第7話【学院長と異世界ソング】
「――――――――♪!!」
その声は、さながら悲鳴のようだった。
舞台上に立つ彼の口から飛び出したものではないような、まるで魔法兵器が背後で歌っているのではないかと思わせる平坦な歌声。だが、息継ぎや歌詞を紡ぐ際の唇の動き、それでいて彼自身の灰色の瞳に宿る激情は歌声を発する魔法兵器を組み上げたとは思えないほど迫真さである。
その歌声を増幅させるように、問題児の演奏が続く。激しい、それこそ嵐を想起させるような演奏に大講堂内は取り残されるばかりだ。息をするのも忘れ、ただただ激流の如き問題児の演奏に飲み込まれる。
審査員席に座るヴァラール魔法学院の学院長、グローリア・イーストエンドは唖然としていた。鼓膜を震わせる歌声、そして激しく鋭い楽器の音に立ち尽くすしかなかった。
(何、これ。まずい)
手が震える。
膝が震える。
立っているのもやっとの状態だったグローリアは、問題児を舞台上から引き摺り下ろすということさえ出来なかった。まともに身体が動かせないのだから。
「――――――――♪!!」
舞台上で歌声を披露するのは、歌唱魔法を専攻すると言っていたネロ・フォートナなる少年である。グローリアも記憶にある。
フォートナ家といえば歌唱魔法で高い技術を持つ名門魔法使い一族である。親族は誰も彼も有名な合唱団に所属、あるいは合唱団の運営を任されており、高い歌唱魔法の技術は式典などで披露する機会を与えられるほどだ。先日は彼の姉が、世界的にも歌の上手い歌姫と認定されたのも記憶に新しい。
その弟である彼の実力は「大したことはない」なんて歌唱魔法を教える教職員は言っていたが、大したことがないなんて嘘だ。
(こんな怨嗟に、怒りに満ちた歌声……聴けばまともな精神状態ではいられない……!!)
先に生徒の安全の確保を?
いいや、それよりも問題児どもを舞台から引き摺り下ろすのが先?
悲鳴のような、絶叫のような歌声は確実にグローリアの精神を蝕んでいく。思考回路をぐちゃぐちゃに引っ掻き回して、何もかも根こそぎ奪っていく。
「スカイ、まずい……まずは、生徒を……!!」
「ダメッス、グローリア」
副学院長として一緒にルミナスデイズの審査員を務めるスカイは、引き攣った表情で言う。黒い布で覆われた目元は、舞台から逸らすことはない。
「この歌はまずい。何かしようとすれば敵意が増幅されて、最悪の場合は誰かを殺す羽目になるッス」
「ッ!!」
グローリアは息を呑んだ。
歌唱魔法は精神的に強い影響を及ぼす魔法だ。歌によって他人を応援して勇気づけたり、逆に悲しみを癒したりなどの効果をもたらす。当然ながら敵意を煽れば他人を攻撃したりすることだってあり得る。
激しい歌詞の中に紛れた自責の念、そして怒りの感情。叫ぶ彼自身に煽られるように自我が引き裂かれそうになる。
「彼らは一体、どこでこんな楽器の技術を……!!」
「元々、ショウ君がリュートを得意としていたんスよ。それでそのー、ねだられるままに……」
「君が原因か!?」
グローリアは目を剥いた。まさかこんなところに原因がいるとは。
問題児の中でも問題児筆頭であるユフィーリアと、彼女に長く付き従ううちに魔法が使えないながらも豊富な魔法の知識と経験を積んだエドワードがリュートを弾けるのは知っていた。ただ他の人員に関して、楽器の腕前はまだ把握していなかった。
特に未知数の実力を有しているのが異世界出身のショウである。舞台上に堂々と立ち、慣れた指捌きで弦を爪弾いては落雷の如き鋭い音を奏でて歌い手の感情を増幅させている。その技術は歌唱魔法を専攻する生徒でもなかなか出来ない芸当だ。
おそらくだが、彼がネロ・フォートナに何かを仕込んだのだ。薬物などの反則的なものではなく、もっと技術的な側面の異世界知識を。
「――――♪」
震え、耐えているうちに少年の歌声は途切れる。終わる。
彼の歌声を聴いていた生徒たちも安堵の表情を浮かべていた。増幅された怒りに触発されて他者を傷つける恐れがあり、その不安定な精神状態と戦っていた訳である。疲労感は計り知れないものとなっていた。
ここで適当に拍手を送り、さっさと彼らを舞台上から退場させるのが最適解かもしれない。これ以上の責め苦は――異世界の歌は、精神崩壊を引き起こす恐れがある。
ところが、だ。
「え――」
グローリアの口から声が漏れていた。
舞台では、規模の小さなピアノらしきものを弾いていたアイゼルネだけが舞台裏に引っ込んでいた。代わりにピアノの前に立ったのは、それまでリュートの形をした不思議な楽器を弾いていたユフィーリアである。まさかのここで人員が入れ替えだ。
