第107章第4話【異世界少年と脅かし】
八雲夕凪は教職員寮にてぬくぬくしていた。
「はふぁ……もうそろそろ春が近いとはいえ、まだまだ寒いのう……」
囲炉裏の側に正座して、温かい緑茶を啜る純白の狐野郎。部屋の暖かさに表情もだらしなく緩んでいた。
時期は立春を迎えた頃合いではあるものの、世間一般はまだまだ寒い。特にこのヴァラール魔法学院のある場所は北の果てにあるものだから、雪も溶けていなければむしろまだ雪が降る気候である。夏は若干涼しいのは嬉しい限りではある。
八雲夕凪は「はふ」と吐息を漏らし、
「今日も平和じゃぁ、問題児も今日は大人しいしのぅ」
自ら余計なことを引き起こさなければ、八雲夕凪もこんなものである。普段から馬鹿なことをしているのが嘘のような落ち着きっぷりだ。
今もこうして緑茶を啜る姿に気品や神々しさがある。日常でよく見る阿呆な行動や言動がまやかしみたいだ。腐っても豊穣神であることが窺える。
すると、
――こんこんこん。
教職員寮の部屋の扉が叩かれた。
「誰じゃい、こんな平穏な時にぃ」
八雲夕凪は座布団から「どっこいしょ」と重たい腰を上げる。重たいのは9本も生え揃った立派な尻尾のせいであると言い訳をしたいところだ。絶対に加齢のせいではない。
「ふぁい、どちら様じゃ」
「わたくしですの」
「身共もいます」
「お」
扉の向こうから聞こえてきたのは、同じ七魔法王に名前を連ねる魔女と聖女の2人であった。ルージュとリリアンティアである。
この2人が八雲夕凪の元を訪れるのは珍しい。特に接点はない2人であるが、どちらも美しい容貌をしているのは間違いない。ルージュはまるで薔薇の花の如く気高い美しさがあり、リリアンティアは清純な百合の花の如し愛らしさがある。お近づきになれるのは爺としても嬉しいところだ。
扉越しに八雲夕凪は弾んだ声で、
「何じゃぁ、夜這いならぬ昼這いかのぅ。いやいや、儂には妻がおって」
「いいから開けるんですの、このスカポンタン」
「はい」
何やらルージュが、ご機嫌斜めな様子で扉を開けることを強要してきた。
八雲夕凪は自分が何かをやったかと記憶を巡らせるが、物覚えが悪いのか加齢のせいなのか定かではないが思い出すことが出来なかった。多分、言われれば思い出すだろうが碌でもないことなので思い出さない方がよさそうである。
先程からリリアンティアがひたすら扉をノックしているし、ルージュがやたら「開けなさい」と言ってくるので、とっとと扉を開けて部屋に招き入れた方がよさそうだ。これでは借金取りのようである。
八雲夕凪が扉を開けると、そこには可憐な2人の魔女と聖女が――。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」
「あーッ!!」
「ぎゃああああああああああああああああああ!?!!」
八雲夕凪は思わず絶叫していた。
扉を開けた先に立っていたのは可憐で美しい2人の魔女と聖女ではなく、緑色の腐ったような肌をして目玉が眼窩からこぼれ落ちたゾンビだった。服装はボロボロのドレスに汚れた修道服、肌が溶け落ちた箇所から覗く白い骨の様子が異様に気持ち悪い。夜に見たら間違いなく絶叫からの心停止確実の見た目をしていた。
ついでに口の中の様子も様変わりしている。ルージュとリリアンティアはどちらも健康的な見た目の女性ではあるが、歯は抜け落ちて黄ばんでおり、舌の上には粘ついた血みたいな液体が溜まっている。もう明らかにアカン奴である。
不意に、ゾンビ化したルージュとリリアンティアが指先を八雲夕凪めがけて伸ばしてくる。
「あぎゃあああああ指も腐り落ちているのじゃああああああ!!!!」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」
「あーッ!!」
「りりあ殿はそれ叫んでおるだけじゃろ!?!!」
彼女たちの美しい指先にも腐敗が侵食しており、肉が剥がれ落ちた指先から骨が見え隠れしている。こんな細部に至るまで本格的にゾンビを演じなくてもいいのに。
