第6話【問題用務員と悪夢の繭討伐】
全身を産湯に浸ったような温かさが包み込む。
悪夢の繭を通じて見る世界は、酷く滑稽なものだった。
誰も彼もが唖然と自分を見上げており、周辺の草木は急速に色を失わせていく。大地から吸い上げた魔力によって悪夢の繭は凄まじい勢いで成長していき、視界は見る間に高い位置から地上を見下ろす形になる。
悪夢の繭に取り込まれた朝霧は、これほど愉快なことはないとばかりに身体を折り曲げて笑った。
「ふは、はははは!! これで兄上を殺す、殺すんだ!!」
朝霧の中にあるのは、兄に対する憎悪だけだ。
昔から優れた兄がいた。持っている神の力も強大で、人々の信仰は全部兄に向けられて。そんな彼に頭を踏みつけられるような生活を強いられ、朝霧は何度も辛酸を舐める経験をした。
ようやく得られた信者も、すぐ兄の元へと流れてしまう。年を追うごとに朝霧自身の神の力は弱くなっていき、ついには兄の足元にも及ばないほど弱くなった。
兄に追いつくには、もう生贄として捧げられた人間から得られる生命力を取り込み他はなかったのだ。
「世界なぞ滅べ、滅んでしまえ。こんな世界なんて消えてしまええええええええええ!!!!」
怒りと憎しみ、そしてついに兄を超えるほどの力を手に入れた歓喜に声を震わせて、朝霧は悪夢の繭に願った。
その願いを聞き届けたか、悪夢の繭から突き出た触手が周辺の建物や自然を薙ぎ払う。ゴミの如く吹き飛ばされる木々や瓦礫の山に、朝霧は胸の空くような思いを感じていた。
かろうじて確認できる人間は、兄が展開する結界に守られていた。兄が展開する結界の外側にいるのは、銀髪碧眼の魔女を筆頭とした何人かぐらいである。そんな彼らもただただ唖然と悪夢の繭と同化した朝霧を地上から見上げて間抜けな顔をしていた。
すると、背中に何かが触れた。まるで動物が背中を鼻の頭で突いてきたかのような、軽い衝撃であった。
「……貴殿が『厄災の獣』か」
産湯の中を揺蕩うそれに、朝霧は愛おしい我が子でも見るかのような慈愛の眼差しを向ける。
見た目は『獣』だ。ヤギのような見た目をしているが、頭部から突き出た歪曲した角は羊を思わせる。かと思えば獅子のように鬣を持ち、猫のように細い尻尾と狼を想起させる鋭い牙が口から突き出ている。トドメに背中からは折り畳まれた鷲の翼が生えており、様々な動物がぐちゃぐちゃに入り混じった状態の何かがそこにいた。
これこそが『厄災の獣』と呼ばれる、悪夢の繭に守られる最悪の魔法動物である。その咆哮で世界は崩壊し、視線1つで人類を死に至らしめる。これほどの凶悪な獣と一体化できるなど、朝霧にとっては喜ばしいことこの上ない。
朝霧は緩やかに両腕を広げると、
「さあ、獣よ。我が身を」
ぐらり、と。
獣の首が、大きく傾く。
胴体から離れていた。
「――――は」
朝霧の思考が停止した。
悪夢の繭が破られることはない。だからその内側で守られているはずの『厄災の獣』が最初から死んでいるはずはないのに。
どうしてか、目の前の獣の成れの果ては首を切られた状態で温かな産湯に浸かっていた。綺麗な断面からたらたらと漏れる黒い靄は、おそらく鮮血だろう。温かい水の中にゆっくりと混ざる獣の血が、朝霧に現実を突きつけてくる。
最初から死んでいた訳ではない。
誰かが、今、殺したのだ。
「誰が――――!?」
ぐるりと周囲を見渡したその時、
「よお」
朝霧の胸の中心を、銀色の刃が貫いた。
そっと朝霧は、視線を自分の胸元にやる。
平坦な胸元から突き出た銀色の、尖った刃。噴き出す自らの血液が獣のそれと混ざり合う。血を纏う刃は、どこからどう見ても鋏のもので。
震える瞳が、後方をようやっと認識した。
「貴様……は……!!」
視界の端で捉えた、銀髪。
大胆不敵に笑う、人形のような美貌。
かつて悪夢の繭を屠った魔女――ユフィーリア・エイクトベルが、朝霧の背中から鋏の刃を突き立てていた。
「いつから……!?」
「最初からだよ。お前が悪夢の繭に飲み込まれた時、アタシも一緒に飛び込んだんだ」
ユフィーリアの言葉に、朝霧の脳味噌は「おかしい」と言葉を弾き出す。
悪夢の繭に飲み込まれた時、彼女の姿はまだ地上にあった。動く気配さえなかった。ただ呆然と、悪夢の繭に飲み込まれていく朝霧を見据えているしかなかったのに。
今もなお、銀髪碧眼の魔女の姿は悪夢の繭を通じて確認できる。成長していく悪夢の繭を地上から見上げる彼女は、その人形のような美貌に朗らかな微笑を浮かべていた。
地上にいるユフィーリア・エイクトベルは誰だ?
