第4話【問題用務員と異世界の歌】
跳ねるように、ショウの指先が鍵盤を叩く。
透明なピアノから奏でられる荘厳な音がなぞる曲は、陽気で軽快なまるで踊りたくなるほどの明るいものである。楽しい曲であることは最初の歌詞を聞いた時に予想できた。
だが問題はそのあとである。曲調は転じることなく、しかし歌詞の内容が変貌を遂げる。兎が跳ねるように陽気で愉快な曲調ではあるものの、ショウの歌声が紡ぐ歌詞が徐々に仄暗い空気を帯びていくではないか。
ゆっくりと、それこそ真綿で首を絞められるような歌詞の内容に、ユフィーリアはとうとう堪え切れずに涙を流す他はなかった。明るい曲なのに心が苦しくなってくる。
「――――わあ、地獄絵図」
演奏が終わり、ショウがユフィーリアたちへと振り返ってそんな感想を口にした。
ようやく心が苦しくなってくる歌声から解放されたことで、安堵からハラハラとユフィーリアは涙を流す。エドワードは心の苦しさに耐えられずその場で膝をつき、アイゼルネは手巾を握りしめていた。手巾はしとどに濡れており、どれほど涙を流したのか想像に難くない。
先程までのショウによるゲリラコンサートの傷が癒えたと思えば、問題児が阿呆なことにおかわりなんて要求したからとばっちりを受けてスカイは再び床に突っ伏していた。えぐえぐと涙を流して震える彼の丸まった背中を、リリアンティアがポロポロと涙を流しながらも慰めている。自分が慰められるべきなのに健気なものだ。
ユフィーリアは頬を伝う涙を指先で拭うと、
「何でこんな明るい曲なのに苦しくなるような内容なんだよ。精神がぐちゃぐちゃになる」
「ユフィーリア、これでもマシな方だぞ」
ショウは朗らかな笑みを浮かべて、
「元の世界でも有名な話だ。『どれほど凄惨な拷問を受けてきた囚人でも、たった1分の歌で涙を流したことがある』と言われるほど、歌というものは偉大なんだ」
「くそう、異世界の歌を侮ってた」
ユフィーリアは鼻の奥で感じ取った鼻水の気配を、啜ってどうにか誤魔化す。
侮っていた、本当に侮っていた。明るい曲調で最初は本当に恋する乙女を体現した歌詞が楽しかったのだが、そのあとにゆっくりと変わっていく空気に風邪を引きそうになった。じわじわと苦しめられていく感情は弱い毒に侵されていくような感覚がある。
歌の長さはたった3分間前後のものなのに、ここまで精神の乱高下が起きるとは想定外である。乱高下というより急降下である。あともう1分でも歌が長ければ精神崩壊をしていたかもしれない。
スカイを慰めていたリリアンティアは背後を振り返ると、
「……ハルア様は精神がお強いのですね。涙をお流しになっていないです」
「何でだろうね!!」
全体的に涙を流して精神状態がズタボロなのにも関わらず、ハルアだけはピンピンしていた。なおも興奮気味にショウへおかわりを期待する視線を投げている。
精神的にも強さを誇るはずの七魔法王を3人も沈め、それどころか魔法を使えない獣人のエドワードでさえもボロ泣きさせることに成功させた歌をまともに食らっておきながらハルアと腕に抱いたぷいぷいは「凄い凄い!!」「ぷー!!」と大絶賛である。正気か、こいつら。
ショウは首を傾げ、
「ハルさん、本当に無理をしていないか?」
「してないよ!! むしろもっと聴きたいね!!」
「むう」
先輩の言葉に唇を尖らせたショウは、
「こうなったら意地でもハルさんを泣かせたいな。もっと泣けるようなものを演奏するべきだろうか」
「悪い、こっちに配慮してもらっていいか?」
「身体中の水分が持ってかれるってぇ」
「おねーさん、予備の手巾を出してこなきゃいけないわヨ♪」
「おげえ、ふごこお」
「副学院長様が満身創痍なので、せめてご配慮を……何卒、ご慈悲を……」
ハルアを除いたその場の全員が待ったをかけた。
明るい曲調でもその内容がとんでもねーブツだった異世界の歌によって、名のある魔法使いや魔女がここまで苦しめられることになったのだ。クソど音痴よりも決定的に苦しめられた訳である。しかもこれ以上が控えているとなったら、本当に精神が崩壊する。
しかし、内容は気になるもので。
「時にショウ坊」
「何だ、ユフィーリア。貴女の泣いている姿は可愛いな」
「変な性癖を拗らせたか?」
ようやく涙が止まる様子を見せたユフィーリアは、潤んだ目をとりあえず擦りながらショウに問いかける。
「その、これ以上って例えばどんな奴?」
「…………」
ショウは少しばかり考える素振りを見せると、
「病気で死んだ恋人のことを思い続ける歌とか、あとは単純に別れた恋人のことを引き摺りまくる歌とかだろうか。先程の曲は俗に失恋の歌とか言われているが、相手から振られるのではなく自分から振るからまだマシなんだ」
