第9話【少女と脱出】
「う……」
反射的に目を瞑ってしまったリタは、何かが倒れるような轟音が止んだ頃を見計らって瞼を持ち上げる。
記憶の最後に認識したものは、巨大な本棚が倒れる光景である。雨の如く降り注ぐ魔導書がリタをハルアを襲いかかるも、幸いなことにリタ自身はハルアが覆い被さってくれた影響で魔導書の雨を受けずに済んだ。
周囲は様々な魔導書によって塞がれているものの、視界は昼間のように明るい。頭だけを動かすと近くに壊れた角燈が転がっていた。光源は角燈に使われていた光撃石である。
そして肝心のハルアだが、
「…………」
「ハルアさん?」
「…………」
リタの身体にのしかかるハルアは、ピクリとも動かない。
試しに肩を揺すってみるものの、やはり彼は声すら発しなかった。リタの呼びかけにも応じない。どうにかして彼に退いてもらわなければ、いつまで経ってもリタの身動きが取れなくなってしまう。
彼の背中にのしかかっている魔導書を手で払い除けてから、リタは「よいしょ」とハルアの身体を脇に転がした。うつ伏せだった彼の身体が仰向けになったことで、ようやくその状態が確認できる。
明かりに照らされるハルアの顔を見た瞬間、リタの血の気が引いた。
「は、ハルアさん、血が……!!」
「…………」
ハルアは何も言わなかった。
それもそのはず、彼は気絶状態にあった。どうやら降ってきた魔導書の角で頭をぶつけたようで、軽い脳震盪を引き起こしている様子である。ハルアの額にはベッタリと真っ赤な血がこびりついており、リタの心臓を容赦なく締め上げた。
本棚が倒れてくる際、リタが防衛魔法の1つでも使えていればハルアが怪我をする心配はなかったのだ。ただリタはハルアに守られているだけだった。降り注ぐ魔導書の雨を我が身可愛さでハルアに押し付けたのだ。
「ハルアさん……」
じわ、とリタの目に涙が浮かぶ。
どうしようもない自分が嫌になった。リタは魔法が使えるのに、魔法が使えないハルアに助けられてばかりだ。ずっとずっと守られてばかりだ。
魔法が使える分、リタがしっかりしなければいけないのに。魔法を使わないでも強いハルアに甘えっぱなしである。
絶望に震えるリタの腕の中で、毛むくじゃらの魔導書がモゾモゾと動く。「大丈夫?」と言わんばかりに長い毛皮が特徴的な表紙をリタの手の甲に押し付けてきた。
「…………平気だよ、大丈夫」
リタは背表紙を撫でてやりながら応じる。
現在は、いつ巨大な本棚が倒れてくるか分からない状況である。周囲には魔導書が散らばり、頭上を塞ぐように空っぽの本棚が傾いている。かろうじて向かいに設置された同じような背の高さがある本棚に支えられて完全に倒れることだけは免れているものの、非常に危険な状況と言えよう。
幸いにも、魔導書が散らばって雑な山を築いているだけで、押し潰されるというような最悪な状況ではなかった。道を魔導書で塞がれているが問題ない。退かす方法などいくらでもある。
毛むくじゃらの魔導書をギュッと強めに抱きしめたリタは、
「今度は私が、ハルアさんを助ける」
いつも助けられてばかりだから。
今度はリタが、ハルアを助ける番だ。何度も助けてもらったこの恩を返さなければならない。
そう決めてしまえば、自然と次の行動に移せた。まずは道を塞ぐ魔導書をどうにかしよう。
「ここからどうやって脱出するかだよね……」
通路は数え切れないほどの魔導書で塞がれており、頭上は斜めに傾いた空っぽの本棚によって覆われている。現在は斜めになった本棚によって作られた僅かな空間に身を屈めて座り込んでいるだけである。
本棚を押し上げることが出来るほどリタの腕力は強くないし、箒を用いない浮遊魔法の使用は自信がない。そもそも魔導書から発される魔力が環境に影響を及ぼしている魔導書図書館内に於ける魔法の行使は、正常に動作しない可能性があるので危険である。
毛むくじゃらの魔導書を抱きかかえ、リタは自分の杖を長衣の下から引っ張り出す。そして魔導書が塞ぐ通路を真っ直ぐに見据えると、
「魔導書を……退かすには……!!」
杖を握る手が震える。
実はこういう時の対処法として、魔導書解読学を担当する教員のルージュからある方法を教わっているのだ。それは1学年のリタでも実行可能な魔法である。
