第8話【学院長と深夜ダンスパーティー】
もうすっかり真冬の空気がヴァラール魔法学院内まで侵食していた。
「うう、寒い……」
冬用の厚手の長衣を引っ張り、グローリアはぶるりと身を震わせる。
深夜ともなれば学校の校舎に仕掛けられた環境維持魔法陣は学生寮や教職員寮を中心に温度調整の機能が切り替わるので、学院長室でいつまでも仕事をしていると明かりも消えるし空調も途切れてしまう訳である。まあグローリアは学院長室の隣に魔法で部屋を作り出し、そこを私室としているので環境維持魔法陣の恩恵は受けられるのだが、校舎内を彷徨い歩いているには理由があった。
それは働いている人間であれば誰であっても経験のあることだとは思う。グローリアも何度か深夜に働き、同じような体験をした。こればかりは人間だからどうしようもない訳である。
つまり、
「この時間にお腹が減るとはねぇ……不健康だとは分かってるんだけどもねぇ……」
空腹である。
グローリアはお腹が空いたので、こうして学院長室から出てきた訳なのだ。窓から差し込む月明かりだけが頼りの静かな校舎内を、光源魔法で周囲に幻想的な光の粒を生み出した状態で進んでいく。おかげで夜の闇を簡単に振り払い、グローリアの周辺だけが昼間のように明るい。
深夜にお腹が減るのは何度か経験している。いつもは耐えられるのだが、今日は特殊な事情もあったので空腹感が酷かったのだ。仕事にならないので、不健康だということは理解しているが夜食調達に出掛けているという訳である。
そんな訳で深夜も営業中の購買部か、もしくはマリンスノウ・ラウンジにしようかと悩みながらグローリアは歩く。廊下を進む。
「――――♪ ……――――♪」
お供は昼間に、最年少の問題児から教えてもらった異世界の歌だ。「歌いやすいだろうから」という理由で、歌の中で最も盛り上がる『サビ』と呼ばれる部分だけを教えてもらった。
音程を意識して口ずさむと、自分の口から出てきたものとは思えないほど綺麗な歌声がするりと紡がれる。それまでは蝙蝠が発する超音波かと呼ばれるほどの下手くそな歌声しか出てこなかったのに、音程を意識すると不思議と超音波が収まるのだ。
それを気づかせてくれたのは、問題児のあの少年である。ただボコスカと思った以上に叩かれたりしたのだが。
「僕ってこんな上手く歌えるんだな。ユフィーリアやエドワード君みたいになれるかな」
グローリアの足取りは弾む。
問題児の優秀さはよく分かる。中でも料理の腕前と歌の腕前など、芸術的な才能な突出している印象はある。
その中で問題児筆頭のユフィーリアと、彼女と付き合いが1番長いエドワードが舞台に立って歌声を披露したのは素直に「凄い」と感じた。有名な合唱団で修行を積んだこともあるからか、彼女たちの歌声の技術は単純に高い。鼻歌だけでも聴いた人物を魅了するぐらいである。
それと反対に、グローリアの歌は下手だった。とんでもなく下手だった。まるで悪魔が首を絞められたような汚い歌声しかまるで悪魔が首を絞められたような汚い歌声しか出てこなくて、歌うのがちょっと嫌だった時期もあったが、ショウのおかげでだいぶ矯正はされた気がする。
「ふん、ふんふん♪」
楽しくて鼻歌までも出てしまうが、それは音程を意識していなかったのでまたいつもの超音波になる。窓の向こうから「くけえー!!」という怪鳥の鳴き声が聞こえてきた。それにも気づかず、グローリアの鼻歌は続く。
――――♪ ――――♪♪
――――――♪♪
薄暗い廊下の奥から愉快な音が聞こえてくる。
弾むような、跳ねるような、まさに『楽しさ』というものを体現したかの如き音楽であった。グローリアは俗な場所に行ったことがないのでよく分からないが、若者が好んで集まるダンスホールか何かのようなところで流れるような音楽というような印象だ。
足を止めたグローリアは、夜の闇の向こうから聞こえてくる明るい音楽に耳を傾ける。
「何だろう、これ」
首を傾げるグローリア。
この世界の音楽で踊れるような曲と言えば、舞踏会で流れる荘厳な管弦楽ぐらいしか知らない良家のお坊ちゃんなグローリアのことである。耳朶に触れる曲に知識がなく、それがどういう意図で流されているのか不明だ。
ただ、聴いているだけで自然と身体が動き出してしまいそうになるほどノリのいい曲ではある。こんな魅力を携えた曲は異世界にしかないだろう。
となると、考えられるのは。
「ユフィーリアがこんなど深夜に? 嘘でしょ?」
グローリアは単純に驚いた。
