第10話【問題用務員と巨大赤ちゃん人形】
2人揃って巨大な赤ちゃん人形から逃げた。
「おいエド、お前があれの囮になれよアタシの為に!!」
「ユーリがやりなよぉ、何の為に鋏を持ってんのよぉ!!」
緞帳を捲り上げてぬるりと埃臭い体育館に降り立った巨大な赤ちゃん人形に背を向け、ユフィーリアとエドワードは互いに赤ちゃん人形の処理を押し付け合いながら体育館の扉に取り付く。
それまでは確かに開いたままとなっていた分厚い扉だが、何故か今は閉じられている。エドワードが破壊したはずの南京錠が括り付けられた鎖も扉のすぐ下に落ちていたのに、扉はガタガタと揺すっても開く気配がないのだ。
冷たく硬い扉の表面をガンガンと殴りつけるユフィーリアは、
「おい、誰かこの向こうにいるのか!? 扉を押さえてるなんて真似をしてたら承知しねえぞ!?」
「ちょっとぉ、本当に開かないのぉ!?」
「お前が開けろよ、何の為の怪力なんだよその筋肉は見掛け倒しか!?」
「やってるじゃんねぇ、お前さんの目は節穴なのぉ!?」
扉をガンガンと叩くユフィーリアの横で、エドワードは分厚い扉に取り付けられたドアノブを握って無理やり開けようとしていた。いっそ枠組みから外した方が早いのではないかと引っ張っているが、直後、バギィという音が耳朶に触れた。
エドワードの手に、ドアノブが握られていた。体育館の分厚い扉に取り付けられていたはずの物体である。扉の方を見やれば、無惨に千切られた痕跡が扉の表面に残されていた。
2人の間に、沈黙が降りる。
「…………、何してんだよお前ッ!?」
「このドアノブが脆弱なのが悪いんだよぉ」
「ドアノブのせいにするんじゃねえ!?」
ドアノブに責任転嫁をするエドワードを叱りつけるユフィーリアは、弾かれたように背後を振り返る。
巨大な赤ちゃん人形だが、さすがに仁王立ちは出来ても歩行は不可能な様子である。足を踏み出すと同時に膝から崩れ落ちると、そのまま手のひらを埃の積もった床に叩きつけて這いずってくる。四つん這いで移動するたびに地響きが伝わってきた。
体育館が広大なのでまだ距離はあるものの、この調子で行けば追いつかれてしまうことは確実である。あの巨大な赤ちゃん人形に追いつかれれば何をされるか分かったものではない。頭から食われるかもしれない。
ユフィーリアはエドワードの脇腹を小突くと、
「おい、もう殴れ。それか助走をつけて思い切り蹴飛ばせば開くんじゃねえか!?」
「ドアノブが千切れた時点で察しなひゃおえッ!?!!」
「ああクソ雷が!!」
窓の向こうでビカビカと光った雷光に、エドワードが身体を竦ませる。建物越しに轟く雷鳴に膝をついた筋骨隆々の巨漢は、すぐさまユフィーリアめがけて体当たりしてきた。
腹部に彼の頭突きをまともに食らったユフィーリアの口から「ぐげふッ」という呻き声が漏れる。鈍い痛みが腹部を貫いていったが、それよりも全身を締め上げてくるエドワードの両腕によって内臓が押し出されそうなほどの強い圧迫感が襲いかかってきた。今日何度目の痛みだろうか。
ユフィーリアは抱きついてくるエドワードを引き剥がそうと躍起になり、
「エド、離せ!! 赤ん坊の人形に追いつかれるだろ!?」
「おぼッ、たばばばばばば」
「ダメだこいつ話を聞ける状態じゃねえ!!」
ユフィーリアの全身を締め上げながらも小刻みに震えるエドワードを頼りにするのは不可能だと判断し、とりあえず他の出入り口がないかと壁伝いに移動を開始する。ずるずると自分よりも身長も高くて体重も重い人間を魔法も使わずに引き摺るのは少々骨が折れるが、これ以上、苦手な雷がビカビカと猛威を振るう中で彼に無理をさせる訳にはいかない。
