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夜陰にストロボ  作者: アラヤ
一章 電脳ノ一
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一章 電脳ノ一 ①

 八月もあと一週間で終わるというのに、相変わらずむせかえるように湿った空気が啓介の体に纏わりついた。額に滲んだ汗は何度拭おうと意味をなさなかった。高校へと伸びる無味な一本の坂道は長かった。


 以前よりも筋肉が落ちてしまった啓介の二本の足は、止まりそうにながらも、強い精神力によって辛うじて動かされていた。今日は特別な日だ。遅刻するわけにはない。今日は戦争体験の初日で、啓介が一ヶ月ぶりに自室から出た日でもあった。


 遠くからはざわめきが聞こえていた。坂の上に人々が集まっていることは、気温とは別質の熱気によって感じることができた。その熱気が暑さを助長して、啓介の足を止めようとしていた。


 規則正しく鳴り続ける太鼓の音と時折響く甲高いホイッスルの音は、高校が近づくにつれて次第に大きくなった。ついにその音源となる群衆が、啓介の視界に入ると、あまりの迫力にたじろいだ。


 牛込高校の正門の前には無数の人間がひしめいていた。おびただしい数の大人が、牛込高校に集まり、何かを叫んでいた。戦争体験学習に反対する人たちがデモを起こしているのだ。それは今朝のニュースで既に取り上げられていた。


 啓介は、デモを制する警官のひとりに誘導され、なんとか正門まで辿り着いた。牛込高校は高いコンクリートの高い塀によって囲まれていた。


 それは監獄のようでもあり、生徒を危険から守る城壁のようでもあった。一触即発の様相を呈したデモ隊も、この壁を越えることはできなかった。


 青々とした山の斜面を左に仰いだ。この山も牛込高校の敷地の一部だった。濁流によって運ばれた瓦礫が、小高い山に堰き止められたように、牛込高校の幾つもの校舎はべたっと山の足元に散らばっていた。そして、高校を囲うコンクリートの壁は、山の斜面に沿って、頂上の方まで伸びていた。


 傾斜の急な山道を登った人間はほとんどおらず、塀がどこまで続いているかは定かではなかった。頂上まで伸びている可能性もあったが、啓介の身長の何倍もの高さの壁を頂上まで建設する必要はなさそうだった。険しい斜面そのものが、巨大な壁の一部のようだったからだ。


 正門を潜ると、夏休み前まで授業を受けていた校舎を横目に、さらに先を目指した。


 今日は教室で授業を受けるわけでもなく、だからと言って、教室に集まって、戦争体験の概要が説明されるわけでもなかった。戦争体験は、午前九時を境に音もなく始まるのだ。


 広大な校舎を移動するにつれて、デモの音は存在こそ主張していたが、少しずつ遠ざかり、気にも止まらなくなっていた。世間には戦争体験に反対する人が一定数存在することは自明だった。しかし、例年の戦争体験ではこのようなデモが起きたことはなかった。


 啓介は、二週間前のテレビ画面に映った映像を鮮明に覚えていた。夏休みも中盤に差し掛かり、昼のワイドショーを眺めていたときだった。


 急に画面が切り替わり、記者に囲まれる男の姿が映し出された。総理大臣の安藤だった。髪の毛は刈り揃えられ、肌は健康的に焼けていた。スーツの上からも見て取れる豊かな体格は、彼を実際の年齢よりも若々しく見せていた。


 何か重大な発表があるようだったが、そのアナウンサーの緊張から、ただごとではないことが読み取れた。記者たちのざわめきが収まるのを堂々とした佇まいで待っていた安藤が口を開いた。


 ゆっくりと、そして力強く伸びのある声からは、落ち着きが感じられた。まるで親が、駄々をこねる子どもを諭すような口調だった。


 安藤が発表したのは、自衛隊の呼称を日本防衛軍と改めることだった。そして、改称という名目のもとで、軍事予算を引き上げるとの発表だった。記者たちはどよめき、ワイドショーのスタジオに映像が戻ったあとも、スタジオはざわついていた。


 確かにその発表は驚くべきものではあった。しかし、メディアが騒ぎ立てる裏で、啓介をはじめとする多くの日本人は、その発表を冷静に受け止めた。この数年の間に、世界各地で武力衝突が頻発していた。無差別な殺戮を目的としたテロが、多くの地域で勃発していた。それは独立国家の設立を目指す武装勢力によるものだった。そのムーブメントは、島国である日本を切り離して考えるべきではなかったのだ。


