第119章第2話【冥王第一補佐官と脱走者】
外から聞こえてきた怒号に、オルトレイはふと顔を上げる。
「あのワンちゃん、まーた怒鳴っているが」
「おそらく5分以内に私のところへ駆け込んでくる訳だが」
「いや、1分以内だな。聞いたか、あのビブラート。絶対に犯人の襟首を引っ掴んで駆け込んでくるぞ」
「ビブラートなどやっていたか?」
キクガがそう言った直後のこと、バタバタバタバタという荒々しい足音が聞こえてくる。怒声が聞こえてから僅か10秒足らずの出来事だった。
オルトレイもまた僅か10秒で執務室付近までやってくるのは想定外だったらしい。ケラケラと笑いながら「早くないか」と言っていた。笑い事ではないような気がする。
そして、執務室の扉が荒々しく開かれた。ついでにバキャアという何かを破壊する音も。
「キクガあああああああああ!!!!」
「ぶち殺すぞコラあああああああああああ!!」
「おぐあッ!?」
応接セットに座っていたオルトレイが弾かれたように立ち上がると、飛び込んできた相手が用件を言うより先にその顔面へ飛び蹴りを叩き込んでいた。キクガが相手を認識するよりも素早い制裁だった。
その飛び蹴りを叩き込まれた何某は、キクガの執務室の扉ごと後方に吹き飛ばされる。重々しい音も遅れて聞こえてきた。哀れなどこぞの獄卒に、キクガはそっと合掌しておく。
ややあって、オルトレイに飛び蹴りを叩き込まれた何某が、よろよろとキクガの執務室に入ってくる。
「テメェ……オルト……!!」
「その扉は誰が直すと?」
オルトレイが冷ややかに告げれば、その何某は自分の手を見下ろした。キクガの執務室の扉が何やらぶっ壊れた状態で握ったままになっているのにようやく気づき、口から「あ」と絶望に満ちた声が漏れる。
その何某は、灰色のふさふさとした毛皮が特徴的な狼人間――獄卒課課長のアッシュ・ヴォルスラムだった。目を見張るほどの怪力を誇る彼はうっかり力加減を間違えて色々なものを壊し、そのたびにオルトレイから説教を受けることを繰り返している。今回も同じような展開となってしまった。
泣きそうな銀灰色の双眸でオルトレイとキクガを交互に見やり、アッシュは心底しょんぼりした力のない声で「すまん」と謝罪した。先程の怒声を発した人物とは思えないほどの弱々しい声だった。本気で悪いと思っているようで、彼の腰から伸びたふさふさの尻尾がへにょりと力なく垂れ落ちている。
オルトレイはアッシュの手から扉をもぎ取ると、
「ほら、オレはこれを直すからお前はキクガに話があるのだろう。とっとと話してこい」
「はッ、そうだった!!」
自分がここに来た理由を思い出したらしいアッシュが、キクガに「大変だ、キクガ!!」と詰め寄る。勢いが良すぎて思わず仰け反りそうになった。
「どうかしたのかね」
「罪人が脱走した!!」
アッシュが「すまん!!」と勢いよく謝ってきた。勢いが良すぎて執務机に頭をぶつけ、もんどり打っていた。忙しない獄卒課課長である。
そこまで慌てるということは、よほど大勢の罪人を逃がしたか重い刑罰を与えられた罪人を逃がしたかのどちらかである。前者は力技でどうにかなるが、後者はキクガが出張る必要がある。さて、今回の騒ぎはどちらになるか。
キクガは「少し落ち着きなさい」と言い、
「逃げた罪人の数は?」
「1人だ」
「なるほど、では重い刑罰を与えられた罪人か。名前は?」
「リリム・サヴェランだ。何人も男を籠絡した『淫蕩の魔女』とか言われてた」
「ああ、なるほど」
その裁判ならばキクガも記憶がある。というか、自分が関わった裁判なので記憶にあるのは当然のことだ。
その魔女は卓越した魅了魔法の腕前を持ち、数々の男を籠絡して手駒にしたことで死刑を言い渡されたのである。本来ならば日の当たらない暗い牢獄にぶち込む程度の罪状で済むはずなのだが、彼女は数多くの家庭を破壊し、男どもの財産を食い潰し、時に国さえも傾けさせた『傾国の美姫』とも密かに囁かれていたほどだ。
