上陸
みずみずしく生い茂る森の中、無数の枝と葉が光を遮り、ひんやりと涼しい空気が漂っている。葉っぱや足元の草に水滴がついていることから最近雨が降ったのだろう。濡れた緑と土の匂いが鼻から全身に行き渡り、心と身体を癒してくれる………はずだった、本来ならば。
「うーん………」
腕を組みながら、ゆっくりと一回転して周りを見渡す黒髪の男、ナナシ・タイラン……。その強張った顔を見れば、彼がリラックスなんてしていないのがわかる。
もう一回転、くるりとターンするとナナシは上を向いた。木々の隙間から太陽の光が射している。だけど目的の島民の気配はまったく感じない。自分がどこから入って来たのかもすでにわからない。つまり……。
「………迷ったっぽいな、俺」
正確には、っぽいのではなく完全に迷っている。考え無しに見ず知らずの森に足を踏み入れた者の当然の顛末である。
「まぁ、まだ日は高いし、なんとかなるだろ!気の向くまま、風の向くまま、進んで行こう!」
毎度お馴染みのポジティブシンキングというか、開き直りを炸裂させて再び歩み始める。そういうところが今の事態を引き起こしたとは思わないのだろうか……。ただ、現実的にここでじっとしていてもどうにもならないのも事実である。
ここは世界から切り離された未知の孤島、ツドン島、当然ナナシに知り合いはいないし、そもそもここで迷っていることを知っているのも世界でナナシただ一人。
待っていても助けなど来るはずないのだから。
「散歩っていうにはちょっと険しいが……特に歩き辛いってこともないな……」
森の中、舗装されてない道なき道をまっすぐ進んでいく。それなりに鍛えている男には障害と呼べるようなものはない。ただ……。
(さっきから……また視線を感じるんだよな………)
この短期間で同じようなことを続け様に経験して辟易しているナナシ……。そして今回もまたやっぱり、彼に再び得体のしれない獣が忍び寄っていた。
(二度あることは三度あるってことか……冗談じゃねぇ!頼むから気のせいであってくれよ……)
視線を無視して進むナナシだったが、いつまで経っても振り切ることができない。
(俺に付きまとって……何が目的だ……?普通に考えたら獲物が疲れ果てて弱るのか、自分の得意なフィールドに足を踏み入れるのを待っているんだろうけど……だとしたら、このまま無視してていいのだろうか……)
何か起きそうで起きない停滞した空気がナナシの心を不安にさせる。今、こうして何もしないことが敵の思う壺なのではないかと疑心暗鬼のような状態に陥ってしまっていた。
こういう状況で取る行動でその人間の本質を測ることができるが、ナナシ・タイランという男が取った行動は……。
「ええい!考えてたって埒が明かねぇ!とりあえず!おもいっきり逃げる!」
地面を強く蹴り、ナナシは急加速した!木々の隙間をするするとすり抜け、新緑の世界を駆け抜ける!しかし……。
ドスンドスンドスンドスンドスンドスン!
「くそ!やっぱり気のせいじゃない!俺のことを追って来ている!」
憶測が確信に変わる!重厚な足音がいつまでも背後から離れない!しかも、どんどんその音が近づいているような気がする……いや、間違いなく、近づいている!
「ちぃっ!しょうがねぇ!またまたやってやんよ!」
ナナシは方向転換をして、一際大きな木の影に隠れた!
「ウホッ!?」
追跡者の視界から一瞬で獲物は姿を消した。
追跡者は獲物がいなくなった木の周りをゆっくりと一周するが、まったく影も形も見当たらない。
カサッ………
頭上から葉っぱと葉っぱが擦れる音がして、一枚二枚と葉が落ちて来た。追跡者はこれまたゆっくりと上を向くと……。
「ガリュウハンマー!!」
「ウホッ!?」
ゴスッ!