背後にいるユフィーリア・エイクトベルは誰だ!?
本物は一体、どこにいる!?!!
「いつから」
ユフィーリアが背後から、朝霧の耳元に唇を寄せた。
「いつから――地上にいるのが、本物のアタシだと錯覚してたんだ?」
☆
朝霧を背後から狙うのは簡単だった。あまりにも無防備すぎたからだ。
ユフィーリアは、朝霧が悪夢の繭に飲み込まれていく際に隠れて一緒に飛び込んだ。肉塊にずぶずぶと飲み込まれていく感覚は今後一生慣れることはないと思うし、もう二度と体験したくない感覚である。その向こうに待ち受けていたのは温かな水で、さながら羊水の中を漂う赤ん坊の気分になったものだ。
そして早々に悪夢の繭の中で守られている『厄災の獣』の首を切断し、何やらぎゃーぎゃーと騒がしい朝霧の背後に近づいた。最後の最後までこちらの存在に気づかないとは愚かである。
それもそのはず、地上では現在、ユフィーリアの偽物がいるのだ。アイゼルネの変身魔法を見抜けるのであれば、相当優秀な神様である。
「――――ォォォォオ!!」
ユフィーリアは『厄災の獣』の遺骸を蹴飛ばし、銀製の鋏に朝霧を突き刺した状態で悪夢の繭の肉壁に鋏の先端を突き立てる。
ぶつり、と簡単に肉壁は裂けた。そのまま全体重をかけて肉の壁を引き裂いてやると、中身の産湯が呆気なく外に放出された。
滝のように流れ落ちる悪夢の繭の中身と共に、ユフィーリアと朝霧は落ちる。朝霧の背中を蹴飛ばして鋏の刃を抜くと、落ちゆく愚かな神の背中越しに叫んだ。
「エド!!」
「はいよぉ」
地上では、エドワードが待ち構えていた。
重力に従って落ちてくる朝霧から視線を外さず、彼は拳を握りしめる。全身を悪夢の繭の中身に濡らしてもなお、彼の狙いは正確だった。
落下してきた朝霧の無防備な腹部めがけて拳を振り抜き、
「オラァ!!」
ぶん殴る。
花火の如く勢いよく朝霧の身体は打ち上げられた。何やら呻き声も聞こえた気がしたが、それさえ置き去りにされ、高々と空を舞う。
ユフィーリアが地上に降り立った時、次に認識したのは歪んだ三日月型の魔弓である。すでにごうごうと燃え盛る炎の矢が番られており、すぐ側には最愛の嫁が寄り添うように控えていた。
エドワードにぶん殴られて打ち上げられた朝霧に、ショウが人差し指を突きつけて狙いを定める。
「シュート!!」
冥砲ルナ・フェルノから放たれた炎の矢が、朝霧を再び地上に押し戻す。全身を真っ黒に焦がした朝霧は、簡単に撃ち落とされた。
そして最後に待ち受けていたのは、ハルアである。タキシードの上着を脱ぎ捨て、シャツの腕を捲った彼はバチバチと紫電を弾けさせる白い槍を握りしめていた。何だか若干、髪の毛が逆立っているのは静電気が影響しているのだろう。
青白く輝く槍の正体は、神々の怒りを束ねた神造兵器『ヴァジュラ』である。史上最強の神造兵器に、さしもの極東の豊穣神も耐えられやしない。
ヴァジュラを両手で構えたハルアは、落ちてくる朝霧を狙って槍を振り抜いた。
「お前もピニャータになれーッ!!」
振り抜かれたヴァジュラは朝霧の腹部を的確に捉え、遥か遠くに吹き飛ばした。見事なホームランであった。
遠くまで飛ばされた朝霧の姿は一瞬で見えなくなり、紺碧の空に瞬く星々がキランと一際輝く。最後の最後でお星様になったようだ。朝霧の今まで見たことのないような笑顔が幻覚として星空に浮かぶ。
こうして、年越しパーティーを邪魔した馬鹿野郎の処理は終わった訳だが、
「ユーリ、これどうするのぉ?」
「凍らせとけばいいだろ。もう死んでるし」
地面に落下した『厄災の獣』の遺骸はユフィーリアの魔法によって不格好な氷像と化し、最悪の魔法動物と謳われる存在はあっという間に問題児の手で片付けられるのだった。
《登場人物》
【ユフィーリア】悪夢の繭の中に一緒に飛び込み、危ない動物は殺処分をしてから朝霧を刺した。
【エドワード】落ちてきた朝霧を殴って打ち上げた。
【ハルア】朝霧を空の彼方にホームラン!!
【アイゼルネ】ユフィーリアに変身して相手の視認を誤認させた。
【ショウ】打ち上げられた朝霧を撃ち落としてやるのさ!