第3話【異世界少年と風邪】
風邪を引いた。
(久々だ……)
氷嚢で頭を冷やしつつ、ベッドに寝転がるショウは天蓋付きベッドの天井部分をぼんやり眺めながら思う。
風邪を引くこと自体が久々である。元の世界では幼い頃に片手で数えられる程度の回数は風邪を引いたものだが、叔父夫婦は揃ってショウをまともに看病しようとさえ思わなかったらしい。熱を出して寝込むショウを放置したまま生活するものだから、幾度となく命の危機を感じたものだ。
そんな目に遭いたくはないので生活習慣に気を付けていたのだが、季節の変わり目というこの時期は免疫力が低下することをすっかり忘れていた。油断していたから数年ぶりに風邪を引く羽目になってしまった訳である。
日がな1日ベッドに拘束される日々だが、不思議と「悪くはないかな」と不謹慎なことを思ってしまう。何故なら、
(どれだけ甘え倒しても邪険にされない、怒られない。ああ最高なり、風邪っぴき。万歳)
他人が心配しているのをよそに、ショウは現在の状況を満喫していた。
元の世界では高熱を出して何日も寝込み、命の危機を感じて自ら救急車に助けを求めたこともあるぐらいに邪険にされていた。叔母からは金切り声で「面倒をかけやがって!!」と殴られたこともあるし、叔父からは蹴飛ばされたことも記憶に残っている。風邪を引けば他人に迷惑をかけるものでしかないとは思っていたが、現在は違う。
用務員の先輩たちは優しい。風邪を引いたショウを心配して、こまめに様子を見にきてくれる。それだけではなく、パン粥や林檎などを手ずから食べさせてくれるのである。「自分で食べろ」とあしらわれることもなく、稀に見る高待遇を受けている訳だ。
ひっそりホクホク顔のショウは、
(風邪を引くのも悪くないなぁ。いや意図的に風邪を引くと心配させてしまうが、命の危機を感じていた元の世界の時とは大違いだ)
保健医のリリアンティアや学院長のグローリアの診断ではただの風邪らしいので、安静にしていればすぐに熱も下がるとのことである。明日には熱も下がって全快となっているだろう。
少しだけ残念なことではあるが、まあそれはそれで本日発売の新作お菓子とかハルアやリタと遊んだりとか娯楽はいくらでも待っている。短い特別な時間を思う存分に満喫しよう。
すると、
「ショウちゃん、起きてるぅ?」
「エドさん、けほッ」
外の世界と仕切るように閉じられた天蓋付きベッドのカーテンが開かれ、桶を手にしたエドワードが顔を覗かせる。口を開くと咳が思わず出てしまったので、ショウは病原菌を移さないように顔を背けた。
「あららぁ、大丈夫ぅ? 無理して喋んないでいいよぉ」
「平気でッ、けほけほッ、ちょっと、咽せただけ、で」
思いの外、咳は治らない。
激しく咳き込むショウの背中を、エドワードの大きな手が優しくさすってくれる。寝巻き越しに感じる彼の手のひらから伝わる体温が、涙が出るほど温かかった。
やがて咳が治った頃合いに、エドワードが枕元に置かれていた水差しからコップに水を注いで渡してくれた。ほんのり柑橘系の香りがする水を一気に飲み干すと、喉に居座っていた異物感も薄らいだ。
「ありがと、ございます……」
「起きてて大丈夫ぅ? 辛かったら寝ててもいいよぉ?」
「いえ、ちょっとは起きていないと今度は気持ち悪くなっちゃいますので……」
ついでに言えば、ずっと寝転がっていると眩暈が酷くなるのだ。すぐに寝転がることが出来るように上体ぐらいは起こしておいた方がマシである。
「朝から着替えてないでしょぉ、ショウちゃん。汗を掻いてるだろうからぁ、身体を拭いちゃおうかぁ」
「あ、はい」
エドワードが差し出した桶の中身は、どうやらぬるま湯のようである。あまり熱いお湯だと今度は身体が冷えて風邪を悪化させてしまうという配慮が感じられた。叔父夫婦は絶対にこんな世話を焼いてくれなかったので、本当に先輩たちの優しさには感謝である。
ぷちぷちと寝巻きのボタンを覚束ない指遣いで、ショウは何とか外していく。その後ろでエドワードがショウの長い髪を簡単にまとめ、アイゼルネから借りただろう髪飾りで留めてくれた。首元から背中にかけてヒヤリとした空気が肌を撫で、思わず身震いしてしまう。
