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夜陰にストロボ  作者: アラヤ
一章 電脳ノ一
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一章 電脳ノ一 ⑤

 啓介は、小学生で初めてラケットを握ったときから、特別な扱いを受けた。周りの友達と比べても、啓介のテニスの才能は抜きん出ていた。少し練習すれば、年上の経験者を負かしてしまった。


 練習すればすぐに強くなることが嬉しくて、毎日のように練習した。小学校の高学年になるころには、地元の大会では、何度も優勝するようになった。


 中学校に入っても、テニスに対する熱が冷めることはなかった。大会では目覚ましい成績を残し続けた。周囲も啓介自身も、将来に期待していた。どれだけの偉業を残せるのかを、夢見ていた。


 その活躍に目をつけた高校は多くあった。推薦の話は、毎日のように上がった。その中でも、広大な敷地と古い伝統を持つ牛込高校からの推薦の話は、啓介を一際喜ばせた。


 両親は、戦争体験学習の存在に難色を示したが、最後には啓介の意思は尊重され、牛込高校に入学することになったのだ。


 しかし、牛込高校に入学すると、同じように推薦を受けた者が集まっていた。牛込高校の硬式テニス部の中では、啓介の実力は目立つものではなかった。レギュラーの部員たちと練習試合をすると、まったく歯が立たなかった。啓介にとって初めての挫折だった。


 練習すれば追いつけると信じていた。牛込高校の厳しい練習に食らいつけば、自分もレギュラーに入れるのだと、思い込もうとした。しかし、いくら練習しても、成長している実感はわかなかった。


 逃げ出したいという気持ちが、心をかすめることは次第に多くなっていたが、そんなことは言い出せなかった。


 冬のある日、いつものように練習していた。それは啓介にとって、単調な作業となっていた。何を考えるわけでもなく、ただ来た球に合わせてラケットを振った。そこには、楽しみもなく、向上心もなかった。


 辞められない状況そのものが、啓介の足を動かしていたのだ。その練習風景を監督がじっと見つめていた。何かアドバイスをくれようとしてくれるのかもしれない。しかし、強くなりたいという感情は、すでに啓介にはほとんど残っていなかった。


 険しい表情を変えずに、監督が啓介のもとに歩み寄ってきた。そして、嘲笑するようにふんっと咳払いをすると、


「君、本当に推薦で入ってきたの?」と一言捨てて去っていった。啓介の心の中で弱々しくも燃えていた情熱が、ついに消え去ったのだ。怪我をしたのは、その三日後だった。


 慎也は遮ることなく、啓介の話を聞いていた。しっかりと目を見て、啓介の告白を受け止めていた。慎也に批判されても仕方なかった。啓介が身勝手で、逃げ出したのだ。


 長い間、積み上げてきたものを、いとも簡単に投げ出した啓介は、咎められて当然だった。


 弱い自分が恥ずかしかった。テニスが下手なことは、どうでもよかった。強くなろうという意思を失ってしまった自分が情けなかった。すべて吐き出してから、後悔の思いが押し寄せた。


 話すべきではなかったのかもしれない。テニス部の部員はおろか誰にも話せなかった思いだった。にもかかわらず、慎也にはすべてを話してしまった。


 どうして、こんなにも唐突に自分は慎也に思いをぶつけてしまったのだろう。怪我で部活を辞めたのだという勘違いを慎也がしたままならば、それは嘘をついているように思えたからだろうか。


 それとも、小学生の時からお互いを知っているから、素直になったのだろうか。はたまた、小隊長として指揮をとる慎也ならば、何か答えを導いてくれると思ったのかもしれなかった。自分の気持ちすら理解できなかった。


 啓介の話を噛み締めるようにじっと黙る慎也を直視できなかった。慎也は、どんな気持ちでいるのだろう。次の一言を聞かないために、耳をふさいでしまいたかった。


 唐突に慎也が吹き出した。視線を慎也に向けると、大きな眼鏡の向こう側には、満面の笑みを浮かべた慎也の細い目が見えた。


「スーパーテニスプレイヤーの初めての挫折ってわけか」


「何がそんなに面白いんだ」


 想定外の反応に、拍子抜けした。そして、真剣な啓介の告白を笑われて、苛立ちを覚えた。慎也は、もっと真剣に相談に乗るものだと思っていた。やっと吐き出した気持ちを笑い飛ばされて、胸が痛んだ。


「俺はパソコンが好きだから、パソコンをやっている。お前は、テニスが好きだったから、テニスをやっていた。でも、好きじゃなくなったから、テニスを辞めた。それだけのことだろう」


「そうだけど」


「だったら、簡単じゃないか。またテニスが好きになったら、そのときテニスをやり直せばいい。他に好きなこと見つければ、それに没頭すればいい。それだけのことなのに、どうしてそんなに考え込んでいるんだよ。


 今は、少しの休憩期間だ。今までテニスばっかりに没頭し過ぎていたんだよ。立ち止まればいいじゃないか。周りのことなんて気にするな。啓介の人生は啓介のものだ。やりたいように、やればいいんだよ」


