あのとき、何かが起こった
あれが起きたのは、午前10時30分過ぎ、授業の後半に行われた数学の小テストの時だった。
「先生、すいません。テスト用紙1枚足りません」
俺の前の男子生徒が言った。
「おっ悪い。まわしておいてくれ」
先生は用紙を1枚、列の先頭に座っている女子生徒に渡した。
「ありがとう」
俺は前の席の男子生徒に小声でお礼を言った。
「よし。大丈夫かみんな用紙行き渡ってるか」先生は辺りを見て確認する。「それではテストを始めてください」
30点以下をとれば放課後に補習授業が待っているこの小テストは生徒たちに緊張感を与えた。間違えられないという緊張感だ。
一通り解き終えると、俺は一番後ろの席から辺りを見渡した。早めに終わった者もいれば、一生懸命に取り組む者もいる。
先生は黒板に板書されていた内容を黒板消しで消している。後ろ姿だけでもわかるがっしりした体格で、身長も高い。学生時代は何かスポーツに打ち込んでいたに違いない。
教室は、シャープペンを動かす音だけが聞こえていた。
小テストの内容は基本的な計算問題。赤点をとる生徒はいないだろう。俺は問題を解き終えてボーッとしている時だった。
廊下側の前方の席から突然電子音が鳴った。板書をしていた先生は振り返り、音の鳴る方を見る。生徒たちも同様だった。
視線の先は、浅見咲耶という女子生徒に向けられた。彼女も明らかに動揺し、机の横に掛けてあったバッグからスマートフォンを取り出す。着信音はワンコールで終わった。
「浅見」低い声で言いながら先生が彼女の席に近づく。
「すいません」浅見は、申し訳なさそうに俯いている。
チャイムが鳴り、先生はふと我に帰ったように言った。
「あっ、テスト用紙回収するから後ろからまわしてくれ」
緊張から解き放たれた生徒たちは、ざわざわとする。用紙が全て先生のもとに集まったところで日直が「起立」と言った。
授業が終わると、俺は浅見のところへ向かった。席は出席番号順に並べられていたので俺のいる位置から少し遠い。
向かう途中で葵さんと目が合うと、彼女は笑顔で会釈してくれた。
浅見は俺の表情を見て、曇った表情から無理矢理笑顔を作った。
「いやー参ったよ。マナーモードにするのすっかり忘れちゃってさ。スマホ没収されちゃった。あとで反省文だ」
「浅見がそんなミスするなんてな。意外だよ」
俺は座っている相手を見下ろしながら言った。
「わたしだってミスはするさ。湊斗はわたしのこと完璧な人間だと思ってるのか?」
「そうだ」と返事をしようと思ったが、思った以上にこの出来事にこたえてるようだったので言うのをやめて話を変えた。
「それで、電話は誰からだったんだよ。緊急なら折り返さないと」
「それがさ」浅見は言った。「没収される直前で一瞬しか見てないけど“非通知”だった」
「じゃあ、間違い電話か……迷惑電話か……あとは」
「それはないと思いますよ」
俺と浅見は声の聞こえる方へ顔を向けた。穏やかな声の主は葵姫花だった。
「どうしてそう思うの?」
浅見は優しく葵さんに聞いた。
「着信はワンコールで終わりました。間違いや迷惑電話にしても数回コールがあるはずです。どちらも相手が電話を出て成立するものなので」
「そうか。相手が電話に出ないと間違いかもわからないし、迷惑電話なら詐欺が主な目的だから相手が出ないと意味がない」
浅見が言ったことに葵さんは「そのとおりです」と言って頷いた。
「でもワン切り電話っていう嫌がらせの可能性もある。非通知で掛かってきたのなら尚更だ」
「たしかにそうですね。相手にはこっちの正体を見せずに一方的にいたずらをするなんて許せません」
「2人ともありがとう」浅見は笑顔で言った。「まぁ、今回はわたしがマナーモードにしなかったのが悪いんだし。放課後先生にいっぱい怒られてくるわ」
逆に気を使われてしまった。俺と葵さんはこれ以上なにも言えなかった。
昼休みになり、俺は背もたれ寄りかかった。あの時に見えたあれはなんだったのか。目を瞑り、あの時に見えた情報を整理する。
一瞬の出来事だった。スマートフォンの着信音が鳴る方へ視線を右へ移動する時に一瞬映ったあれはなんだったのか。音が鳴る方へ視線も意識も向かっていたから頭の隅に追いやられていた。今思えば、あれは何だったのか。あのとき、何かが起こった。
「木瓜くん」
考え事していたせいで彼女の接近に気づかなかった。目の前に葵さんが立っていた。
「あぁ、ごめん。気づかなかった。何かあった?」
俺は姿勢を正して彼女に聞いた。
「木瓜くん」彼女の表情は曇っていた。「携帯電話が鳴ったとき、木瓜くんの位置から見えませんでしたか?何かモヤモヤしていることがあって」
「葵さんも見たのか?」
「はい。あの時後ろの席の方にに振り向こうとしたら見えたんです。でも、音の鳴る方が気になったのでそのときは気にしてなくて」
