第四章
僕が道場を大山さんから受け継いで数ヶ月が経った頃、ある女の子が道場に入門することになった。学校には行っておらず、家で暴れて親が手に負えないと、どこかから噂を聞いて、うちの道場に入門させたようだ。年齢は17歳で、優里という名前の美しい女の子だった。サラサラした髪は肩のあたりまであり、鼻筋は通っていて、大きな瞳をしていた。
それは初めて道場に優里がやってきた時のことだった。優里は道場の入り口で立ち尽くし、大きな額に入った大山さんの書いた「積極の風に乗れ」という文字を見上げていた。
「積極の風に乗れって、だから積風会っていうの」と、優里はその文字を指差しながら言った。
僕は微笑みながら答えた。「そうなんだ。僕の父親の口癖で、この道場の先代がその言葉をとても気に入っていてね。」
優里は興味深そうにその文字を見つめ続けていた。「ふうん。積極の風って一体なんなの?」
僕は少し考え込んでから答えた。「きれいな景色を見たら、清々しい気持ちになるだろ。それが積極の風に乗るってことだよ。」
優里は一瞬黙った後、鋭く険しい顔をして言った。「そんな気持ちでずっといられたらいいわね。でも、実際はそんなの無理よ。気がつけば、すぐに最悪の気分になってるわ。」
僕は優里の言葉に真摯に耳を傾けた。「確かに悪いことを考えないっていうのは不可能だ。でも、今日は昨日より少しだけ悪いことを考えないっていうことはできるだろ。それを続けていけば、少しずつ悪いことを考えなくなっていく。」
優里はため息をつきながら言った。「きっと私の頭はおかしいのよ。すぐにイライラするの。だから私にはそんなこと無理よ。」
「頭が君を作ってるわけじゃないだろ。本質は目に見えるものではないんだ。だから心を変えれば、全ては変わる。」
優里は少し不安そうな表情で首を横に振った。「難しくて何を言ってるかわからないわ。」
優里は視線を下に落として続けた。「誰かに言われた些細な一言だとか、こんなこと気にしなくていいってわかってることを気にしてしまうの。頭から離れなくて、それにイライラしてくるの。」
僕はうなずき、優しく言った。「気にしなくていいってわかってるなら、本当の君はわかってるんだ。それは、君の心が暴走してるだけなんだよ。それをうまくコントロールしていこう。」
「そんなに簡単にいかないし、難しくてよくわからないわ。それに私が変わったとしても、他人を変えることはできないでしよ。」優里は僕の目を見つめて言った。
「積極の風は周りを巻き込んでいくんだ。最初は小さな風でも、いつか大きな風になっていく。」
「プラスはプラスを呼ぶってことね。でも、私だって、人に優しくしようと思うのよ。でも、冷たい態度をされたら、頭にくるのよ。だから人に優しくできないわ。」
僕は優里の手を取り、真剣な眼差しで言った。「それは自分本位に考えてるからだよ。積極の風に乗っていれば、別に人に優しくしようなんて考えなくていい。」
「積極の風、積極の風ってなによそれ」と優里は僕の声を遮るように、大きな声を出した。僕は少しの間黙っていた。
「悪かったわ。あなたは話しやすくて、喋りすぎてしまった。」優里は気まずそうに言った。
「構わないよ。気が向いたら、道場においでよ。またこんな風に話そう。」僕は笑顔で答えた。
優里は少し微笑んで言った。「ありがとう。今日はもう帰るわ。」
優里はそう言って、家に帰っていった。それから優里は道場に時々顔を出すようになった。
数週間が経ち、優里は次第に道場に馴染んできた。彼女の表情は少しずつ柔らかくなり、練習にも真剣に取り組むようになった。ある日、優里が道場の片隅で涙を流しているのを見つけた。僕はそっと近づき、隣に座った。
「どうしたんだい、優里?」
「家のことでまた色々あって...」優里は涙をぬぐいながら話し始めた。「私は母に見放されてるの。学校にも行かないで、道場で何をしてるんだって怒られて...」
「家の人は心配してるんだよ。でも、君がここで頑張っていることを分かってもらえるように、時間をかけて伝えていこう。」
優里は不安そうな顔をして言った。「でも、どうやって?」
「一歩一歩、前に進んでいこう。今日できることを少しずつやっていくんだ。」
優里は少し考えた後、うなずいた。「分かった。少しずつやってみる。」
それからの優里は、家での問題にも真摯に向き合い、少しずつ状況を改善していった。彼女の努力はやがて家族にも伝わり、道場での彼女の成長を認めてもらえるようになった。
数ヶ月後、優里は初めての対外試合に挑んだ。緊張しながらも、彼女は全力で戦い抜き、見事に勝利を収めた。その瞬間、彼女の顔には自信と喜びが溢れていた。
「積極の風に乗るって、こんな感じなのかな?」優里は試合後に微笑んで言った。
「そうだよ。君はもう積極の風に乗ってるんだ。」僕は優里の肩を叩き、心からの祝福を送った。
優里との出会いは、道場だけでなく僕自身にも新たな学びと気づきをもたらしてくれた。大山さんの教えを受け継ぎ、父の言葉を広げていくことの大切さを改めて実感することができた。