じような、小さな光る欠片が握られていたような気がした。彼は、一体何を…。
「…一時の勝利に過ぎん。あれは、完全に消滅したわけではない。いずれまた、力を取り戻し、この学園を…いや、世界を脅かすだろう。そして、君のその力も…いずれ大きな代償を払うことになるやもしれん。忘れるな、夏海瑠々。君は、もう“普通”には戻れない」
冬城の言葉は冷たかったが、その声には、ほんの少しだけ、安堵の色と、そして私への警告のような、そしてどこか…寂しさのようなものが混じっているような気がした。そして、彼は私に向かって、何か重要なことを伝えようと口を開きかけたが、その言葉は、私の薄れゆく意識の中へと溶けていってしまった。
最後に私の目に映ったのは、緋和の泣き笑いのような顔と、秋月先輩の「必ず助けるから…!僕が、君を…!君の笑顔を、絶対に守るから!だから、目を覚ましてくれ、瑠々…!」という、悲痛なまでの誓いの言葉だった。
星影の印が淡く輝く私の手首を、先輩の大きな手が優しく包み込む。その温もりを感じながら、私の意識は、深い、深い闇の中へと沈んでいった。
第一部の幕が、大きな謎と、次なる戦いへの予感を残して、静かに下りる。私たちの、本当の戦いは、まだ始まったばかりなのかもしれない――そして、私の心の中に芽生えた、この温かくて切なくて、そしてちょっぴり複雑な想いの行方も。