ただし、腕に抱いたこの魔導書自身が怯えないか心配だった。乱暴に扱われたこの魔導書に、他の魔導書を傷つけるところを見せるのは酷なことである。最悪の場合、逃げてしまう恐れもあった。
リタは長衣の下に毛むくじゃらの魔導書をしまい込み、
「ごめんね、ちょっとだけここで大人しくしててね」
毛むくじゃらの魔導書が、長衣の下で蠢く。「いいよ」と了承してくれたとリタは受け取った。
「〈水よ〉!!」
座り込んだままのリタは、魔導書めがけて魔法を放った。
杖を一振りする動作によって出現したのは、水の奔流である。先端から射出された少量の水が魔導書の表紙を僅かに濡らした途端、蜘蛛の子を散らすように通路を塞いでいた魔導書がリタから距離を取った。
魔導書は属性魔法を忌避する傾向にある――特に自身の身体が燃える恐れのある『炎魔法』と自身の身体が濡れる恐れのある『水魔法』は苦手としているようなのだ。「魔導書が悪戯で飛びかかってきた時は炎魔法や水魔法で牽制するといいですの」と授業で教わった。
魔導書が一斉に距離を取ったことで、目の前を塞いでいた通路が通行可能となった。リタは胸中で魔導書たちに「ごめんね」と謝罪して、未だ気絶状態から回復しないハルアに杖の先端を向ける。
「〈浮いて〉」
浮遊魔法を発動させる。
ふわりと空中に浮かび上がるハルアの身体。仰向けの状態で浮かんだ彼の脇から腕を通し、リタは羽交い締めのような体勢で浮かぶハルアを引っ張る。
そうして何とか傾いている本棚からハルアを引っ張り出すと、今度は浮遊魔法を維持した状態のまま空中で体勢を整えて、リタは気絶中のハルアを背負う。こうすることで自分の体重よりも重い相手を楽に運ぶことが出来る、と両親から教わったのだ。
しっかりと浮遊魔法が維持できていることを確認してから、リタは自分の脇で毛むくじゃらの魔導書を挟んで歩き出す。
☆
何かに揺られている感覚に、ハルアの意識はようやっと浮上する。
頭に強い衝撃を受けてから、記憶がすっぽりと抜け落ちている。馬鹿だからそんなこともあるだろうなんて思っていたが、記憶に残っている最後の瞬間と光景が違っているので気絶か何かをしていたようだ。
ぼんやりと霞む視界。頭の奥底まで残る痛み。霞む視界で捉えた景色はいつもより若干低めで、それでいてゆっくりと本棚が背後に向けて流れていく。
そしてすぐ目の前に飛び込んできた、燃えるような赤い色。後輩の瞳と同じような、夕焼け空をそのまま糸として紡いだかのように綺麗なおさげ髪。
「リタ……?」
「ハルアさん、起きましたか?」
聞き覚えのある少女の声が耳朶に触れる。
僅かにこちらへ振り返った少女――リタはにこやかに笑って「よかったです」なんて言う。
どうやらリタにおんぶされているようだった。彼女の腕がハルアの身体を支えており、小さくも温かい背中がすぐ近くにある。女の子が男の子をおんぶするなんてよほど力が有り余ってなければ不可能だろうが、どうやっているのだろう。
「リタ、オレ重いよ……」
「浮遊魔法でほんのちょっとズルをしているので平気です。ハルアさんはそのままで」
リタは微笑みを絶やさず、
「頭、痛いでしょう? ユフィーリアさんに診てもらいましょうね」
「…………うん」
そう、確かに頭は痛い。傷は細胞の1つ1つに印字された再生魔法のおかげで跡形もなく綺麗さっぱり治癒しているだろうが、それでも痛みは残る。頭が割れそうなほどの痛みが未だ脳味噌を支配していた。
リタに迷惑をかけることを考えれば頭の痛みなど我慢して歩けばいいが、おそらくこの少女はそれを許してくれない。上司である銀髪碧眼の魔女の元に届けるまで、おんぶは続行されそうだ。
それなら、こうして少しばかり頼りにさせてもらった方がいいかもしれない。
「ありがと、リタ……」
「私も助けてもらったので、これぐらいは当然です」
そう言って笑うリタの背に、ハルアは身体を預けて瞼を閉じる。
不思議と胸の内側に暖かさを感じた。
《登場人物》
【リタ】思う通りに動いてくれないことで有名な魔法動物を相手に気合と根性で学ぼうとするガッツがあることから、1学年ながらも危機的状況に強い。苦手な授業でも対処法は学んでいる。
【ハルア】持ち前の第六感と身体能力の高さゆえに危機的状況には強いものの、今回は怪我を負った影響で発揮できず。でも女の子を怪我ひとつさせなかったところは褒めて!