葵さんも見たと聞いて俺は少し安心した。脳内に映し出された映像は、動いた被写体を手ぶれで撮ったボヤけた写真を見ているみたいだった。記憶がまだ整理されていないような状態で、葵さんも同じ状態に見える。
「おーい。今回の小テストの返すぞー」
数学の先生が後方の出入り口から入ってきた。生徒たちが集まると、返却が始まった。俺は空いた頃に行った。葵さんも後ろからついてきた。結果は95点。葵さんの方を見ると、赤ペンで100という数字が見えた。彼女は表情を変えずにテスト用紙を折りたたんで制服のポケットにしまった。
「先程の話を続きをしましょう」
「わかった」
席に戻ろうとしたそのときだった。
「先生、違うんです。俺ちゃんと問題解いてて……」
1人の男子生徒が抗議をしていた。
「昇、言い訳はやめろ。放課後に補習授業だ」
先生は用紙を返し終えると教室から出ていった。
「昇くん……」
「知ってるのか?」
「はい。昇紅祐くん、同じ中学出身なので。彼は頭が良い方だったと思います。赤点を取るなんて意外です」
俺は頭が軽くなるような感覚になった。昇の後ろ姿を見てあの時の映像が整理されていく。
「葵さん、あの時見えてたのって昇が座ってた席の方じゃなかったか?」
「はい。そうです」葵さんは閃いたように俺を見て言った。「もしかして昇くんが赤点をとったことと何か関係があるのかも」
たしかに、赤点をとったことを葵さん信じられない様子だった。昇の表情はそれ以上の驚いた様子で必死に先生に抗議をしていた。あのとき、何かが起きて昇のテストの点数が赤点になった。
あのとき、生徒全員と先生は右の方、廊下側の席に視線も意識も向けられていた。昇は、俺が着席している右隣の列の先頭に着席している。俺のいる位置から昇の席はよく見えていた。葵さんからは隣の席の生徒が邪魔してよくは見えない。そのなかでも見えたんだ。彼女の観察眼はすごい。
結局、わからないまま昼休みが終わり、放課後の補習授業が始まった。追い出されるように教室から出た俺は、廊下を出て階段を降りた。
2階の職員室前には、浅見咲耶が立っていた。めずらしく緊張した表情をしている。
「大丈夫か?」俺は彼女に近づいて聞いた。
「大丈夫に見える?」
「全然」俺は首を振った。
「もう」浅見の顔に笑顔が戻った。
「助けてやれなくてごめん」
「なに言ってんの?悪いことをしたのはわたしなのに」
「あの時助けてくれたろ?ボケボケってイジられてるときにイジメっ子を追い返してくれた」
「そんな昔のこと、まだ覚えてたんだ」
職員室に入退室する生徒や先生の通行の邪魔にならないようにするため、俺は彼女の隣に来た。
「覚えてる。浅見は俺の恩人だ」
「バカ湊斗」隣にいる俺にギリギリ聞こえる声量だった。
「浅見」職員室から担任の先生がやって来た。
「それじゃ。待ってなくていいからね」
「わかってる」
浅見は先生のあとについていくように職員室に入っていった。
彼女を見送ったあとに俺は考えていた。わからないままのあの件。スマートフォンの着信音に意識が向いたあのときに見た出来事を。まだ記憶の整理がうまくできていない。というよりボヤがかかってよく思い出せない。
俺はもう一度目を閉じて映像を呼び起こす。あの席付近で何かが起きた。たしか昇の隣は……右隣は生徒が邪魔で見えない。だとしたら左隣。誰だったか。女子生徒だった。名前は……思い出せない。
テストのときに用紙が1枚足りなくて、先生から紙を受け取ったのもその女子生徒だ。そいつなら何か見ているかもしれない。明日、葵さんと一緒に聞いてみるか。
「木瓜くん」
葵さんは帰宅する生徒たちを掻き分けてやってきた。
「葵さん、職員室に用でも?」
「浅見さんはもう職員室に」
「ついさっき行った。強がってるっぽかったけど内心不安だろうな」
俺は、スマートフォンが鳴った直後の浅見の動揺した顔を思い出した。
「葵さん」
「何ですか?」
「昇の席の左隣の女子生徒、名前わかるか?昇の件、そいつなら何か見てるかもしれない」
「えっと……たしか」
エピローグ
補習授業の教室は10名ほど生徒が集まった。
「昇くんも補習受けるんだ」女子生徒の声は弾んでいた。
彼女は昇の左隣に座った。
「あぁ。ちゃんと問題解いたのに赤点だったんだ。何でなんだ」
昇は疑問符たっぷりの表情で言った。
「葉草も補習受けるんだ。頭良さそうだけど」
「そんなことないよ」葉草志撫子は首を振った。「わたしもね、ちゃんと解いたんだけどダメだったみたいで」
「ホント困っちまうよな」
「やっと話せた」
「ん?何て言った?」
「ううん、何でもない。ホント困っちゃうよね」
葉草は笑顔で昇を見ていた。
廊下にあるゴミ箱には、昇紅祐の回答用紙が丸めて捨てられていた。
こんにちは、aoiです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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