第102章第8話【冥王第一補佐官と課長たち】
冥府マラソンは無事に再開できる運びとなった。
「全く、ちゃんと生活態度を見直せ。ただでさえお前は細いのだから」
「すまない」
「謝るな。『僕はちゃんとご飯を食べて、ちゃんと寝ます』と言え」
「私はちゃんとご飯を食べて、ちゃんと寝ます」
「よし」
冥府マラソンのコースを逆走しようと企んでいた第3刑場の脱走者たちを冥府天縛で引っ張りながら、キクガは申し訳なさそうに言う。素直に生活態度も改めることも宣言した。
オルトレイは、キクガが冥府にやってきた時から何かと世話を焼いてくれる魔法使いである。最初こそ「お前のような後ろ盾もなければ筋肉も脂肪もない奴が冥府の現場など出来る訳がなかろう」と言われたものだが、食事の面倒とかちゃんと寝ているかなどを定期的に確認してくれるようになったのだ。オルトレイの子供になったような気分が味わえた。
料理の腕前も卓抜しており、今でもたまに――というか1週間に1回はキクガの部屋を訪れては大量に料理を仕込んで帰っていくのだ。「食堂ばかりを頼ると栄養価が偏る」というのがオルトレイの主張だった。
不出来な息子みたいに扱ってくるオルトレイは満足げに頷き、
「はあ、これからはちゃんと飯を食ったか毎日部屋を訪れなければならないではないか」
「迷惑ではないのかね」
「オレとて冥府の獄卒寮暮らしだぞ。迷惑でも何でもないわ」
「いや、彼女とか作らないのかと」
「作らんわ、戯け!! 誰がいるか女など!!」
オルトレイは『彼女』の単語を出した途端に声を荒げた。髪の毛もどこか逆立っているようである。
「いいか、キクガよ。お前の亡き妻はそれはもういい女だったことは認めよう。しかしこの世に於いて女は作るな、本気で作るな。嫉妬に狂って呪術に手を出してきたり、手作りの菓子に媚薬や惚れ薬などの魔法薬をぶち込み、挙げ句の果てには夜這いと称して首を狙ってくる馬鹿タレが多いのだ」
「そんな馬鹿な」
「ちなみにオレの体験談だ。ご静聴どうもありがとう」
「肝に銘じよう」
キクガは真剣な表情で頷いた。これが本人の体験談ならば肝に銘じておかなければ本当に命が危ぶまれる。
「それにしても」
「何だ、キクガよ」
「よかったのかね、孫娘だなんて。君は、ユフィーリア君が自分の息子であったと気づいているのだろう」
オルトレイは青みがかった瞳を、キクガに投げて寄越しただけだった。
気づいていない訳がなかった。オルトレイがたまに冥府台帳を管理する記録課の事務所に出入りをしており、ユフィーリアの台帳をたびたび確認していることをキクガは知っていた。実際に何度かその姿を見たことがある。
彼は知っているのだ。銀髪碧眼の魔女が、本来は男性であったことも。そして自分と血の繋がりのある実の息子であり、その魂が終わりの女神エンデに憑依する形で生きながらえていることも。――その際に記憶がなくなってしまったことも、全部。
肩を竦めたオルトレイは、
「ユフィーリアが生きてさえいてくれれば、それでいい」
「そんなものかね」
「たとえ女神の身体に憑依する形で生きながらえて、家族の記憶がすっぽりと消えたとしてもだ。記憶に関して言えば、これから作っていけばいいだけだ」
からからと笑うオルトレイは「お前は知らんだろう」と言う。
「息子の生首を見た時の、あの怒りを。鳥に啄まれ、悪童に石を投げられ、通行人に唾を吐きかけられて、風雨に晒されて無惨な姿となった息子の最期を見た時の恨みつらみを。あれは生涯、いいや世界が終わっても忘れることのない恨みだ」
オルトレイ・エイクトベルの死因は、魔法の研究の際に生じた爆発事故による事故死である。身体はバラバラに吹き飛んだので、本人は笑いながら「爆死した」と明かすのが常だ。
その研究していた魔法の内容が極めて悪質なものであり、当時は深淵刑場行きの刑罰が確定していたらしいのだが、冥王ザァトがオルトレイの優秀さと子供を失った際の恨みつらみを鑑みて冥府総督府での勤務を命じたのだ。確かに、キクガもショウを処刑などされようものならば世界中を敵に回すことになるだろう。オルトレイの気持ちも理解できる。
言葉を返せずにいるキクガの肩を、オルトレイは「そんな重く受け止めるな」と笑いながら叩く。