これはまさか、まだあの地獄のような続きが待っているのか。歌詞の端々に至るまで怒りに満ちた、少しでも触れれば破裂してしまいそうな異世界の歌が再び始まろうとしているのだろうか。
これ以上の所業は生徒にも危険が及ぶ。グローリアはようやく回復の兆しを見せた思考回路でそう結論づけるが、
――――――――♪♪
演奏が始まってしまう。
それまで奏でられていた曲とは雰囲気が打って変わり、どこか寂寥感のある不思議な曲調だった。明るいような、そしてどこか寂しげな前奏。
ユフィーリアの指先がピアノの鍵盤を叩く。ショウのリュートが力強い音を添えて、エドワードのリュートが地響きのような音を奏でて演奏を支える。土台にいるハルアの太鼓の音が全体を引き締めている印象だった。
そして、ネロの唇が開く。呼吸音。
「――――♪」
ネロの歌声。
先程とはやはり、曲調に合わせて歌い方も変えてきている。伸びやかで、性別を感じさせない高く透き通った歌声はすぐに聞き手を引き込む。
呼びかけるような歌詞も、その情景が脳裏をよぎるほど鮮烈である。今の季節感には合っていないが、異世界の歌らしい不思議な雰囲気が溢れている。
だが、何故だろうか。歌詞の端々に滲み出る不穏な影は。
「待って、こんな……おかしい……」
グローリアは呟いていた。
不穏な影の滲み出る歌詞の内容に、そこはかとなく嫌な予感を覚える。ぞくぞくと背中に嫌なものが這い回る。
これは果たして聴いていていい曲なのだろうか。周りの生徒たちの反応は完全に歌詞の世界観に引き込まれて息を呑み、舞台上で歌声を披露するネロに視線が釘付けとなっている。この嫌な予感に――嫌な感覚に果たして彼らは気づいているのか。
グローリアは堪らず耳を塞ぐ。これ以上は心の安寧が崩壊する危険性があると感じ取ったのだ。
「学院長先生、大丈夫ですか? 顔色が悪いようですけど……」
「え、ぁ……君は……」
不意に声をかけられ、グローリアは舞台上から無理やり視線を剥がして振り返る。
そこに立っていたのは、心配そうな表情を見せる赤いおさげ髪が特徴の女子生徒だ。確か名前はリタ・アロット――問題児と仲のいい少女だ。
精神的に容赦なく苦しめる歌の最中、彼女は特に顔色も悪くせずにいる。普段から度胸があると感じていたが、もしかしてこの異世界の歌にも耐えられるほどの強靭な精神力を宿しているとは驚きだ。
と思っていたのだが、
「もしかして学院長先生、耳栓はご用意されていないですか?」
「え?」
「プログラムにもありますよ、耳栓を用意してくださいって」
リタが「お持ちじゃないなら、予備をあげますね」なんて言って、グローリアの手のひらに量産型の耳栓を転がす。
そんな話は聞いていないが、リタから借りたルミナスデイズの為に用意されたプログラムを確認すると見覚えのない『注意書き』と銘打たれた欄があった。小さく存在するその欄には確かに耳栓必須であることが記載されている。
発刊日を見れば、何とルミナスデイズ開催前日に作成されているものだった。こうなることが予想されたから、あえて関係のない生徒を巻き込まない為の救済措置なのだろう。これで被害を受ける生徒は、ルミナスデイズの当日に練習をしていた歌唱魔法専攻の生徒だけだ。
「絶対に問題児の仕業でしょお……!!」
「そッスねぇ」
「耳栓したからってのほほんとしてるんじゃないよ、こっちは大勢の生徒が精神科のお世話になるかもしれないって時の瀬戸際だよ」
耳栓という強い味方を得たことで余裕を取り戻したらしいスカイを叱責し、グローリアが耳栓を装備した直後のことだった。
――ばづんッッ!!
そんな音がして、それまで煌々と舞台上を照らしていた照明が落ちる。
大講堂内が薄闇に包まれた。周囲の人間をかろうじて認識できる程度の暗さが次回を覆い隠す。
生徒たちが次々と「何!?」「照明が落ちた!?」と悲鳴を上げる中で、舞台上では男子生徒の歌声だけが落ちた。吐息混じりの、たった3文字の短い歌詞。
次の瞬間。
「――――――――♪!!」
歌声と共に現れたのは、舞台上に投影されるように出現した、目を焼かんばかりに色鮮やかな茜色の空。
そして、
舞台の天井から垂れ落ちた縄に、ぶらん、と宙吊りにされた、今もなお歌っているはずの男子生徒の首吊り死体。
《登場人物》
【グローリア】異世界の歌を聴くと精神状態の乱高下という憂き目に遭うという話を聞いていたが、これほどまでとは想定外。
【スカイ】実際に精神の乱高下という憂き目に遭った。異世界の歌の凄まじさは身を持って知っている。
【リタ】ハルアとショウの友人である1学年。舞台に立つという話を聞いたので、見に行きたいと言ったら耳栓必須であることを教えられたので耳栓を用意した。