第8話【問題用務員と荒れる食堂】
男装型ダッチワイフに追いかけられ、無事にあの保健室に逆戻りした。
「何なのぉ、あのクソ人形」
「もう怖くて娼館の前を通れない……」
「ユーリぃ、泣かないのぉ。一昔前のダッチワイフを置いてるような娼館はないでしょぉ」
四つん這いになって追いかけてくる男装型ダッチワイフに恐怖を覚えたユフィーリアは、ポロポロと青い瞳から涙をこぼす。何であんなに怖いものを安息地である図書室に用意しておくのか。
一昔前の意匠なので軒先に置いてある娼館も少ないだろうが、今度からあれらが四つん這いで追いかけてくると考えただけで娼館の前は通れない。どうしてこんな目に遭わなければならないのか、日頃の行いが悪いとでも言いたいのか。悪いに決まっているだろうこの野郎。
静かに涙を流すユフィーリアの頭を撫でて慰めてくるエドワードは、
「とりあえずあの間抜けな顔のダッチワイフは図書室に戻ったみたいだけどぉ」
「図書室行けない……」
「わざわざ行き止まりに突撃するのはおかしいじゃんねぇ」
あの男装型ダッチワイフが根城にしている図書室は校舎の行き止まりのようで、それ以上に進む箇所がなかったのだ。四つん這いで動き回る気持ち悪い人形が自分の巣穴に戻ったのであれば、男装型ダッチワイフが占拠する図書室に行かない方が吉である。
かと言って、次にどこへ進むべきなのか分かっていない。せめて進路でも書いていてくれれば進みやすいものだが、そんな親切なものがこの悍ましい人形が蔓延る廃校に存在する訳がなかった。もう泣きたい。
すると、
「んん?」
「何だよ、エド。まさかダッチワイフがこっちに気づいたか?」
「違うよぉ」
涙声でユフィーリアが問いかけると、空気中の匂いを嗅いでいたエドワードが眉根を寄せる。
「臭いがするぅ」
「何の」
「何かぁ、こうねぇ」
エドワードは首を傾げる。まるで漂ってくる臭いの表現に困ると言ったような雰囲気だ。
「ゲロみたいな臭いかねぇ」
「ただでさえ怖くて仕方ねえのに、何でここに来てゲロの臭いを嗅がなきゃいけねえんだよ」
「嗅いだのは俺ちゃんだよぉ。ユーリの嗅覚じゃ感じないじゃんねぇ」
ユフィーリアは吐き捨てるように言うが、確かにエドワードの言う通りである。嗅覚の優れたエドワードだからこそ嗅ぎ分けることが出来たのだ。
ただ、この先に吐瀉物の臭いがするような謎物体があると考えただけで気が滅入る。散々人形たちに脅かされてきて、次に待ち受けるのが吐瀉物とは嫌すぎる。この趣味の悪い劇型魔法絵画の製作者は頭の中身を疑いたくなる。
しかしここで立ち止まれば、永遠にこの恐ろしい世界から脱出できない。先に進むことと永遠に止まることを天秤にかければ、どちらに傾くか明らかだった。
「仕方ねえ、進むしか……」
「…………」
「エド?」
エドワードの太く逞しい腕が、ユフィーリアの腰に巻きついてくる。そのまま抱き寄せて頭をユフィーリアの豊かな胸に埋めてきたかと思えば、小刻みに震え始めてしまった。
直後、背後で真っ白な閃光が弾ける。そういえば保健室には窓があり、今もなお酷い雷雨が続いているのを思い出した。耳を劈く雷鳴に、エドワードの震えはさらに強くなる。
ついでに言えば、腕の力も。
「アダダダダダ、ちょ、エド待て出るから内臓出るから腕の力を緩めろ頼むからァ!!」
「……ッ、…………!!」
「そのまま抱きついていてもいいからせめて腕の力だけでも緩めてくれ腰の括れが酷いことになる内臓が口から出るゥ!!」
ギチギチと容赦なく腰を締め上げられ、ユフィーリアは堪らず悲鳴を上げた。恐怖から来る理由以外で悲鳴を上げたのはもう何度目になるだろうか、と思わず頭の片隅で考えてしまうのだった。