木の上に隠れていた紅き竜が戦鎚を力いっぱい振り下ろしながら、落下してきた!しかし、追跡者が気づくのが僅かに早かったのか、彼?の反応速度がナナシの予想を越えていたのか、戦鎚は虚しく空を切り、地面に穴を開けただけだった。
「この……避けてくれちゃって……つーか、てめえ……確か……ラリゴーザだっけか……?」
ナナシガリュウの黄色の眼に映った追跡者の姿は以前に見たことのあるものだった。
銀色の毛を全身に生やした人型の獣ラリゴーザ、ナナシが豪華客船ビューティフル・レイラ号で戦った中級オリジンズである。勿論、前に会ったものはダブル・フェイスに殺害されているので同一個体ではなく、同種族であるだけの別ものだが。
「できることならお前とは二度と会いたくなかったんだけどな……」
甦るかつての苦い記憶……。豪華客船での戦闘では結局倒すことができずに、みっともなく傭兵に丸投げした。彼の中では思い出したくない屈辱である。
「まっ、今回はお前をけしかける奴もいないし……このまま、お別れしようじゃないか?」
「………」
「無視かよ……」
ナナシの提案をラリゴーザは無視……というか理解できてない……というかなんか太い腕をブンブン回している……。
「あぁ………そちらはやる気満々なのね……」
「ウホッ!」
「これは答えんのかよ!?」
ナナシの言葉に返事するかのように、叫び声を上げながらラリゴーザが飛びかかる!
「ウホォッ!!!」
ブゥン!
「おっと……」
ラリゴーザが巨大な拳を紅き竜に振り下ろす!だが、ナナシガリュウは難なく回避!二度目ともなると慣れたものだ!……喜ばしいことではないけど。
「そっちがその気なら………オラァ!」
ゴォン!
「ウッ!?」
回避のついでにナナシガリュウは獣の横に回り込み、お返しとばかりにハンマーをおもいっきり振るう!戦鎚が隙だらけになったラリゴーザの脇腹に突き刺さった!悶絶する獣はよろよろと後ずさる。
ナナシはそれを追撃せずに、ハンマーを肩に担ぎながらただ見送る。
「もうこれに懲りて、やめにしてくれるとありがたいんだけど………」
ナナシ的にはラリゴーザと戦う理由も倒す必要もないのだ。この一撃でびびって逃げてくれればと淡い期待を持つが、それは脆くも崩れ去った。
「ウホォォォッ!!!」
再度、叫び声を上げて巨体が地面から離れる!けれど、今回の跳躍が向かう先は紅き竜ではなく頭上の木だ!
「何!?」
ナナシが銀色の背中を目で追うが、その時にはすぐに別の木に飛び移っていた!更に別の木に、更に更に別の木に……飛び移るごとにスピードを上げていく!
「こんなこともできんのかよ……」
感嘆と絶望が入り交じった言葉を呟きながら、必死にラリゴーザを視界に捉えようと忙しなく頭を動かす。けれども、徐々に獣の姿を、影すらも追いきれなくなっていく……。
「ウホッ!」
「――ッ!?………どこ行きやがった……!?」
先ほどナナシ自身がやったように大木の影に隠れた瞬間、ラリゴーザは姿を消した……。
ナナシガリュウは頭上の木々をキョロキョロと注意深く観察する……が!
「ウホォッ!!!」
「うおっ!?」
いつの間にか地上に降りていたラリゴーザが竜の背後から強襲!かろうじて地面を転がり避けることはできたが、今回は反撃できる余裕はなかった。
「ウホッ!」
攻撃を避けられたラリゴーザはまたすぐに木の上へ……その巨体に似合わない軽快さでピョンピョンとそんなつもりはないのかもしれないが、ナナシには挑発しているように見えた。
「くそ!ふざけやがって……」
ナナシは強い苛立ちを覚えた。獣の行動にではない。自分の情けなさを再認識したからだ。
(船の上で会った時は確かに場違いだなって思ったけどよ……まさかホームグラウンドだとここまで強いのかよ……万全の状態じゃない奴に、あんなに苦戦したってのに、イケイケになってる今のあいつに勝てるのか……?)
