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第二章

僕の父親代わりである大山さんは、心臓の病気で近くの大学病院に数週間前から入院していた。心臓が良くないことは知っていたが、入院が決まった時はショックを受けた。本人が言うには、もう長くは持たないということだ。毎週日曜日、僕は大山さんの見舞いに行った。


「人生の終わりが近づいてくると、やはり死についてよく考えるようになる」


大山さんは、眼鏡の奥から優しい眼差しをベッドの脇の椅子に座る僕に向けた。真っ白になった髪は無造作にベッドの上に散らばっていた。


「そんなこと言わないで下さい。きっと良くなりますよ」


僕は咄嗟に切実な声を出した。


「死は確かにこの世とのお別れではあるけれど、私自身はもといた場所に戻っていくだけだと思うんだ」


大山さんはゆっくりと喋った。


「どういうことですか。大山さんの体が地球に還るという意味ですか」


「そういう意味ではなくてね、私は人間を肉体だけの存在とは思っていない。人間の本体は魂だと思うんだ。死んで肉体が動かなくなるのは、魂が抜けてしまうからだと思う。でも、その魂は元からあった大きな流れの中に戻るだけで、この世に残り続ける気がするんだ。だから、私が死ねば、私の人生は終わるけど、私はどこかに残るような気がする」


大山さんの言わんとしていることは、何となく僕にもわかった。父が亡くなってからも、父の言葉は僕の支えとなって消えることはなかった。人間というのは、肉体が全てではないし、心が全てでもない。


「宇宙は物質からできたんじゃないだろ。何もないところからできたんだ。だから私たちも本当は精神的な存在なんだと思う。だから私が死んで、この体が動かなくなったって、それで悲しまなくていいんだ」


大山さんは笑いながらそう言った。その言葉を聞いて、僕の心は少し軽くなった。僕の方が、励まされてどうするんだと思いながら、死を前に落ち着いている大山さんを心からすごいと思った。


「この命は君の親父さんにもらったものだ。本当はあの時に死んでいたと思えば、ここまで生きていられただけで感謝しかないよ」


大山さんは戦争で敵に捕われて、殺されそうになったらしい。その時、父が大山さんを助けて一命を取り留めたそうだ。


「一度死にかけたことで、生きていることは本当に素晴らしいことだとわかったんだ。君の親父さんには感謝しかない」


大山さんは優しい顔をしてそう言った。




それから数週間後、大山さんの容体が急変したと連絡があった。僕は急いで病院に駆けつけ、大山さんの病室へと走った。僕が大山さんの病室へつくと、大山さんはベッドの上で看護婦さん達に囲まれ、集中治療室に運ばれようとしていた。


「志郎、来てくれたんだね。一つお願いがあるんだ。君に僕の道場を継いで欲しい。積風会を」


大山さんは出しにくそうな声を振り絞って、突然そう言った。僕は思いもよらぬ言葉に驚いた。積風会は大山さんがしている道場の名前だ。


「僕は空手は得意じゃないし、有段者でもないんで、無理ですよ」


僕はとっさにそう答えた。


「この道場は、君の親父さんの『積極の風に乗れ』っていう想いを受け継ぎたくて、開いたんだ。こんなことは言いたくなかったんだが、一生のお願いだ。君が親父さんの想いを受け継いでいってくれ」


そんなことを言われたら、僕は断ることができなかった。


僕は重々しく口を開いた。「わかりました」


「頼んだよ」


大山さんは安心したように微かに笑った。看護婦さん達が、大山さんの寝ているベッドを部屋の外に動かし始めた。


「大山さん頑張ってください」


僕はベッドを追いかけながら、大山さんに声をかけた。


「私はいつでも積極の風に乗っているよ」


大山さんは苦しそうだったし、痩せてしまって、顔色も悪かった。でも、優しい笑みを浮かべ、取り乱した様子はなかった。そして、大山さんを乗せたベッドは集中治療室に運ばれて行き、僕は一人廊下に取り残された。


大山さんは今まで何度も僕に何かを言いかけては、やめることがあった。本当はずっとこのことを言いたかったのだろう。でも、僕が断ることがわかっていたから、言えなかったのだ。


大山さんの道場には、僕の幼馴染の友人であり、空手三段の建がいる。どう考えても、彼に道場を任せた方がよかった。しかし、大山さんにあんな顔をされて、一生のお願いと言われては、僕に断ることはとてもではないが、できなかった。


そして、その日の夜、大山さんは亡くなった。待合室の椅子で僕はその知らせを聞き、音を立てずに泣いた。待合室にいたのは、僕と大山さんの奥さんの京子さん、娘の沙苗さんだけだった。二人は声を出して泣いていた。僕にとっても、大山さんは家族同然だった。死を目前にして、動じない大山さんを心から尊敬した。大山さんは最後まで積極の風に乗り続けたのだ。




大山さんの葬儀が終わり、日常が戻ると、僕は大山さんの道場を引き継ぐために動き出した。空手の腕前には自信がなかったが、大山さんの遺志を継ぐことを誓った。

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