「……ありがとう」


「まだ十六歳だろ。もし八十歳まで生きるとしたら、今から始めた新しいことを七十年も楽しめる」


 眼鏡の奥の目は、より一層細くなった。啓介の告白を笑い飛ばしたのも、慎也なりの優しさだったのだ。慎也の言うように、自分は深刻に考えすぎているのかもしれない。


 自分の人生にとって、テニスは一部で、全部にはなり得ない。テニスに代わる何かを見つけることで、新たな自分を見つけて、新しい生活を見出せるかもしれない。


 しかし、そんな前向きな思考に、啓介は到底なれそうになかった。慎也は、充実した今があるから達観できるのだと、苛立ちににた感情さえ抱え、同時に慎也が羨ましかった。


 没頭できるものがあり、自分の全力を捧げる対象がある。慎也に比べてしまったら、自分は屍だった。


 何も手につかなければ、何をやる資格もない。そんな卑屈な気分は、理解してもらえないだろう。本来のレールから脱線してしまった啓介が、元のレールや他のレールに戻ることが、いかに困難か。


 慎也の言ったように、笑い飛ばしてしまいたい。啓介だって、そう願っていた。


 橙色のテントの下、時間はゆっくりと流れた。日は完全に沈み、辺りは暗闇に包まれた。沈んだはずの太陽が照らす空は、まだほんのりと明るかった。


 それでも、その光が地に届くことはなかった。昼間に晴れ渡っていた空も、今は薄い雲がかかり、星は見えそうになかった。日が沈むとともに、遠くから聞こえていたデモの太鼓の音も止まった。


 無線からの指示で、啓介たちがこの基地を去ることになった。長く続く、気の抜けない見張り番に嫌気がさし始めていた隊員は、重荷が降りたようにテントを去る準備を始めた。次の見張り番にテントを明け渡すと、ぞろぞろと今朝に歩いたはずの道を戻った。


 自陣とはいえども、木々の中に敵が潜んでいる可能性はあり、明かりは灯さずに進んだ。暗闇の中のその道は、明るかったときとは、まったく異なる道に感じられた。足元も見えない中を進んでいると、暗闇の中、宙を浮いているような錯覚も覚えた。


 しばらく進むと、左手に白んだ空が広がった。暗くて確認はできないが、そこは先ほど立ち止まった池の前だと推測できた。池に咲いていたはずの睡蓮の白い花も、確認することができないほどの闇だった。小隊は当然のごとく、池には目もくれず通り過ぎようとした。


 池が視界から消えようとしたとき、最後尾を歩いていた啓介は、その視界の隅に小さな違和感を覚えた。池の上で何かが動いたような気がした。啓介はとっさに足を止めた。


「おおい。また、ここで止まるのか?」


 前方から、慎也の声が聞こえた。しかし、今朝とは明らかに違う。得体の知れない何かが、強く啓介の足を引き留めた。先ほどは漠然と感じていた不思議な力を、今は強く感じることができた。何かが、池に潜んでいるのだ。


「何か動かなかったか?」


「やめてくれよ。変なことを言い出さないでくれ」


 啓介は来た道を数歩引き返し、池に目を凝らした。違和感の正体はなんだ。視界の隅で捕らえたものは、何だったのだ。しかし、そこには一切動かない、静かな水面があり、到底、人間が隠れているとは思えなかった。


「何もいないみたいだぞ」


「いや……」


 啓介は気がついた。違和感の正体を突き止めたのだ。白んだ空が写った水面に、紫の色味を帯びて不自然に光を発している部分があった。濁った池の中に光源が沈み、その周囲を照らしているのだ。


「水面が光っているんだ」


「光っている?」


 目を凝らしても確信が持てないほどの光だった。見間違いだと言われれば、納得してしまうような弱々しい光。月光が乱反射している程度の光。それでも、池の底に何かが眠っているという根拠のない自信が芽生えていた。


 小さな光は、自分の消え入りそうな存在に気づいてもらおうと、池の中で啓介のことを呼んでいた。この国を選んだときにも感じた根拠のない自信。その自信につながる手がかりが、目の前で眠っている予感がした。


「少し見てくる」


 啓介は、他の隊員の制止を振り切り、裸足になりジャージーの裾を捲し上げると、池の中に静かに足を浸した。日中の灼熱が池の中で彷徨っているように、池の水は温かった。


 怪物の髄液に足をつけているような不快な暖かさだった。足底は、小石の混ざった泥の感触を感じた。池の底に触れても、その水面は啓介の膝の下に位置していた。池は案外浅かった。


 かすかに紫に揺らめく水面に向けて、重い足を前に進めた。泥に足を取られそうになりながらも、池の中心に眠る宝を目指して、もがくように進んだ。


 今の啓介には、その光る水面だけが見えていた。木々も空も、うしろで見つめる慎也たちも、啓介の視界には入っていなかった。


 光に近づくにつれて、その明るさを感じた。啓介の思い込みではなく、池の底には、光源となる何かが埋まっているのだ。どんなものが埋まっているのかは、想像がつかないが、この上なく魅力的なものに感じられた。

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