見たところ、入ってきた扉以外にも分厚い扉は壁に取り付けられている。それらは南京錠でやはり施錠されているものの、鎖を断ち切ってしまえば早い。その方法は、エドワードの剛腕に頼らずとも出来る。
すると、
「あぅあ」
「ぎゃあッ!!」
目の前に、赤ん坊のふっくらとした形の腕が通過する。
とうとう追いつかれたのだ。ユフィーリアは青褪めた顔を持ち上げる。
視線の先にいた赤ん坊の顔は、どこまでも無表情である。硝子玉を想起させる眼球がユフィーリアを射抜き、虚ろな眼窩と焼け爛れた皮膚が不気味である。雷光に照らされる巨人赤ちゃんの顔面は、ユフィーリアに恐怖を与えるのに十分だった。
慌ててユフィーリアは踵を返す。こんな巨大赤ちゃんに捕まってたまるか。
「たーぃや」
「いだぁ!?」
ユフィーリアの頭皮に激痛が走った。ついでに言えば首にも衝撃を受ける羽目になった。
巨大な赤ちゃん人形は、あろうことかユフィーリアの長い銀髪を鷲掴みにしていた。どうやらユフィーリア自慢の銀髪に大層興味を惹かれたご様子である。遠慮のない手つきで髪の毛をグイグイと引っ張るものだから、すぐ近くでぶちぶちという嫌な音を聞いた。
細い糸を無理やり引き千切るような音が頭の中で聞こえてくるたび、ユフィーリアの頭部に引き攣った激痛が与えられる。自慢の銀髪は赤ん坊にさえ魅力的に映ってしまうのは嬉しい限りだが、このままでは共倒れだ。
舌打ちをしたユフィーリアは、
「ッてえな!!」
口汚く叫んだあと、ユフィーリアは雪の結晶が刻まれた煙管を銀製の鋏に切り替える。身の丈ほどの巨大な鋏は落雷の白い光を反射して、夜の闇の中で煌めいた。
素早く鋏を振り上げ、巨大な赤ちゃん人形が掴むユフィーリアの銀髪を切断する。一気に頭が軽くなる感覚。視界の端で赤ん坊の手が掴みきれなかった銀髪の残滓がふわりと舞い落ち、赤ちゃん人形が興味深げに自分の手に握られた髪と短く切断されたユフィーリアの銀髪を見比べる。
赤ちゃん人形を睨みつけたユフィーリアは、
「怖さよりも怒りの方が勝ったわクソがよ、食らえ〈蒼氷の塊〉!!」
真冬にも似た空気が肌を撫で、赤ちゃん人形の頭上に一抱えほどの氷塊が重力に従って落下する。
さすがに透明ではなかったようで、赤ちゃん人形の頭上に生み出された氷塊は割れも凹みもしない巨大な赤ん坊の脳天に叩きつけられる。一抱えほどもある氷塊を頭頂部で受け止めた赤ん坊の人形はうつ伏せに倒れ込むと、そのまま動かなくなった。
と、思いきや。
「あ、ぁう、あああああああ!!」
脳天で氷塊を受け止めたのがよほど痛かったのか、赤ん坊人形は火がついたように泣き始めてしまった。涙は出ていないくせに、唇から漏れるのは本当に痛くて泣いているかのような悲鳴じみた声である。
ジタバタと暴れる巨大な赤ん坊。それから距離を取るようにユフィーリアは、腰にしがみついたままのエドワードを引き摺って逃げる。赤ん坊の癇癪に付き合っているほど余裕はない。まして、あんな巨大な赤ん坊の癇癪など受け止めれば本気で骨折する。骨折で済む話だろうか。
逃げようとした矢先のこと、赤ん坊の手のひらが床に転がる氷塊を掴む。
「ああああああああああああああああああああんんんんん!!!!」
「はッ、ちょ、おい待て!?」
引っ掴んだ氷塊を投げつけようと、巨大な赤ちゃん人形は氷塊を掴んだ腕を振り上げる。癇癪を起こしたまま何かを投げつけようとする様は成長を感じさせるようにも思えるが、今はそんな成長などいらん。