ラリゴーザが以前の戦いでは本気を出せていなかったこと、それに勝てなかったことがナナシはショックだった。ただでさえオリジンズと戦うことに苦手意識を持っているのに、更に悪化していく気が……。
「ウホォォッ!!!」
「なっ!?」
戦場のど真ん中で考え込んでしまったナナシにラリゴーザが強襲する!完全に隙を突かれた!
パワーと防御力は元々一級品、スピードだって遅いわけではなかったのに、それにも磨きがかかっている。つまり速度も加えた拳の破壊力は船の時よりも遥かに上だということだ!
それが一直線にナナシガリュウの顔面に迫って来る!最早、回避できる距離ではない!
「ウホォォッ!!!」
ガギン!
「ウホッ!?」
「……え?」
ナナシは咄嗟に手を出し、ラリゴーザの拳を受け止めた……受け止めたのだ!拳を受け止められた獣も、受け止めた竜も驚きを隠せない。
「ウホッ、ウホッ!」
「あっ……しまった……」
あまりにも驚き過ぎて、ナナシはあっさりラリゴーザの拳を離してしまう。獣は逃げるように木の上に登って行った。
「どうなってんだ……?前に戦った時はグローブを着けて、おもいっきり殴って相打ちだったのに……こんな簡単に……」
ナナシがじっと自分の手のひらを見つめる。あれだけの攻撃を受けておきながらダメージは特にない。とてもじゃないが信じられなかった。
しかし、現実にはそれが起きた。そして気づく、自身の身体が熱を帯びていることに……。
「ん……これってまさか反射的に完全適合してたのか………」
ナナシガリュウは本人も気づかない間に完全適合状態になっていた。ここにきて鈍くて間抜けで、意外と卑屈で昔のことを気にするナナシもようやく理解する。
あの時とは違うことを……。
「そうか……そういえば最初に奴と戦った時は完全適合使えなかったんだっけ……もしかして………もしかしなくても俺って、もうあいつより強くなってる……」
ナナシはぐっと拳を握り込む……。こうなったら逆に自分の力を試したくなってきた。
その思いに応えるようにラリゴーザが先ほど以上の勢いをつけて襲いかかる!
「ウホォォッ!」
パンチのコースは先ほどと一緒でナナシの顔面に!けれど、さっきと違いナナシはその軌跡を読み、そこに自分の拳を置く……ガリュウグローブを装備していない拳を。
「でりゃあ!!」
バギッ!!!
「ウ、ウホォォォォッ!?」
ラリゴーザの拳が!腕が一方的に砕け散る!吹き出した鮮血が周囲の葉っぱや草に降り注ぎ、腕を抑えながら後退するラリゴーザ……。
ナナシはそれに目もくれず自分の拳を再び見つめた。
「やっぱり俺……ナナシガリュウは強くなってる……!いや……それはわかっていた。でも、ピースプレイヤーやブラッドビースト相手じゃなく、苦手なオリジンズ相手でも……あっ!」
「君のお父様、ムツミ・タイラン大統領が推薦してきたんだよ」
「今回の件も君にとって大変なことになるかもしれないが、いい経験になるだろ、特に今の君には……って言ってたし」
ナナシの鼻腔に紅茶の香りと、脳裏に影法師の言葉がフラッシュバックする。そして同時に当時、感じた疑問がようやく解消された。
「そうか……親父が俺をこの島に来させたかったのはこのため……俺にオリジンズの苦手意識を克服させるためか……ずいぶんと荒療治だな……!」
確かに荒っぽいやり方だが、その効果をナナシは実感していた。幸か不幸か、もうすでにここに来るまでに二種類のオリジンズを退けており、ラリゴーザを倒したら陸海空コンプリートである。自信にならないわけがない。
「今思うと、ブラッドビースト相手には優位に立ち回れたのは自信があったからかもな……なんてったって、ガリュウは心を、感情を力に変える特級ピースプレイヤーだからな……!」
全ての合点がいき、ナナシは勝利を確信した。けれど、相手はそうではないようで……。
「ウホォォッ!」
ラリゴーザは自慢の拳を砕かれ、完全に逆上している!最早策も何も無しに、ただ真っ直ぐ紅き竜に突進してくる!