 その発表の直前、新宿駅で大規模な爆発が起きた。その爆発によって、二十人あまりの命が失われた。当初は、事故の可能性が高いとされていた爆発だったが、数日後には、例の武装勢力によって、犯行声明が出された。


 それまでは海の向こうの話だったテロは、日本中を恐怖に染めた。


 安藤首相が発表した内容も、いずれ訪れる未来として、誰もが覚悟していたものだった。ついにこのときが来たのだ。憲法九条を犯しかねない総理の発表も、多くの人は理解を示した。


 もちろん、中にはその発表に強く反発する人もいた。それもまた当然のことだった。先人の築いた平和の国家が崩壊するかもしれないのだ。彼らが声を荒げて抗議するのにも納得がいった。


 安藤の経歴も、彼らを刺激する原因のひとつだった。安藤は、かつての自衛官だったのだ。防衛大学校を首席で卒業し、自衛隊入隊後も、異例の速さで昇進した。


 しかし、彼は突如として、自衛隊を離れた。東京大学に再入学し、法学部を卒業した。卒業後は早々に衆議院議員となった。議員としてのキャリアを積んだ安藤は、昨年晴れて内閣総理大臣に任命された。


 元自衛官という異色の経歴を持つ安藤は、議員となった際も、総理大臣に指名された際も、議論は盛り上がった。元自衛官の首相就任は、軍国主義の再来かと恐れられていた。


 しかし、先週の発表があるまで、防衛に対してはむしろ無頓着なくらいに関わりを持たなかった。さまざまな懸念に反発するように、そつなく総理大臣としての任務をこなした。


 新宿でテロが起こった際の毅然とした対応についても安藤は称賛された。安藤に反感を抱く人々も、次第に影を潜めていった。


 その平穏な状況が先週の発表を機に一変し、各地でデモが起こった。感情の矛先は、牛込高校の戦争体験学習にも向けられたのだった。


 野球場に到着すると、その静けさに不思議な緊張を感じた。綺麗に均された土は、これから起こる戦闘を受け入れる準備ができたことを暗に訴えていた。あと一時間もしないうちに、戦争体験は始まる。


 ベースは綺麗に土が払われ、マウンドはしっかりと整えられているのが遠目に見えた。その傍らには、小さなコンクリート性の無機質な小屋があった。


 普段は野球部が部室として利用しているものだ。普段であればその小屋から、日焼けした野球部員がゾロゾロと出てきて練習を始めるのだろう。


 しかし、今日の嫌に静かなこの景色は、異様な雰囲気に満ちていた。目の前の野球場は戦場としての緊迫感が張りつめ、野球部の部室小屋は、軍の拠点としての威圧感を持っていた。啓介は、野球場の土を踏まぬよう、大きく迂回して小屋へと向かった。


 小屋に唯一設けられた扉を開けると、がらんとした空間を埋め尽くすように、ジャージーを纏った兵士たちが、所在なさげに座り込んでいた。入ってすぐ、小さな学習机に向かった小柄な男に声をかけられた。


「名前は?」


「井納啓介です」

 

 男は、手元に置かれた名簿を漁った。人数の少ない名簿から、啓介の名前を見つけ出すのは容易だった。


「確認できました」


 彼はそう言うと、床に置いてあった段ボールからデジタルカメラを手渡した。どこにでもあるこの古臭いデジタルカメラが、五日間をともにする相棒となるのだ。


「適当に着替えて、荷物は隅に置いてください」


 男はそれだけ言うと、啓介には興味がないように、目をそらした。床に座り込む男たちはこれから仲間となるはずだった。すでに彼らは親密そうに談笑していて、啓介は疎外感を感じた。


 座っている人たちを避けて、小屋の奥に移動すると、ひとり淡々と高校指定のTシャツとジャージーに着替えた。普段、体育の授業で着せられるものだ。


 スクールバッグから取り出したTシャツには、数字が書かれたゼッケンがついていた。体育の授業では、つけることはない。昨夜、自身で取りつけたものだったが、それを見て、戦争体験という非日常に呑み込まれることを実感した。

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