エピローグ:ネームレス
「次のニュースです。ムツミ・タイラン大統領が就任後、初の……」
ブゥン……
豪勢なホテルの一室、この国の大統領のニュースが流れるテレビの電源を、その男は消した。このニュースに対して複雑な感情が入り交じり、どう向き合ったらいいのか、わからないのだ。
「ふぅ……」
一息つきながら、窓の外に目を向ける。かなりの高層階で見晴らしはいい。けれど、そんな美しい景色と反比例するかのように彼の心は曇っている。
「神凪の……いや、世界でもトップクラスのホテルに泊まっているというのに浮かない顔だな……ネームレス」
窓の外を見ていた金髪の男、ネームレスに、背後から色っぽいハスキーな声で、気品溢れる女性が声をかける。
「ノックぐらいしたらどうだ、『レイラ・キリサキ』」
ネームレスは振り返り、女の顔を見る。
普通の女性だったら、その鋭くも美しいその戦士の眼差しに怯みもするが、彼女は一切動じることなく、ネームレスの緑色の瞳を見つめ返した。
「したよ、ノック……お前がボケっとしているから気づかなかっただけだろ?」
レイラは呆れたようにネームレスに反論する。彼女の立場上礼儀知らずだと思われるのは心外だ。
「……そうか……それは済まなかった」
素直に謝るネームレスだが、どこか卑屈になっているように見えて、レイラの顔が歪む。
「……まだ、本調子に戻らないみたいだな。私はお前が肉体も、精神も最強の戦士だと思ったから、わざわざこんな部屋まで用意してもてなしているんだぞ?」
レイラは嫌味を込めつつ、ネームレスを叱咤激励する……が、それも無駄だったようだ。
「君には感謝している……君の父親に迷惑、いや、そんな軽いもんじゃないな……」
ネームレスの頭にレイラの父親、ケンゴ・キリサキの顔が思い浮かぶ。それと同時に胸がひどく締めつけられた。
「父のことは気にするな。自業自得、それにこうなることは覚悟の上だろう。常々、私にキリサキファウンデーションを任せて、とっとと自分は隠居したいと言っていたから、ちょうどよかったんじゃないか」
ネクロ事変と呼ばれることになった先の大統領誘拐殺人事件に協力したケンゴは当然、失脚することになった。そして、その後を継いでキリサキ家の当主になったのが、このレイラなのである。
「父、ケンゴは純粋過ぎた……だから、あんな無茶をする。はっきり言って大財閥のトップには向いてなかったんだ……」
父親のことを冷静に分析するレイラ。そこに全く親子の情はない。ただ財閥のトップとして、反面教師にしているだけだ。
「だが、私は違う。財閥の発展のためには手を汚すことも辞さない……ゲンジロウ・ハザマのようにな」
ネームレスの眉間にシワが寄る。やはり、死んだとしてもハザマのことは許せない。しかし、今の自分が彼を非難する資格がないことも彼は嫌というほど理解している。だから、ただ黙って目の前のレイラを睨み付けることしかできないのだ。
「そんな顔をするな……例えばの話だ。私だってハザマのようになりたいわけではない……あんな末路を知ってしまったらな……」
その言葉で、またネームレスの胸が締めつけられる。あくまで犯した罪を償わせたかっただけで命を奪うつもりはなかった。
それなのに……。
「悔いているのか?だとしたら、私に協力しろ。父の件を払拭するために、今まで以上にキリサキは慈善事業に力を入れる。しかし、こんな商売をしていると逆恨みをされることもある……中には暴力で事業を妨害しようとする輩もいる……そんな無粋な奴らから私を守って欲しい。そのために私はリスクを犯して、お前のようなアウトローを匿っているんだからな」
当然といえば当然だが、レイラは上から目線でネームレスに恩を着せる。彼もそれは重々承知だ。
「君には感謝しているし、出来る限りの協力はするつもりだ……ただ……一つだけ頼みたいことがある」
ネームレスには文句はない……というより言える立場じゃない。それでも、そんな立場であっても、どうしても聞いて欲しい願いが彼にはあった。
「ネジレのことだろう?」
「わかったのか?」
さすが大財閥の当主と言わんばかりにレイラがネームレスの思考の先を行く。ネームレスも一歩前に出て、食い付いた。
「残念だが、まだ足取りは掴めていない……」
「……そうか……」
レイラは申し訳なさそうに、首を横に振り、それを見たネームレスの顔が再び沈んでいく。
恥を忍んでここにいるのも、全てはあの仮面の所在を得るためなのだ。
「済まないな」
「いや、君が謝る必要はない」
謝罪するレイラに今度は、ネームレスが首を横に振った。ここまで世話になっておいてこんなわがまままで聞いてもらっているんだ。責めたり、急かしたりなんてできない。
一方のレイラも元々の人間性か、キリサキ家の当主としてのプライドか、彼の願いを叶えられない自分が許せない様子で二人の間に重い空気が流れる。
「そうだ、せっかくだから食事でも一緒にどうだい?」
「いや……俺は……」
空気を変えようとレイラがネームレスを食事に誘うが、これまた彼は首を横に振った。彼としてはこれ以上、迷惑をかけたくなかっただけだが、これはさすがに空気を読めてない。
「……そうか……では、またの機会に……」
「あっ……」
そう言って、部屋から出ようと背を向け歩き出したレイラの寂しげな後ろ姿を見て、ようやくネームレスが自身の選択の間違いに気づく。なんとか取り戻そうと何か声をかけようとするが、何を言ったらいいかわからない。このままではレイラが出て行ってしまう。
そんな状況で彼がひねり出したのは……。
「あの!」
「なんだ?まだ何か用があるのか?」
「いや……自分の娘の名前を船に付けるなんて、いいお父さんじゃないか……?」
ネームレスが出した答えは、レイラの父ケンゴのことを話すことだった。先ほどの会話から自分のせいで親子関係が悪くなっているんじゃないかとずっと引っ掛かっていた。結局、レイラのことを気遣っているようで、自分の過ちをフォローしたかっただけだと、自己嫌悪に陥る。
そんな突拍子もないことを言って、勝手に落ち込むネームレスの顔を見て、レイラの顔に笑みがこぼれた。
「父のことは気にするなと言っただろう。それに親子関係が悪くはなっていない。船に娘の名前を付けるのはあれだが……とにかく、お前は少し真面目過ぎるぞ!もっと気楽に生きろ!」
逆にネームレスを元気づけて、レイラは部屋から出て行った。それを見送るとネームレスは再び窓の外に目線を移した。
「また気を遣わせてしまったな……俺なんかに……」
そんな資格は自分にはない。本来なら、然るべき処罰を受け、この国の国民全てから罵倒されてもおかしくないのだ。むしろ、その方がネームレスにとっては楽だっただろう。
それでも、彼は選んだのだ、かつての仲間であり、忽然と姿を消したネジレを追うという道を……。
「どこにいるネジレ……?お前は俺達に何をさせたかったんだ……今も、何か企んでいるのか……?」
燦々と輝く太陽を睨み付けながら、ネームレスはどこにいるかわからないターゲットに語りかけた。