「どんな形であれ、ユフィーリアはオレの子供だ。息子だろうが、娘になろうが関係はない。我が子が今日も明日も元気に現世で暮らしてくれていれば、親としてはこれ以上ないほど幸せなものだ」
「それは、まあ、同意する訳だが」
「ふはははは、そうだろうそうだろう!!」
高らかな笑い声をオルトレイが響かせた、その時である。
遠くの方から「おーい」という声が聞こえてきた。声の方向へ振り返ると、アッシュが駆け寄ってきた。
オルトレイだけが冥府総督府に戻ってきたのはおかしいと思っていたが、どうやら生徒を誘導する役割を買って出てくれていた様子である。その証拠に、彼の遥か後ろをヴァラール魔法学院が指定する運動着を身につけた生徒たちがえっちらおっちらと走ってくる。
「おお、アッシュか。生徒の誘導、ご苦労だな」
「あれ、ついてきてねえか? 匂いはするのに」
「お前の身体能力が阿呆すぎて遥か彼方に置き去りにされているぞ」
「殴るぞ。何が身体能力が阿呆だ」
「脳筋と言った方がいでえ!! 本気で殴ることはないだろう!?」
アッシュがオルトレイの後頭部を殴ったところで、キクガはふと思い出した。
「アッシュ、そういえばエドワード君には会ったのかね?」
「エドワード?」
アッシュは首を傾げると、
「いねえだろ。あいつはチビで痩せてるし、戦うことも嫌いだったしな。生きてるんだったらどこか都会で平穏無事に暮らしてるだろ。冥府にやってこねえよ、そう簡単に」
「ああ、お前のところの長男坊か。お前によく似て暴力的な狼ちゃんになっていなければいいな」
「あいつは優しすぎるんだよ、虫も殺せねえような奴だぞ」
オルトレイとアッシュの会話を耳にしながら、キクガは「はて?」と首を傾げた。
キクガの知るエドワードという男は、ユフィーリアに対しても容赦なく暴力を振るうし息子のショウが大変お世話になっている用務員の大先輩だ。虫は殺せないどころか、捕まえて昆虫食として美味しくいただくほど逞しい成長を見せている。
見た目の印象も、高身長で筋肉質な野生味溢れる男である。男性目線から見れば男らしさに溢れた兄貴だ。キクガもエドワードの懐の深さには感心したものである。
「いや、エドワード君はそのような子供の姿ではないだろう。冥府総督府でもいた訳だが」
「え、いたのか? 何だ、アッシュをいつもお世話していますって挨拶すればよかった」
「テメェこの野郎」
「黙れ駄犬、第2刑場の呵責道具をひん曲げたことに関してはまだ許しておらんぞ」
「くぅん……」
しょげたアッシュの背中を軽く叩いたキクガは、
「見なかったかね、かなり身長の高くて筋肉質で迷彩服を着た男性を」
「ああ、あれな。死んだら獄卒としてスカウトできねえかなってオルトとも話し合ってたんだよ」
「あれがエドワード君な訳だが。ユフィーリア君の食育が成功した一例な訳だが」
「…………」
アッシュとオルトレイは互いの顔を見合わせて黙り込んだ。そして当時の状況を思い出すように腕を組んで頭を悩ませ、それからようやっと思い出したかのような表情を見せた。
「あいつかぁ!! あのやたらワイルドなイケメンがいるな腹立つとか思っていたが、アッシュの長男坊だったかぁ!!」
「ちょっと今から冥府総督府に戻って撫でくりまわしてきていいか?」
「馬鹿タレ、仕事をサボるな。お前には第3刑場の罪人たちに特別痛い目に遭わせてもらわねばならんのだ」
「くぅん……」
問答無用で現場に送り出されたアッシュを哀れに思ったキクガは、あとで写真でも差し入れしてあげようかなと密かに考えるのだった。
☆
一方その頃、冥府総督府では。
「ばーっくしょん!!」
「うわエド、こっちにくしゃみしないでよ!!」
「きちゃないですよ、エドさん。はい手巾を貸してあげますから鼻チーンしてください」
「そこまでじゃないからいいよぉ」
でっけえくしゃみをしたエドワードに、未成年組からの非難が飛ぶのだった。噂をされているとは知らない様子である。
こうして冥府マラソンは無事に終了を迎えた。
ちなみに問題児の1着ゴールに関しては、フライングスタートになってしまったので記録取り消しとなった。残念である。
《登場人物》
【キクガ】このあと問題児男子組が写った写真をアッシュに渡すと泣いて喜ぶ姿が見られることになった。
【オルトレイ】混乱させても迷惑だからな、空気を読むのだオレは。
【アッシュ】息子がこんなに大きくなるなんて、と感動。