「もう勝負は決したんだよ、バカが……」
紅き竜の右手に拳銃が現れる!そう、いつものやつである!
「太陽の弾丸」
ドシュウゥゥゥゥゥゥゥゥ!!!
辺り一面が眩い輝きに包まれ、木々を揺らしながら、光の竜が天に高く昇っていく……。
「ウ、ウホッ!?」
それを見たラリゴーザは急ブレーキからのUターン!持てる全ての力を足に込めて、全速力で森の中に消えて行った。
ナナシがラリゴーザと戦う理由がなかったように、ラリゴーザも命をかけてまでナナシに執着する理由はないのだ。
「野生の本能か……さすがに判断が早いな……後々のことを考えて体力温存しようとしたのが、裏目に出てたんだな。これなら最初から全力を見せておくべきだったな……」
ナナシガリュウが拳銃を消し、肩の力を抜くと、紅の装甲から熱が失われていった。戦闘モードを解除し、獣を見逃した。
「うーん!殺さなくて済んだのは良かったな……ラリゴーザ、お前には色々と学ばせてもらったよ……」
紅き竜は両手を上げ背筋を伸ばし、ストレッチをした。仮面の下に隠れている顔は非常に晴れやかだ。
端から見れば、無駄で余計な戦闘だったかもしれないが、ナナシには得るものは大きかった。しかも相手の命を奪わずに済んだ。彼にとってまさに最良最高の結末だった。
「まぁ………問題は何も解決してないんだけどな………はぁ………」
確かにオリジンズとの戦いに自信を持つのはいいことだが、今の彼に必要なのはどこに行けばいいのかを教えてくれる道標だ。もちろんそんな都合のいいものはない。
「まだ日は高いし、なんとかなるだろ!気の向くまま、風の向くまま進んで行こう!……これ、さっきも言ったな……」
ナナシは無理やり自分を奮い立たせ、再び歩き始めた。だが、彼は気づいていなかった。自らを見つめるもう一つの視線に……。ラリゴーザではない。奴との戦いの前から、戦っている最中もそれはじっと何もせずに眺めていた。隙ができるのを待っていたのだ。
そして、ついにその時が来た!戦闘を終え、満足のいく結果を得て完全に油断している紅き竜の背後に新たな野生の刺客が牙を剥いた!
「ガアァァァァァァ!!!」
「なっ!?」
振り返るナナシの眼前に鋭い爪と牙を持つ四足歩行の獣が迫っていた!その牙が竜の喉元に噛みつこうとした。その時……。
「我が敵を貫け、氷の矢よ」
ザシュ!
「ガアァ!?」
突如、透き通るような声とともに氷柱が飛んできて獣の皮膚をいとも容易く切り裂いた!
「ガア!」
獣は地面に落ちると、すぐに起き上がり一目散に逃げて行った。
「奇襲が失敗したら、逃亡一択……賢いな、少なくとも蓮雲よりは頭がいい……」
ラリゴーザと同じようにその獣もナナシは見逃した。これまた特に戦う理由もないし、それよりもずっと気になることがあるからだ。
「大丈夫ですか?」
「災難だったわね……」
氷柱が飛んできた方向の森の中から少年と美しい女性がこちらにやって来た。
「結果オーライって奴か……?」
ナナシ・タイラン、はからずも現地の人間と初遭遇に成功する。