「それ歌われたら本当に精神崩壊する。身体中の水分が抜けていくから止めてくれ」
ユフィーリアは拒否の姿勢を突きつけた。そんな歌を聴かされれば身体中の水分が奪われ、精神崩壊待ったなしである。
聴いてみたい気持ちはある。異世界の歌だ、興味は尽きない。でも『自分から恋心を諦める』といった内容の歌でここまで精神崩壊寸前まで引き起こされるのだから、聴き始めて1分でとんでもないことが起きるに決まっていた。
ショウは「仕方がないなぁ」と言い、
「じゃあ、みんなを泣かせてしまうのは申し訳ないから明るい曲にしよう」
「明るい曲って言っておきながらまたとんでもねーのぶち込んでくるとかないよな?」
「そんな酷いことはしないぞ、ユフィーリア。俺だってちゃんと人の心は搭載している」
怪しむユフィーリアに微笑みかけ、ショウはまたクリスタルピアノと向き合う。透明な鍵盤に指を置き、確かめるように何度かポロンポロンと音を奏でてから、何の前触れもなく鍵盤を叩き始めた。
正面玄関に響く、幾重にもなる荘厳な音。暗い印象を受けるような曲調ではないが、想像していた『明るい曲』という訳でもない。どこか疾走感を想起させる曲調であった。
ショウの歌声がさらに重なる。彼の涼やかなテノールとは違い、今度の歌声は女性らしく高らかだ。少しばかり特徴的な声音は意識して出しているというのが分かる。
先程の精神がぐちゃぐちゃになりかねない異世界恋愛ソングとは違い、疾走感あふれるその歌は士気が高まりそうな曲であった。
「何か……」
「こう……」
「あラ♪」
「あれッスねぇ……」
「わあ……」
「ヴァジュラ出していい!?」
「おい誰かそこの馬鹿を止めろ」
曲に感化されたのか、ハルアが神々の怒りを束ねた最強の神造兵器を取り出そうという馬鹿な行動に走ったので、エドワードが頭を掴んで強制的に止めさせていた。
何というか、士気が高まるというより暗に「戦え」と言われている気がしないでもないのだ。疾走感のあるその曲はさながら研ぎ澄まされた刃を突きつけられている緊迫感が与えられる。応戦しなければこっちがやられてしまうという気分にさせられるのだ。
3分少しで曲は終わりを迎えた。余韻を残すような終わりではなく、刃で首を切られたかのようにスパッと終演を迎えた。
「…………えと、何でみんなそんな警戒態勢なんだ? ハルさんは押さえられているし」
曲を弾き終えて、ショウは不思議そうにこちらを見て首を傾げる。
「お気に召さなかっただろうか。明るい曲を弾いたつもりだったのだが」
「いや、そんなことはねえんだよ。確かにいい曲だったよ、うん」
ユフィーリアは雪の結晶が刻まれた煙管を銀製の鋏に切り替えたい衝動を理性で捩じ伏せ、
「ただな、あの曲は『殺すぞ』って言われているような気がしてな」
「そんな殺意マシマシの歌だったか!? じゃあ殺意をもっと表に出した歌だったらどうなってしまうんだ!?」
「殺意を表に出した歌とかあるのかよ!? 異世界ってどんな修羅場だったんだ!?」
あの歌で殺意が込められていないとは驚きである。それどころか、あれ以上に殺意マシマシな歌も存在することにも驚愕が隠せなかった。
軍歌にも匹敵するような曲と言ってもいいだろう。あの曲が戦時中にでも流れれば、戦いに赴く兵士たちの士気が高まるどころか血気盛んになって敵を屠ることになりそうである。
ショウはポツリと、
「……じゃあ、お歌の上手いユフィーリアやエドさんに異世界のお歌を教えたらどうなるんだろうか。世界征服でも出来るか?」
「歌唱魔法の常識を覆すような真似は止めようか、ショウ坊」
「この話をするとグローリアが興味を持っちゃうからしない方がいいッスね」
あの魔法研究に余念がない学院長に見つかると興味を持つことは間違いないので、ユフィーリアとスカイはこれ以上の好奇心は出さないようにショウを説得するのだった。
《登場人物》
【ユフィーリア】異世界の歌で精神状態がまずい。
【エドワード】涙が止まらない。何これ。
【ハルア】みんながおかしくなっている中、異世界の歌で興奮状態。
【アイゼルネ】手巾の予備がないのでこれ以上泣いたらまずい。南瓜のハリボテの下は化粧がぐちゃぐちゃ。
【ショウ】幅広い種類の歌を知っている。みんなを手玉に取っているようで楽しい。
【スカイ】精神に異常をきたす魔法は得意なはずなのに、どうしてかショウの歌で精神崩壊の憂き目に遭う。
【リリアンティア】精神的に強いと思っていたが、まだ修行が足りなかった様子。