二章 武藝ノ一 ②
中学三年の夏、野球部の地区大会の初戦で、礼央の学校と番斗の学校は対戦した。対戦が決まったときは、礼央はみずからの悲運を嘆いた。
小学校に入学したときから野球を続けてきた礼央は、高校進学を機に野球から離れることを決意していた。体格的に不利な礼央は、野球を続けたところで、よい成績を残す見込みはなかった。大学受験に力を入れなければならないとも感じていた。
中学三年の夏の大会は、九年間の野球人生の集大成となるはずだった。そんな大事な大会の初戦で、あの太田番斗が投手で四番を務める強豪校に当たってしまったのだ。礼央の通っていた名もない学校には、勝ち目がなかった。
実際、番斗の完璧な投球と一試合三本のホームランを前に、成す術がなかった。礼央の中学は、誰もが予想した通りコールド負けを喫した。
礼央は涙を流しながら、自分の運命を恨み、球場をあとにした。しかし、球場の外に出ると、大柄な男に声を掛けられた。その男こそが、牛込高校野球部の監督だった。
コールド負けがかかった最終回、相手のエラーで出塁した礼央は、監督の指示で盗塁した。盗塁が失敗したところで、コールド負けを免れるとは考えられなかった。
失敗のリスクがなかったからこそ、礼央は思い切って盗塁をした。九年間の思いをぶつけるように、全力で走った。
盗塁は、成功した。番斗の視察のために観戦していた牛込高校の監督は、そんな礼央の盗塁に心を打たれたのだった。
うとうとしていた礼央は、机の上に置いていたカメラを床に落とした。カメラと床とがぶつかり合い、大きな衝撃音が教室中に響き渡った。
全身から汗が噴き出した。その音は廊下にも渡り反響して、しばらく礼央の耳から離れなかった。この校舎に、敵が潜んでいる可能性はなかった。すべての出入り口には、他の兵が夜通しで見張っているからだ。
安全とはわかっていながらも、この緊迫した空気のなかに響きわたった音は、礼央自身の心拍数を存分に上げた。もしも、同じことを戦場で犯していまっていたら、命取りになっただろう。
床に転がったカメラを拾い上げ、顔を上げると、眠っていたはずの大男の目が開いていた。体勢は机に突っ伏したままだったが、その瞼はしっかりと開いていた。
「大丈夫か?」
番斗は、低く唸るような小さな声を発した。それは、数時間ぶりに聞いた声だった。戦争体験が始まって以来、仲間同士では必要以上の会話は交わされなかった。
それは、戦場での会話は、相手に自分たちの居場所を悟られてしまうことにつながるという、もっともな理由だけではなかった。
戦争体験の空気に飲み込まれてしまうのだ。自陣にいるときでも、多くの会話は交わされなかった。番斗が眠りに就く前も、礼央と番斗の間に会話はなく、いつの間にか眠ってしまった。
「カメラを落としただけだから、心配いらないよ。安心して」
礼央の声は、先ほどの緊張からか、意に反して、少し震えていた。
「いや、そうじゃない。カメラ、壊れてないか?」
礼央は、カメラが落ちた音ばかりを気にかけていた。気が動転していてカメラが壊れているという可能性を見失っていたのだ。急いでカメラの電源を入れると、しっかりとデジタルカメラは起動した。
カメラの画面の明かりを光源として、教室はほんのりと明るくなった。番斗は冷静だった。目の前の大男には、野球以外でも到底敵わないのだと思い知らされた。
「大丈夫だったよ」
「よかった」
番斗は上体を起こし、窓の外に目をやった。礼央もつられて窓の外に目を移した。そこには相変わらずの真っ黒な校庭と、それよりも明るんだ曇り空があった。時間が止まったように何も動かず、音も聞こえない、どこまでも続く闇だった。
「宇宙みたいだ」
番斗が呟いた。確かに、何もない暗闇は、宇宙に見えないこともなかった。だが、宇宙とは大きく異なっていることがあった。星がないのだ。
この曇った空には、無数の煌めく星は存在せず、地上にも光を発するものはほとんどなかった。遠くの校舎の窓から漏れた光が、蝋燭の火が揺らめくようにポツポツと見えるだけだった。
「下田修は知ってるよな?」
しばらく窓の外を見つめていた番斗が、何かを思いだいたかのように唐突に訊ねた。礼央も、当然、下田修を知っていた。
戦争体験が始まる前は、彼の話題で持ちきりだった。謎の三年生、下田修。芸術面に長けた生徒たちで構成される一藝軍の大統領だった。