汗が染み付いた寝巻きを脱ぎ、ショウは肌に浮かんだ汗をタオルで簡単に拭いていく。風邪を引いた状態でお風呂に入るのは非常に健康に悪い。簡単に汗を拭く程度でちょうどいいのだ。
身体の重怠さも影響があってモタモタとショウが自分の身体を拭いていると、
「怠いでしょぉ、ショウちゃん。貸しなぁ」
「あう」
「背中やってあげるねぇ。痛かったら言ってねぇ」
桶のぬるま湯にタオルを浸し、エドワードは濡れタオルでショウの背中を拭いてくれる。力加減も心地よくて「ふにゃあ」と意図せず変な声が漏れ出てしまった。
「ショウちゃん、いい具合にお肉がついてきたねぇ。最近は筋トレも頑張ってるしぃ、ちょっとは筋力もついてきたんじゃないのぉ?」
「まだまだですよ。鶏ガラからもやしに格上げされただけです」
「ここまで来るのに頑張ったもんねぇ」
異世界にやってきたばかりのショウは、驚くほど痩せ細っていた。ご飯を出されても1人前を食べ切ることなど不可能なほど胃袋も縮んでおり、食事も少量をこなすのが精一杯でユフィーリアやエドワードには苦労をかけたものである。
問題児の料理番たちが頑張ってくれたおかげで、ショウの身体は肋骨が浮かび上がるほど痩せた鶏ガラ体型からちょっぴり痩せたもやしっ子体型に格上げである。お腹も腕もちょっとだけぷにぷにしてきたので、今度は筋肉に変えるべくエドワードに鍛えてもらっているばかりだ。
背中を拭き終えたらしいエドワードは、ポンとショウの肩を後ろから叩く。
「はい終わりぃ。お着替えしよっかぁ」
「ありがとうございます」
「いいのよぉ、可愛い後輩なんだから甘えたってぇ」
エドワードが持ってきてくれた新しい寝巻きに袖を通すショウは、
「甘えてもいいんですか?」
「まあ多少の限度はあるけどぉ、ショウちゃんは病人さんだからねぇ。こういう時ぐらいは甘えるべきでしょぉ」
確認するように問いかけると、ショウの髪を櫛で梳かしながらエドワードが不思議そうな口調で言う。
普段であればノリと勢いでハルアと共に大人へ甘え倒している自覚はあるが、普段よりも甘え倒してもいいと言うのか。風邪という負の効果は何とお得な特典をご提供してくれるものである。
心優しい先輩たちを顎でこき使うのは気が引けるが、だって「甘えていい」と本人が言うのだから甘えてやろうではないか。小悪魔系末っ子後輩の魂に火がついた。
もたつきながらも何とか1個だけボタンを止めたところで、ショウはエドワードの身体に背中をピタリとくっつけて全身を投げ出した。
「ボタン留めてください」
「あらぁ、怠い?」
「怠いです」
「はいよぉ」
ポンポンと頭を優しく撫でられたあと、エドワードの太い指がショウの寝巻きのボタンを丁寧に留めていく。風邪を引いた状態で頑張るよりも、より早くボタンは留められた。ついでに「1個は留められて偉いねぇ」とお褒めの言葉のおまけ付きである。
「はい、留めたよぉ」
「あと1人は嫌なので、寝付くまで側にいてください」
「いいよぉ」
「添い寝がいいです」
「ここぞとばかりに甘え倒してくるねぇ」
着替え終わって綺麗さっぱりしたところでベッドに寝転がると、隣にエドワードが見上げるほど大きな身体を横たえてくる。2人分の体重を受け止めたベッドから軋んだ悲鳴が漏れた。
頭を撫でてくるエドワードの手のひらを振り払い、ショウは逞しい先輩の胸板に飛び込む。彼の大きな身体は安心感がある。あと筋肉のおかげで温かく感じた。
胸板にグリグリと額を押し付けてくるショウを見下ろし、エドワードは苦笑する。
「今日は随分と甘えたちゃんじゃないのぉ、小悪魔後輩ちゃん」
「可愛い末っ子弟ですよお兄ちゃん、可愛がってください」
「はいはい。早く風邪を治しなよぉ」
エドワードの大きな手のひらで頭を撫でられているうちに、ショウの意識は再び夢の世界に落ちていくのだった。
《登場人物》
【ショウ】用務員のみんなが優しいので存分に甘え倒す小悪魔後輩。風邪を引いたこの状況を楽しんでいる。
【エドワード】歳の離れた弟や妹が風邪を引いた時、看病をしてあげた記憶が蘇る系先輩。ショウは後輩ではあるが、自分の可愛さを存分に使いこなす小悪魔な弟だと思ってる。