☆
ようやく正気を取り戻したエドワードの嗅覚を頼りに進むと、臭いの発生源は図書館脇に設けられた階段から漂っているようだった。
「…………声がするな」
「だねぇ」
薄暗い階段を覗き込むと、何やら子供の甲高い声が幾重にもなって響いてくる。この人形だらけの不気味な廃校で子供の声が聞こえてくるということは、少なくともまともに考えてはいけない類のものだ。怪奇現象で子供の声が聞こえてくるのは定番である。
この下に子供の声が多く聞こえてくるということは、何かしらの教室でも近いのだろうか。エドワードが空気中の臭いを嗅ぎ、それから「やっぱりゲロの臭いがするねぇ」などと顔を顰めながら報告してきた。
ユフィーリアはそろりと階段に足をかけ、
「行きたくねえ……行きたくねえよ……」
「行かなきゃ進まないじゃんねぇ、ほらぁ」
「うぎぃぃ」
階段に足をかけたまま一向に進もうとしないユフィーリアを、エドワードは呆れた様子で担ぎ上げる。荷物のように抱えられたユフィーリアは、ジタバタと暴れるだけだった。
強制的にエドワードの手によって階下に引き摺られていったユフィーリアは、徐々に感じ始める据えた臭いに眉根を寄せた。遠くからでもエドワードが感じていた臭いが間近に迫り、確かにそれは例えるなら吐瀉物の臭いと表現するのが正しいだろう。
階段を下りると、子供たちによる甲高い声と据えた臭いがより一層強さを増す。嗅覚に優れたエドワードが「おごえッ」と口から嗚咽を漏らすぐらいには酷い臭いであることが理解できた。ユフィーリアでもこれは吐き気を催す。
階段の影から様子を伺うと、どうやら図書室の下に『食堂』と銘打たれた施設があった。嫌な予感しかしない。
「何の料理を作ればこんな臭いを発するんだよ」
「おごッ、ふへぇ」
「手巾を貸してやるから我慢しろ、エド。ここで吐くんじゃねえ」
悪臭のせいで顔色が酷いエドワードに、ユフィーリアは自分の手巾を貸してやる。絶死の魔眼で嗅覚を一時的に機能停止にしてもいいのだが、五感の1つが使えなくなると危険度が増す可能性が考えられる。特にエドワードの優れた嗅覚は索敵などに使えるので、機能を停止させるのは惜しい。
手巾で鼻と口を覆い隠すエドワードは、顎で『食堂』と札が掲げられた扉を示す。彼の銀灰色の瞳は「この先に行くのか?」と問いかけていた。ユフィーリアだって行きたくないが、行かなければ状況が進まない。
ユフィーリアは食堂の扉の前に立つ。観音開き式の扉の隙間から強烈な臭いがツンと漂ってきて、思わず咳き込んでしまった。その声さえも子供たちの喧しい叫声に掻き消されたが。
「開けるぞ」
「はいよぉ」
食堂の扉を僅かに押し開け、ユフィーリアとエドワードは縦に並んで部屋の様子を確認する。
長椅子と長机がいくつも並んでいる、広々とした部屋だった。広大な空間を自由に駆け回る、背の低い人間の姿をした何か。彼らはきゃあきゃあと甲高い悲鳴を上げながら追いかけっこをしていたり、お行儀悪く長机に飛び乗ったり、調味料らしき瓶をひっくり返して床に絵を描いていたりと目も当てられない問題行動を繰り広げていた。
机の上に放置されている銀盆には、よく見ると黄土色のべちゃべちゃした液体のようなものが盛られていた。あれが食事だとするならば、作った料理人の腕前を疑いたいところである。こんな酷い臭いのする料理はルージュでも作らない。
「おえ、この部屋中にゲロの臭いが染み付いてやがる……」
「ごふ」
「エド、お前アタシの上で吐きやがったら許さねえからな。外に放り出してやる」