いっそ鋏で打ち返してみるかと思い、頼りない繊細な見た目の鋏を握り直すユフィーリア。相手から投げられる氷塊を打ち返した経験は記憶にないが、バットとして使うには心許ない太さである。まあ、頑丈さで言えば折り紙つきだろうが。
そしてついに氷塊が投げつけられる。泣きじゃくる赤ん坊の怒りのまま投擲された氷の塊が、ユフィーリアめがけて向かってくる。
「――――!!」
打ち返そうと鋏を構えると同時、何か巨大な壁のようなものがユフィーリアの前に立ちはだかる。
「おらぁ!!」
投げつけられた氷塊をぶん殴ったのはエドワードだ。拳を前に突き出すと、ぶち当てられた氷塊が粉々に爆散する。暗闇の中を粉々になった氷が雪のように散った。
駄々を捏ねるように振り上げられた巨大な赤ちゃん人形の腕を、エドワードは左腕1本で受け止める。わんわんと泣きじゃくりながらも暴れる見上げるほど巨大な赤ん坊を、エドワードは難なく抑え込んだ。
それから、彼は振り返ることなくユフィーリアの名前を呼ぶ。
「ユーリぃ!!」
「!!」
ユフィーリアはそれだけで何をすべきなのか理解した。
銀製の鋏を握りしめ、エドワードの背中めがけて駆け出す。床を蹴飛ばして跳躍し、エドワードの広い背中に飛び乗った。
そのまま彼の背中を足場にして駆け上がり、さらに高く跳ぶ。ふわりと軽やかに舞い上がる中で器用に体勢を変え、横に回転しながら落下。鋏の刃を押さえつけられた赤ん坊人形の項に叩きつけて、首ごと切断する。
赤ちゃん人形の手が、力なく垂れ落ちた。床に転がった赤ん坊の頭はゴトンと何やら重い音を奏でさせる。中身に何かが詰まっているような気配はないが、暗いので確認するのは止めた。
「ははは、ざまあみさらせ!!」
着地を果たしたユフィーリアは、銀製の鋏を雪の結晶が刻まれた煙管の状態に戻して高らかに笑う。怖さはあったが、あっさりと倒すことが出来て運がいい。
「エド、お前もお疲れ。いやァ、本当にアタシら頑張ったよな。これで脱出したら」
「ユーリぃ」
「あん?」
赤ん坊人形を倒したことで意気揚々とエドワードへ振り返ったユフィーリアは、唐突に頬を撫でられて瞳を瞬かせる。
エドワードの指先は、短くなってしまったユフィーリアの銀髪に触れていた。先程、赤ん坊人形に掴まれた際、逃げる為に切断したものだ。
魔女にとって上質な髪は魔力を溜め込んでおく貯蔵庫となる。それを引いたって、ユフィーリアが自分の髪を大事にしているかなどはエドワードも理解しているのだろう。短くなってしまった銀髪に触れるエドワードの表情は苦しげだった。
「ごめんねぇ、俺ちゃんが情けなくてぇ」
「気にすんな、エド。苦手なんだ、仕方ねえだろ」
ユフィーリアは肘でエドワードの脇腹を小突くと、
「どうせ魔法薬で直せる。心配するな」
「でもぉ」
「気になるなら、髪を生やす魔法薬はお前が塗ってくれ。どのぐらい長かったかなんて覚えてねえや」
「…………分かったよぉ」
不承不承といったような雰囲気で、エドワードは頷く。
ふと、ユフィーリアは窓の外に視線を投げた。雷の音が聞こえなくなったのだ。
分厚い雨雲の隙間から、綺麗な星空が見えていた。どうやら無事に終了となったらしい。劇型魔法絵画の世界から脱出である。
「雨、止んだな」
ポツリと呟いたユフィーリアの言葉を皮切りに、徐々に視界が白く染まっていく。そうして、静かな深夜の体育館から問題児の2名が姿を消した。
《登場人物》
【ユフィーリア】気分で髪の毛をショートカットにしたことはあるのだが、首がスースーするのが嫌なのでロングヘアに戻した。以来、髪の毛は長いまま。
【エドワード】ツーブロックにしたり、ロングヘアにしたり、アフロヘアにしたり、パンチパーマにしたりと迷走した時期もありました。今は剃り込み。