というより、彼女たちにこのような高い化粧の技術はないはずだ。ルージュの化粧の技術は一般的な婦女子と何ら変わらず、リリアンティアに至っては普段から化粧の『け』の字もしないようなお子様である。こんな化粧の技術を持っていたら、収穫祭は大いに盛り上がるだろう。
そこで、八雲夕凪はピンと閃いた。こんな高い化粧の技術を持っている人物に心当たりがあった。
「おのれ、問題児か!?」
「ご明察です」
「え?」
声が上から降ってきた。
ふと八雲夕凪が天井を見上げた途端、何かが空を切って落ちてきた。その正体が判明するより先に、落下してきた何かは八雲夕凪の背中に素早く取り付いた。
するりと八雲夕凪の首に、そして腰に細い縄のようなものが巻き付いてくる。よく見ると、それは人間の腕だった。首に2本、腰に2本の合計4本が八雲夕凪に巻き付いている。
耳元で、声。
「おーじーいーちゃーん」
「あーそびーましょー」
視界の端に、2匹の化け猫が映り込んだところで八雲夕凪の意識は途切れた。
☆
陽動としてルージュとリリアンティアを動員し、奇襲組としてショウとスカイが担当することとなった。
奇襲するのは簡単である。転移魔法で八雲夕凪の頭上と足元に移動し、背後から襲いかかればいいだけだ。転移魔法の行使は現在視の魔眼を持つスカイが担い、頭上から八雲夕凪に襲いかかる役目は運動神経の優れたショウが担当することで役割分担を果たした。
作戦は見事に成功したが、
「……無様ですね」
「いやー、ブッサイク」
「後悔はしないんですの。反省する素振りすら見えなかったんですの」
「身共も満足です」
床に転がった八雲夕凪を取り囲むショウ、スカイ、ルージュ、リリアンティアの4人は悪しき白狐が晒す無様な気絶姿を眺めていた。
奇襲作戦が成功し、八雲夕凪が声なき悲鳴と泡を吹きながら倒れたのはつい数分前のことである。現在は白目を剥き、大きな口からだらりと舌を垂れさせ、ぶくぶくと泡も吹き、ついでにシモの方も大洪水を起こしている何とも悲惨な状況だった。目も当てられない大惨事である。
可哀想だとは思うが、自業自得なので助け起こすような真似はしない。残念ながら無様な気絶姿をどこまでも晒してもらおう。
すると、
「他の教員から通報を受けてきた――ゔぁッ」
「あ、学院長」
「お疲れッス」
「ご機嫌ようですの」
「こんにちは、学院長様」
「何なのその格好!?」
どうやら八雲夕凪の部屋でドタバタやっているのを他の教員が通報したようで、学院長のグローリア・イーストエンドがやってきた。
彼はショウたち4人に施された特殊メイク姿を見るなり、紫色の瞳を見開いて驚きを露わにする。さすがアイゼルネの特殊メイク技術である、もう見ただけで他人を驚かせることが出来るぐらいに素晴らしい出来栄えのようだ。
ショウは「ご迷惑をかけたことは謝ります」と謝罪した上で、
「ですが八雲のお爺ちゃんの自業自得です。このハクビシンはユフィーリアとアイゼさんをナンパして、ルージュ先生の魔導書に涎をひっかけて返却して、リリア先生の畑の農作物を食べて鴉を呼び寄せましたから」
「程々にしなね」
「気絶しちゃったのでもう終わりです」
罪状をつらつらと並べ立てると、グローリアも仕返し相当のものだと判断したのだろう。神妙な顔で頷いて納得していた。
「ところでショウ君、いいの? こんなところで油を売ってて」
「何でですか?」
首を傾げるショウに、グローリアが平然とした口調で返す。
「ユフィーリアが海底探索から帰ってくるって」
「急いでお化粧を落としてきますお迎え待っていてくれユフィーリア!!」
「切り替え早いなぁ」
愛しの旦那様が帰ってくるということで、ショウは特殊メイクを落とすべく用務員室に引き返すのだった。
《登場人物》
【ショウ】何においてもユフィーリア優先。旦那様の前に出るならこんなふざけた化粧の姿では出ない。
【アイゼルネ】どうなったかしら〜♪
【スカイ】現在視の魔眼のおかげで転移魔法は得意。
【ルージュ】ゾンビの鳴き声は一般の小説(ゾンビパニック小説、マッチョなワイルドイケメンが主人公)を参照。
【リリアンティア】ルージュからゾンビの鳴き声を教えてもらったが、叫ぶだけだった。