第4話【問題用務員と突破】
息を潜める。
耳をそばだてる。
すぐ近くから、足音。
――ごつ、ごつ、ごつ、ごつ。
踵に高さのある靴を木製の床に叩きつけるかのような、くぐもった音がすぐ近くまで迫る。
しかし、その足音は一旦止まるものの、またすぐに薄い壁1枚を隔てた向こう側から聞こえてきて遠ざかっていく。どうやら見つけることが出来ずに、また授業へ戻るようだった。
ごつ、ごつ、という不穏な足音。一体どんな力で歩いているのか、それともただすり足気味に歩いているのか不明だが、やがて足音は蝶番の軋む音と共に消える。
そこまで来て、ようやくユフィーリアとエドワードは張り詰めていた息を吐き出した。
「怖ぁ、何あれぇ」
「あばばば、ばばばばばばばばば」
「まずい、ユーリが本格的に小刻みに震え出したぁ」
あまりの恐怖から小刻みに震え出すユフィーリアを、エドワードが抱き上げて「よーしよーし」とあやしてくる。赤ん坊のような扱いが大変不本意なので、馬鹿にしたような表情のエドワードの鼻っ面に拳を振り下ろしておいた。
痛みで埃と落書きに塗れた床の上をのたうち回るエドワードから距離を取り、ユフィーリアは部屋の外の様子を窺う。遠くの方で再び白墨を黒板に叩きつけるようなガツンガツンという音が聞こえてきたので、授業が再開したようだ。
安堵の息を吐くユフィーリアは、
「この教室があって助かったな」
「ちょッ、ユーリねえ、俺ちゃんの鼻は無事ぃ? 陥没してない?」
「ちょっと鼻が曲がってる」
「この野郎」
「お前が最初に馬鹿にしたような表情を見せたのが悪いんだよ。アタシはこの件に関して敏感だぞ、おい。何でも悪意的に捉えるからな」
「何の脅しよぉ」
ぶん殴られたおかげで少しばかり曲がったらしい鼻をさすりながら、エドワードは身体に付着した埃と白墨の汚れを落とす。もんどり打っていた影響で背中辺りが真っ白に汚れていた。
あの悍ましい教室から逃げた先は、行きがけに見かけたあの落書きだらけの部屋である。元々はこの場所も教室として扱われていたのだろう、机と椅子のセットがひっくり返っていたり横倒しになっていたりしているので、掃除でもすればすぐに教室として機能しそうだ。
いっそ不気味ささえ感じられる落書きの数々は、やはり間近で眺めても意味をなさない代物ばかりだ。どこかで見覚えのあるものだと思えば、あの恐怖の授業真っ最中の黒板にぎっしりと書き込まれたものと同じだ。もしかして、授業を執り行っているあの女性が書いたものか。
落書きを眺めて顔を顰めたユフィーリアは、
「あの女、悪魔憑きか何かか」
「悪魔憑きってぇ、アイゼと同じってことぉ?」
「アイゼはまだマシだ。あれは悪魔と契約をして相互関係が出来ているからいい、本来の悪魔憑きはこんな感じだよ」
ユフィーリアはつま先で床に描かれた落書きを示す。
意味不明な落書きの羅列は悪魔憑きの特徴の1つとも言えよう。悪魔と契約をした関係で築かれる信頼関係はなく、人の身体に幽霊の如く取り憑いた悪魔の場合だとこのような現象が見られると言うのだ。
噂では人間の身体を借りて魔法を行使しようと目論んでいるらしい。意味不明な落書きの羅列は、自分の地位を押し上げる為の魔法を模索しているという論もあるほどだ。何らかの魔法を使おうとして失敗しているのは想像に容易い。
「じゃあさぁ、あの教室をどうやって突破するのよぉ」
「…………」
「教室の扉から見えたでしょぉ? 反対側の壁に昇降機っぽい扉があるのぉ。南京錠で封鎖されてたけどさぁ」
エドワードに現実を容赦なく突きつけられ、ユフィーリアは嫌そうに視線を逸らす。
この劇型魔法絵画を幕引きへ導くには、この先へ進まなければならない。進まなければこの絵の世界から出ることは一生叶わないのだ。
そして突破するということは、緊張感と恐怖で支配された教室の向こう側にある昇降機を使用しなければならない。その為には南京錠の解除が必要である。遠隔で南京錠を解除するのは魔法を使用すればいいだろうが、あの南京錠がただの南京錠である可能性がない。
遠隔で解除できなければ、今度は近づかなければならないのだ。つまり教室に足を踏み入れることになる。
「…………あ」
「え?」
「これ」
ユフィーリアが見つけたのは、教室の出入り口を塞ぐように横倒しの状態で放置されたロッカーだ。金属製の縦に長いロッカーは、身を隠すのに最適である。
「これに迷彩魔法をかける。そうすりゃ教室内でも移動しやすいだろ」
「なるほどねぇ」
ユフィーリアの提案に、エドワードは納得したように頷く。
迷彩魔法とは周囲から透明に見えるようになる魔法である。隠れる際には重宝する魔法で、幻惑魔法の1種にも数えられる。
