第5話【少女とレース】
『さあ、一斉にスタートしました!!』
拡声魔法によって大きく響く実況の声を置き去りにして、リタは風を切るように冷たい空を飛ぶ。
冬の空気が顔面めがけて叩きつけられ、高所の飛行による気温の低下に指先から急激に冷えていく。身体の芯まで凍えることにならないのは、スカイハイレース用に組まれた礼装のおかげだろう。高所を飛ぶということで寒さを軽減させてくれる魔法がかけられているのだ。
歓声や喝采は、すでに背後へ消えていった。あとはひたすら前を向いて飛ぶだけである。手が悴んで箒から落ちないように、リタは箒の柄を握りしめて背筋を前に倒す。
ぐん、と箒が加速した。これまで一緒に飛んできて、苦楽を共にしてきた相棒はやる気に満ちているようである。
「お先に失礼」
「ッ」
加速するリタを上回る速度で、エローラが抜き去っていく。冬の空に映える金髪をたなびかせ、目を守る頑丈なゴーグルの下に輝く瞳が妖しげな雰囲気を持ってリタを射抜いた。
やはり数々のスカイハイレースを制し、女王最有力候補と呼ばれるだけの実力はある。リタ以上に速く飛ぶことが出来る人間は、この世にごまんといるのだ。
スタートダッシュを決めたはずのリタだが、次々の他の選手に抜かれてしまう。頑丈なゴーグルで守られた眼球が興味深げな視線を寄越してきた。
『ヴァラール魔法学院代表のリタ・アロット選手、綺麗なスタートダッシュを決めたところまではいいですが熟練者を相手に上手く立ち回れないでいるようですね。次々と抜かされていきます』
『徐々に速度を上げていくのが昨今のスカイハイレースでよく見られる手法ですね。そうすることで選手の心を折ることが目的とされています』
解説を務める前回女王、ミィナ・アドラスの声が実況のあとに続く。
距離が徐々に開いていく。遠くなっていく選手たちの背中を眺め、リタは慌てることなく甘んじて選手団の後ろにつく。徐々に開いていく距離は適度に詰めながら、何とか先を飛ぶ選手たちの背中を追いかけた。
普通ならここで焦って無理な加速をしてしまい、箒の体力を無駄に削るだけである。箒の体力を削れば後半のレースに耐えられず、失速する恐れがあるのだ。最初だけよければいい、という考えではスカイハイレースを生き残ることは出来ない。
付かず離れずの位置を保つリタは、
(よし、作戦通り……!!)
この手法は、過去のユフィーリアのレース記録を参考にしているものだ。彼女もスタートで一気に駆け抜けたところで速度をわざと緩め、他の選手に抜かせて後ろを追いかけることに専念した。その後、中盤にかけて一気に勝負を仕掛けて最前線でゴールを決めたのだ。
徐々に加速する手法は近年では定番とされている方法で、さすがに1000年程度前のレース記録など残っていないと他の選手はタカを括ったのかもしれない。1000年以上を生きる魔女や魔法使いは限られてくるし、現役で活躍するスカイハイレースの選手たちは1000年以上も前のレース記録など参考にしないはずだ。
リタの場合、近いところに1000年以上を生きる化け物級の魔女や魔法使いがゴロゴロと転がっているのだ。話を聞けば有益な情報が手に入るし、こうして実践にも役立つ情報が得られる。
(鈍臭くて、何も取り柄がない私だけれど……!!)
今は情報に溢れている。
先人たちが手探りで築いた技術を、教えてくれる人たちがいる。
その教えを無駄にはしない。
(絶対に負けたくない……!!)