頭上で何やら不穏な嗚咽を漏らしたエドワードに、ユフィーリアは厳しい声で言う。他人のゲロを浴びるような趣味はない。
「というか、次に進む道って見えるか?」
「ここからだと分からないねぇ、もっと奥を見てみないとぉ」
「この臭いの中を行きたくねえんだけど」
「それは俺ちゃんも同意見だよぉ」
ユフィーリアとエドワードは、食堂の扉を僅かに開いた隙間からなおも観察を続ける。
見える範囲に、先へ進めるような道は存在しない。子供特有の甲高い絶叫が鼓膜に突き刺さり、視界の端を人の姿をした何かがチョロチョロと駆け回る。いつこちらの存在に気づくかとヒヤヒヤしたものだが、意外にも気づかれていない。
と、ここでユフィーリアは弾かれたように背後を振り返った。チカチカと明滅する魔光灯によって照らされた廊下には他の動くものの気配はなく、誰かが迫ってきているような雰囲気もない。
「どうしたのぉ?」
「いや、よくあるだろ。こうやって他のことばかりに集中していると背後が疎かになるって」
「あるねぇ」
「だから背後から誰かが来るかもしれないって思って、一応な、こうして後ろを振り返ってみた訳よ。誰もいなくてよかったわ、うん」
この極限状況で、何が起きるか分かったものではない。周囲に注目するべきである、というのはここまで来てようやく学んだのだ。少し自慢げにそんなご高説を垂れるユフィーリアに、エドワードが感心するような眼差しを向ける。
しかし、やはりそれは『他のことばかりに集中していると、背後が疎かになる』云々に当てはまった。説明に集中しすぎて、食堂の様子を見ていなかったのだ。
キィ、と食堂の扉が内側から引っ張られる。
「あ」
「わあ」
視界いっぱいに、女の子の顔が映った。
それは人形の顔である。どこかで見覚えがあると思えば、人形劇などで使われる糸で操作する形式の操り人形だ。口角の辺りに伸びた口を動かす為の切れ込みと、感情のない硝子玉のような双眸が印象的である。今まで食事でもしていたのか、顔はおろか球体関節が目立つ手首にレースがふんだんに縫い付けられたドレスにも泥のような汚れがこびりついている。
おかしなものである。その操り人形は糸がなければ動けないはずなのに、操作の為の糸が全く見当たらない。天井から吊り下げられているのかと思わず視線を上に投げてしまったが、透明な糸さえ確認できなかった。なのに、目の前の汚れた操り人形は滑らかに動いている。
そもそも、見つかったのが問題だが。
「お食事中にお邪魔しました」
「ごめん遊ばせぇ」
パタン、とユフィーリアとエドワードは食堂の扉を閉じる。
何だか徐々に騒がしくなっていく扉を背後に、軽く屈伸運動なんて初めてみちゃったりした。「飯の最中は見られたくないよなぁ」「だねぇ、緊張しちゃうもんねぇ」と見当違いなやり取りも交える。
それから、2人が駆け出すとほぼ同時に、食堂の扉が荒々しく開かれると大量の足音が追いかけてきた。
「ぎゃあああああああ追いかけてきたああああああああ!!」
「ユーリぃ、背後を振り返ってる暇なんてないよぉ。捕まっちゃうよぉ」
「捕まったら何されると思う!?」
「あのゲロ飯を食わされるんじゃないのぉ?」
「嫌だ絶対に味わいたくない!! ルージュの飯を食うのと同じぐらい嫌だ!!」
追い縋る大量の足音から逃げるユフィーリアとエドワードのやり取りは、校舎全体に響き渡った鐘の音によって掻き消された。
《登場人物》
【ユフィーリア】どれほど面倒でも決してペースト状の食事だけは(よほどの理由がない以外は)出さない料理上手。あんな臭えもんどうやって作るんだ。
【エドワード】臭すぎてそれどころではない。精神が逝きそうだし鼻が曲がって使い物にならなくなりそう。