一章 電脳ノ一 ⑥
昼間には見えなかったかすかな光。夜だからこそ、曇った暗い夜だからこそ、啓介の目に留まった弱々しい光。きっと、ずっと以前から、この池の底に眠り続けていたに違いない。
みずからの存在を知らせるために光り続け、だれにも気づかれることがなく、底に沈み続けた。池の底で見つけられるのを待っているのだ。
捲っていたはずのジャージーの裾に水しぶきが掛かった。波が立たないように歩いていたはずだったが、そのもどかしさに耐えられなかった。啓介の早る気持ちは、その足を急かした。
ついに、紫の光のもとに辿り着いた。底から照らされ、濁った水が紫色に浮き上がってくるように感じた。濃い霧の向こう側に、明かりが灯っているようにも見えた。
腕を温い水中に忍び込ませると、すぐに紫の霧の中に消えていった。見たこともないものに対する恐怖は感じなかった。触れそうで、遠いような実態のつかめない光に酔いどれそうだった。神秘的な未知の空間に、忍び込むような高揚感で満たされていた。
指先が泥に触れたが、光源の位置は分からなかった。手探りで辺りを探した。池底の泥が舞い上がり、かすかな紫色の光は水面に届かなくなったが、構わずに探った。
重く大きな塊に触れるのに、さほど時間は掛からなかった。泥に埋もれるように、その塊は潜んでいた。被っていた泥をはらいのけ、その塊を水中から、引き上げた。水中では、重く感じたその塊は、水の外に出すと案外軽かった。
引き上げたものは、金属製の黒い箱だった。大きなダイスのような箱の側面には、紫に光る電球が取りつけられていた。箱の底面に当たる部分は蓋となっており、簡単な留め具によって閉じられていた。
啓介は、この箱に見覚えがあった。啓介に限らずとも、戦争体験では、誰もが目にする箱だった。この箱は、応援箱と呼ばれる箱だった。
構内に無数に隠された大小さまざまな応援箱には、あらゆる道具が入っていた。その道具によって、多かれ少なかれ戦争体験を有利に進めることができた。
そして側面に埋め込まれた電球の色によって、木箱に階級が定められているはずだった。紫色が、どれほど珍しいものかは、啓介にはわからなかった。しかし、紫色のものに見覚えはなかった。
蓋を持つ啓介の手は、微かに震えていた。蓋の留め具をはずすと、見た目以上に機密性の高い構造をしており、箱の中に水は入り込んでいなかった。啓介は恐る恐る箱の中を覗きこんだ。
箱を開くと、中に月の光を反射して輝くものがあるのが見えた。啓介は、箱を反転させて、それを水中に落とさないように注意しながら、右手の上に落とした。
それは鍵だった。変哲のない南京錠の鍵だ。そして、鍵によりも一回り大きなストラップのようなものが、細い鎖によってつながれていた。
いや、ストラップにしては、デザイン性に問題を感じるものだった。針金のような硬くて細いものが、一見無秩序にグシャグシャと塊を作っていた。手のひらに乗せると針金の先端が刺さり、むず痒かった。
鍵と針金の塊を箱に戻し、慎也たちがいる岸を目指した。暗闇の中で、慎也たちの姿は、見つけることが難しかったが、なんとか見つけることができた。近づくと、慎也が興奮した様子で、大きな素振りで啓介に手招きをしていた。
「早く戻ってこいよ」
慎也が敵兵に見つからないように呼んでいることに気がついたときには、すでに空の明かりに照らされた慎也の姿も確認できていた。
「それは、応援箱じゃないか。しかも、紫色は一番珍しい階級だぞ!」
啓介が池から上がろうとしていると、興奮ぎみに話す慎也の声が聞こえた。電気が流れたように全身が痺れた。最上の階級の応援箱が、どれほど貴重なものかは、啓介も聞いたことがあった。全校を通しても、数年に一度見つかる珍しいものだった。
しかし、啓介にはその驚きと喜びを表現する力が残っていなかった。啓介の体力は奪われていたのだ。啓介は、土の上に横になると、無言で頷くことしかできなかった。
「休んでいて構わないよ。箱の中身を確認してもいいか?」
啓介が再び頷くと、慎也は箱の蓋を開き、鍵と針金の塊を取り出した。箱に取りつけられた紫色の電球でそれらを照らすと、鍵と黒々と光る針金の塊が姿を見せた。
慎也はそれを見て、顔をしかめた。鍵だということはわかっても、針金の塊の存在意義を見出せなかった。慎也も、啓介と同じように思考の渦の中から抜け出せなくなっていた。
しかし、慎也は何かに気がついたように、倒れた啓介に視線を移した。
「啓介は、この針金がなんだと思う?」
「検討もつかないよ。その針金も最新式の鍵なのかな」
「いや、それは違うな」
眼鏡の奥の瞳は、得意げに輝いていた。この針金の塊を見ただけで、何かがわかったというのだろうか。しかし、その中には少しの迷いも見えた。
「この鍵が、どこの鍵だかわかるか?」
「わかるわけがないじゃないか」
「その通り。つまり、この針金の塊に、その場所のヒントが隠されているに違いない」
じっくりと慎也は、黒い針金の塊を観察した。舐めるように見入るその姿は、すぐにでも答えを導き出してしまいそうだった。他の隊員は、慎也の様子を見守った。
慎也が針金を眺めるのを止め、再びこちらを見た。その顔は満面の笑みだった。
「わかったのか?」
啓介は、はやる気持ちを抑えながら尋ねた。
「さっぱりだ」
慎也は堂々と答えると元の鉄の箱に鍵を戻し、自身のリュックの中に大切そうに仕舞った。結論は出ず、胸の中にしこりが残った。しかし、大統領の上島ならば、きっと針金に隠された鍵の意味を読み解いてくれるに違いない。
どこかに眠る錠を開ける鍵が、紫色の応援箱の中に入っていた。この鍵が重要な意味を持っていることは明らかだった。この鍵が開いた扉の奥には、何かとてつもない宝物が眠っているのだ。