第六章
ある日、道場での練習終わりの夕暮れ時に、優里は僕に向かって静かに話しかけてきた。「志郎さん、今日は話を聞かせてほしいの。」
僕はその真剣な眼差しに気づき、椅子に腰を下ろした。「もちろん、何でも聞いてくれ」
優里は少し戸惑いながらも言葉を続けた。「志郎さんのお父さんとこの道場を作った大山さんは知り合いだったのよね。積極の風に乗れって言葉はお父さんのものなんでしよ。お父さんの話を聞いてみたいわ。」
僕は少し考えてから、大山さんから聞いた父の話を語り始めた。
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「僕の父は三郎といって、十六歳の時にひどい肺炎にかかって、死にかけたことがあったんだ。当時は医療があまり発達していなくて、肺炎は本当に危険な病気だった。」
「それで父は、戦前に活躍した積洋社という団体の主催者である隆信さんという人のもとに預けられることになったんだ。イーステンドでは知らない人がいないってくらい有名だったらしいよ」
「積洋社、聞いたことがないわ」優里は視線を上に向けて言った。
それから僕は、父が積洋社の社員に連れられて、隆信さんの住む屋敷に行った時のことを話し始めた。
隆信さんのいる部屋の前まで父を案内すると、社員は「失礼のないようにな」と言って去っていった。父が案内された部屋の襖を開けると、恰幅のいい男が畳の上の座布団に座り、お茶を飲んでいた。
「はじめまして。三郎といいます」と父が挨拶すると、隆信さんは父を見てこう言ったんだ。
「話は聞いとる。肺の調子はどうじゃ?」
「具合は良くないです。熱が下がらず、毎日咳き込みますし、血を吐きます」と父は答えた。
「そうか。良くなりそうか?」と隆信さんが尋ねると、「これは治らない病気のようです」と父は蒼い顔をして言った。
隆信さんはそれを聞いて、少し考えるようにしてから話し始めた。
「わしの知り合いに医者がおってな、腹にできものができて、それを癌だと思い込んだ。そして、それをひどく心配していた。するとそれから、みるみる体調が悪くなり、ついに死んでしまった。でも、腹を開けてみると、それは癌じゃなくて、ただの脂肪の塊だった」
父は驚いて「癌じゃないのに、癌だと思い込んでいたんですね…」と考え込むように言った。
「そうじゃ。もう一人は医者に癌だと診断されて、余命は三年と言われたそうじゃ。だから、どうせなら死ぬまでは楽しく生きようと思って、毎日愉快に生きとったそうじゃ。すると、いつの間にか癌は治ってしまった」
「一人は癌じゃないのに、癌だと思って死んでしまい、もう一人は、癌が治ったのか…」父は頭の中で整理するように言った。
「心の持ち方次第で結果は大きく変わる。お前はさっき、これは治らない病気といったな。そう思っとったら、一生治らんぞ」隆信さんは父の方をみて言った。
父は確かにそうだと思った。今のままでは、自分で自分の人生を諦めているようなものだ。
「人が思ってるより、人の心の力は強い。不可能も可能になるし、その逆も然りじゃ。全ては心ひとつの置き所じゃ」
「心ひとつの置き所…」父は隆信さんの言葉を繰り返した。
「だから、お前はこれから心に消極的なことを思い浮かべるな。積極的なことだけ考えろ」隆信さんは強く言った。
「わかりました。難しそうですが、できる限りやってみます」父は真っ暗闇だった心に、爽やかな風が吹いてくるのを感じた。
「隆信さんの周りは、爽やかな風が吹いている気がします」そう父が言うと、隆信さんは声を出して笑った。「なんじゃ、それは」
「なんというか、積極の風です」父の顔色は少し赤みを取り戻していた。
笑い終えると、隆信さんは父に問いかけた。「座禅は組んだことがあるか」
父は「少しならあります」と答えた。
「こっちに来て、あぐらをかいてみろ」と隆信さんは縁側に向かって歩き出し、父を呼んだ。目の前には立派な庭園が広がっていた。
「消極的な考えや、雑念が頭から消えない時はこれから座禅を組むようにしろ。それで頭を空っぽにするんじゃ」
そう言って、隆信さんは座禅を組んでみせた。父も見よう見まねで座禅を組んだ。
「臍の下に力を入れて、肩の力を抜け。そして、肛門を絞めろ」
「はい」父は元気よく答えた。
「いまから、おりんを鳴らす。余計なことは考えず、目をつぶって、その音に集中しろ」そう言って、隆信さんはどこからか持ってきたおりんを鳴らした。
「りーん」とおりんの音が響いた。うねる音の波はだんだんと小さくなり、しばらくすると聞こえなくなった。
そのとき、父は心の枷が外れて、ふわっと軽くなり、宙へ浮かんでいくような感覚を覚えた。一瞬、周りの音の聞こえ方が変わり、頭の中が空っぽになるのを感じた。
「余計なことを考えてしまうときは、これからは座禅を組んで、心を空にするようにしろ」隆信さんはそう言って、部屋の中へ戻っていった。
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僕が話を終えると、優里はじっと僕の顔を見つめていた。「志郎さんのお父さんは、隆信さんに出会って救われたのね。なんだか、私も少し勇気が湧いてきたわ」
僕は優里の言葉にうなずいた。「そうだよ。父はその後、結核が治ったそうなんだ。心の持ち方ひとつで、世界は変わる」
「私もおりんの音を聞いて、座禅を組んでみたいわ」優里はそう言って、僕の顔を見上げた。
「今度から、座禅を組む時に、僕がおりんを鳴らすよ」と僕が言うと、「ありがとう」と言って、優里は無邪気に笑った。
「父のように、僕らも積極の風に乗って、自分の進むべき道を見つけよう」
優里は深く息を吸い込み、静かにうなずいた。「うん、頑張るわ」彼女の表情は晴れ晴れとしていた。