意思を固めるかのように箒の柄を握りしめ、リタはひたすら選手たちの背中を追いかけることに専念した。
☆
空を飛び続けていると、最初の円環が目に飛び込んできた。
「おっきい……」
思わずリタは呟いていた。
巨大な円環である。見上げるほど、下手をすれば人間なんて100人単位で飲み込んでも余裕があるほど巨大な円環が重力に逆らうようにして冷たい虚空に浮かんでいる。
円環の縁に沿って、極光色の輝きも確認できた。侵入方向を示す輝きである。導かれるように選手たちが次々と円環を潜り抜けていく。
――しゃりん、しゃりん。
選手が円環を潜り抜けるたび、鈴のような綺麗な音が耳朶に触れた。おそらく円環を通り抜けることで順位を記録しているのだろう。
「私も……!!」
他の選手を真似て、リタは円環を潜り抜ける。
――しゃりん。
鈴の音が鳴り響くと同時に、ぐんッと箒が何もしていないのに加速した。
「わわッ」
初めての感覚に、リタは驚いて箒の柄を掴み直す。箒は「大丈夫?」と問いかけるように僅かに柄の先端を曲げたが、リタはそれに「大丈夫だよ」と返した。
箒が何もしていないのに自然と加速するが、その恩恵はすぐに消え去る。一時的な支援効果だったようだ。
練習ではなかった円環からもたらされる支援効果に、リタは瞳を輝かせる。
「楽しい……!!」
もはやレースを真剣にやることは頭になく、ただこの円環の支援効果でぐんと加速する瞬間を楽しんでいた。
何だこれは、楽しいではないか。練習ではコーチが魔法で作ってくれた円環を通り抜けるだけだったので、本番の円環がこんな支援効果をもたらしてくれるとは思わなかった。
円環を潜り抜けた瞬間だけにもたらされる加速の具合に、リタは楽しくなってつい速度を上げてしまう。2個目の円環を潜り抜けると同じく箒が一瞬だけ加速し、その加速の支援効果に合わせて前傾姿勢になって加速具合を延長させれば、あっという間に3個目の円環が目前に迫った。
円環を潜り抜けて加速を楽しむリタに、実況の声が届く。
『おお、リタ・アロット選手が順位を上げています!! 円環よりもたらされる加速の支援を受けたことで熟練者の選手にぐんぐん追いついていきます!!』
『上手く加速の支援効果を利用していますね。加速の効果が円環に組み込まれたのは大体500年前ですが、上手く利用している選手はあまりいないですね』
実況の声を認識したリタは、慌てて周囲を確認した。
見れば選手団の後方を付かず離れずの位置を保って飛行を続けていたリタだが、いつのまにか選手団の中程まで食い込んでいた。下手をすれば上位の選手たちにも追いつく可能性も考えられた。
途端に恥ずかしさが込み上げてきて、リタは思わず速度を緩めてしまう。他の選手たちはおかしなものでも見るかのような視線を寄越してきて、ますます居た堪れなくなってきた。ここまで目立つことは想定していない。
「う、うう〜……こ、ここで目立つなんてぇ……」
恥ずかしさのあまり顔を俯かせるリタは、再び選手団の後方に引っ込むのだった。
☆
「リタ、大丈夫かな!?」
「いい感じに加速していたのに、減速してしまった……」
観覧席では、大勢の観客が選手の行く末を見守っていた。
特にヴァラール魔法学院の生徒や教職員は、代表選手として出場しているリタの様子を固唾を飲んで見守っていた。円環からもたらされる支援効果を得て上手い具合に加速するリタの様子に生徒や教職員は誰もが湧き立ったが、恥ずかしがるあまり減速してしまった瞬間に落胆の声が観覧席を巡る。
現在は選手団の後方を付かず離れずの位置を保って飛ぶリタを、ハラハラしながら見守っていた。あのままでは表彰台に上がるどころか、世間から笑われる成績を残す羽目になってしまう。
選手団を眺めながら麦酒のカップを傾けるユフィーリアは、
「あれだな、リタ嬢の才能がありすぎるな。上手い具合に加速度を調整するとは本当に飛行術の才能が高い」
今はまだ選手団後方に引っ込んでいる少女だが、本領を発揮するのは意地悪な円環の仕様が出てくる中盤から後半にかけてだろう。
教え込んだ技が現代でもどこまで通用できるか不明だが、少なくとも加速を上手く利用することが出来るあの少女からもしかするかもしれない。
ユフィーリアは口の端を持ち上げ、
「リタ嬢、見せてやれ」
――恋する乙女は強い、というところを。
《登場人物》
【リタ】練習では味わわなかった円環の加速の加護が楽しくて仕方がない。でも調子に乗って加速しすぎた。
【ユフィーリア】活躍したのが円環に加速の加護が付与される以前なので、いいなぁと密かに思っている。
【問題児の皆さん】リタ、速かったのにどうして加速を緩めちゃったのだろうか。