考えつくのは名門魔法学校であるヴァラール魔法学院を創立当初から騒がせる問題児が何かを問題行動をやらかしたことだろうが、明らかに時間帯がおかしい。何せ今は深夜である。夜の12時を華麗に過ぎ去っていた。
問題児どもは普段の問題行動が嘘なのではないかと思うぐらいに超健康優良児である。たまに酒に溺れてとんでもねーことをやらかしもするが、普段は深夜まで起きておらず健康的な時間帯に寝て健康的な時間帯に起きているのだ。何だったらエドワードなんかは日の出前に起きて校舎の外周をランニングしているぐらいである。
それがどうしてこんな時間帯に活動をしているのか。
「嫌な予感しかしない……」
グローリアは顔を顰める。
とはいえ、正面玄関に行かねば始まらない。購買部に行くにしても、マリンスノウ・ラウンジへ行くにしても、まずは正面玄関を通らなければならないのだ。
そしてこの先に待ち受けている、地獄を受け入れなければならないのだ。考えただけで憂鬱である。
深いため息をついたグローリアは、
「行くしかないかあ……」
重たく感じる足を引き摺り、グローリアは正面玄関を目指して歩を進めるのだった。
☆
正面玄関が光り輝いていた。
「…………」
グローリアは絶句していた。
3階分をまとめてぶち抜いた吹き抜け構造になった正面玄関は、高い天井で何やらキラキラと光を発する球体が浮かんでいた。球体から色とりどりの光が放たれて薄暗いはずの正面玄関を照らしており、見た目も非常に愉快なことになっていた。
空気を震わせる、跳ねるような音はクリスタルピアノから発されている。演奏者は椅子におらず、腕の形をした炎が何本も群がって透明な鍵盤を叩いていた。炎腕である。あの最年少問題児と共にある、歪んだ月の魔弓についてきた権能だ。
そして、予想していた通りの連中が正面玄関で踊り狂っていた。
「――――♪♪」
少年の歌声が響く。
それに合わせて、4人の問題児どもがそれぞれ軽快なステップを踏む。長い髪を振り回し、手を伸ばし、弾んだ声で笑い、そして誰もいない正面玄関を駆け回る。ここだけがダンスフロアと化したかのような賑やかさだ。
異世界からやってきた少年が歌うたび、彼を後輩として可愛がる暴走機関車野郎と呼ばれている問題児の少年が合いの手を入れる。「いえーい!!」とか「ふうーッ!!」と叫べば、彼の声が静かな校舎内を切り裂くかのようにどこまでも響き渡った。
いやもう、こんな騒音騒ぎを見せるなんて事実に、グローリアは目眩を覚える。こいつら正気か。
「はあー……」
グローリアはため息をついた。本当に深いため息だった。
異世界の歌を教えてもらい、音痴も多少は矯正してくれたことには感謝している。それでも深夜のダンスパーティーなんて時間帯を考えない問題行動は勘弁してほしかった。
3階部分から見下ろすグローリアの存在に気づくことなく、問題児たちは踊り狂う。その姿を眺めて、グローリアは大きく息を吸った。
「ずべにゃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!♪」
口から放たれる超音波。かつては空を飛ぶ鴉でさえ仕留めたことがある、悪魔の声。
そんな魔声を聴いていながら、無事でいられる訳がない。
案の定、問題児は揃って膝から崩れ落ちた。少年の美声を掻き消し、そしてクリスタルピアノの荘厳な音さえも台無しにする悪魔の声にさしもの耐えられなかったようである。
「やあ、ユフィーリア。こんばんは」
「あう……おぅえ……?」
目を白黒させて耳を塞ぐ銀髪碧眼の問題児、ユフィーリアにグローリアは満面の笑みを見せる。
「とりあえずお説教するから正座してくれる?」
「何でお前……」
「また歌おうか?」
「正座します」
モソモソと問題児が並んで仲良く正座をしたところで、グローリアはいつものように彼らを怒鳴りつけるのだった。
《登場人物》
【グローリア】歌に自信がないど音痴。その歌声は意識しないと鴉さえ撃ち落とす。
【ユフィーリア】歌には自信あり。有名な合唱団で修行をしていたこともあり、講演の主役も演じたことがある。
【エドワード】歌には自信あり。ユフィーリアと一緒に有名な合唱団で修行をしていた。
【ハルア】ショウに言わせると「男性アイドルばりの歌唱力」らしい。本人は踊る方が好き。
【アイゼルネ】男声から女声、声真似までお手のもの。
【ショウ】実は男声も女声も出せる万能シンガー。豊富な異世界の歌の知識で精神を乱高下させるぜ。