そんな訳で、危険人物扱いということで冥府に送り込まれてきた訳である。情状酌量を求めて彼女は冥王第一補佐官であるキクガにしなだれかかってきたものだから、女だろうと迷わずぶん殴ったこともしかと記憶があった。何なら思い出すだけで拳が疼く。
キクガは「なるほど」と納得したように頷き、
「大方、刑場への移送中に獄卒の誰かが籠絡されたかね」
「アム坊がウインクだけでコロッと」
「……彼、女性耐性がなさすぎでは?」
「好みの年上だったってことも起因してるだろうな」
アッシュは深々とため息を吐き、キクガは天井を振り仰いだ。
こうして嘆いていても始まらない。事件はすでに発生しているのだから解決に向けて動かなければならないのだ。
相手は魅了魔法の達人である。並大抵の獄卒では簡単に手駒にされてしまうだろう。果たして現在は何人が残っているかどうかということになるが、考えるより先に動いた方がいい。
「アッシュ、現場の捜索と罪人の収容を優先。女だろうが何だろうが躊躇うことなく暴行しろ。婦女暴行の罪で冥府の刑場に落とされた罪人たちも首輪をつけて連れて行きなさい」
「罪人を犬のように扱うのかよ。まあ分かったけど」
「オルト、すまないが手伝ってほしい」
「こんな大変な事態を眺めていながら『手伝わない』など言おうものなら薄情だろう。承知した、探査魔法を仕掛けてから探してみよう」
ちょうど執務室の扉を修理し終えたらしいオルトレイが、右手を軽く振って魔法を発動させた。
濃紺の色をした小鳥のようなものがオルトレイの手の動きに合わせて召喚され、空を切って勢いよく飛んでいく。執務室の天井付近を大きく円を描いて飛んでいた濃紺の小鳥は、甲高い声で鳴くと「ついてこい」と言わんばかりに部屋を飛び出した。
オルトレイは小鳥が飛び去った方角に視線をやり、
「あっちにいるようだな」
「あっちは冥府転移門がある方角じゃねえか?」
「ああ、そういえばそんなものがあったな。オレは利用したことはないが、あれって気軽に使っていいものか?」
「今その話って必要か?」
オルトレイとアッシュの会話に耳を傾けながら、キクガの思考回路は嫌な予感を弾き出していた。
何かの間違いであってほしいとは願うばかりだが、オルトレイの探査魔法が罪人の居場所を冥府転移門にありと答えを弾き出したら大問題である。獄卒を籠絡しまくって、すでに冥府総督府まで罪人が入り込んでいるとまずい。
冥府転移門を使用すれば現世に逃げることだって可能だ。現世に逃げれば再び彼女は大勢の男を籠絡し、悪夢がまた始まってしまう。冥府の責任問題は免れない。そうなったらキクガは冥王と共に首を飛ばされる羽目になる。
キクガは純白の鎖『冥府天縛』をじゃらりと腕に巻きつけ、
「あんな目玉たくさんの上司と心中する訳にはいかない。早急に淫蕩の魔女は捕まえる訳だが」
「お前、そんな上司でも過去に何度か助けられただろうに。恩義はないんか」
「恩義はあるから真面目に仕事へ取り組み、上司の仕事も補佐している訳だが。私が何度、彼の我儘を聞いてやったと思っているのかね」
「そうだった。過去はめちゃくちゃ真面目だったのに、お前が冥王第一補佐官に就任してから我儘になったし変態になったんだった。あれは確実に甘え倒してるよなぁ、可愛くないくせに」
「ぐちゃぐちゃ話してねえで、とっとと行かないとまずいだろうが!! 足を動かせ足を!!」
アッシュに促され、キクガとオルトレイは脱走した『淫蕩の魔女』なる罪人を捕獲するべく執務室を飛び出した。
《登場人物》
【キクガ】脱走者と聞いて頭を抱える。たびたび脱走者が出るのはどうにか出来ないものか。
【オルトレイ】探査魔法も完璧に使えちゃう魔法の秀才。自他共に認める面倒見の良さ。
【アッシュ】獄卒課の課長。灰色の体毛を持つ狼の獣人で、銀狼族と呼ばれる種族の長を務めていた。