この魔法は何かを被った状態の方がより効果を発揮しやすく、この場で被るものと言えば金属製の縦に長いロッカーしかない。迷彩魔法をかけるには最適の装備である。
エドワードは横倒しにされたロッカーを指差し、
「その状態でどうやって移動するのぉ?」
「底をくり抜いちまえばいいだろ。幸いにも、鋏は出せるし」
ユフィーリアはそう言って、雪の結晶が刻まれた煙管を銀製の鋏に切り替える。雪の結晶の螺子留めが特徴的な身の丈ほどの銀製の鋏は、何でも切ることが出来る優れものだ。金属製のロッカーなど容易く切断できる。
「もう1個言っていい?」
「まだ何か文句があるのかよ」
「その縦長ロッカーだとねぇ、俺ちゃんの身体が入らないんだよねぇ。どうするのぉ?」
「…………」
ユフィーリアは横倒しにされた金属製のロッカーを魔法で引き起こす。ひとりでに起き上がったロッカーの隣にエドワードを並べて、その幅を比べてみた。
金属製のロッカーよりもエドワードの横幅が勝った。鍛え抜かれた肉体美を隠せるほどロッカーは大きくなかった様子である。縦の問題を解決したとしても、横の問題で完全に無理だった。
ユフィーリアは真剣な表情で「よし」と頷き、
「エド、細くなれ」
「無茶振りじゃんねぇ、一体どうやって細くなれってのよぉ」
「大丈夫だ、お前はやれば出来る子だ。細くなれるはずだ。細くなれ、今すぐに、梟のように」
「無理だって言ってンのが聞こえてねえのかこの馬鹿魔女」
「あだだだだだだだだだだ!!」
怒ったエドワードによって頭を万力のような剛力で締め上げられ、ユフィーリアは堪らず悲鳴を上げるのだった。
☆
そんな訳で、である。
「よし完璧」
「無理やり広げただけじゃんねぇ」
深さのあるゴミ箱を頭から被ったユフィーリアは、自信ありげに胸を張る。その隣のエドワードは横倒しにされたロッカーの底をくり抜いたものを被っていたが、形がボコボコに歪んでいたので無理やり広げて大きな身体を詰め込んでいるようである。
金属製のロッカーは、何とかエドワードが入れるようにと無理やり広げた状態のものを用意した。おかげで表面はボッコボコに歪んでいるし、何かちょっと肩幅とか浮き出ちゃっていたりしているが、まあ全身が隠れているのでよしとする。
ユフィーリアは雪の結晶が刻まれた煙管を一振りして、迷彩魔法を自分とエドワードにかける。
「静かにしろよ、エド。バレたら終わるぞ」
「きつい」
「我慢しろ、抜けるまでの辛抱だ」
「ユーリのゴミ箱の方がよさそう、代わってぇ」
「やだよ重いじゃん」
「ふざけんな、重い方を押し付けてきたねぇ!?」
エドワードの訴えを無視して、ユフィーリアは空き教室を出発する。
迷彩魔法で消すことが出来るのは姿までだ。自分たちが立てる音などは消すことが出来ない。徹底して隠れたい場合はさらに消音魔法などを重ねがけする必要があるが、そこまですると魔力を無駄に消費してしまう。魔力の回復手段を得られるまで余計な魔法は使わない方がいい。
忍び足で先程の教室の前まで移動し、扉のドアノブに手をかける。音をなるべく立てないようにゆっくりと、慎重に開けた。扉の隙間からガッツンガッツンという白墨を黒板に叩きつける嫌な音が耳に突き刺さる。
「行くぞ」
「……はいよぉ」
ユフィーリアの号令に、エドワードが嫌そうに応じた。
床板が不自然に軋まないことを祈りながら、ユフィーリアとエドワードは教室内に足を踏み入れる。白墨による殴り書きの音がより大きく聞こえてきて、緊張感が自然と増した。
しかし、ゴミ箱を被った魔女と縦長ロッカーを歪めてまで無理やり身体を突っ込んだ巨漢が教室内を横断しても、どうやら授業中の先生は気づいていない様子である。熱心に授業の真っ最中であった。
足音も幸いにも、白墨の音で掻き消されている。これなら簡単に昇降機まで辿り着けそうだ。
「うわ最悪」
「何よぉ」
「南京錠だと思ったら魔法錠だった。解くの大変だぞこれ」
「ええー」
昇降機を封じる鉄柵の前まで移動したユフィーリアだが、封鎖の原因となっている南京錠に複雑な線が幾重にも刻み込まれているのを確認して頭を抱えた。ただの南京錠かと思えば、魔法がかけられた錠前であった。
いわゆる『魔法錠』と呼ばれる代物である。これは解錠用の魔法を施した鍵でなければ開けられないようになっている。もちろん魔法の天才であるユフィーリアなら解錠用の魔法がかけられた鍵など存在せずとも解除できるが、少しばかりお時間をいただくことになりそうだ。
ユフィーリアは魔法錠の前にしゃがみ込み、
「エド、見張りを頼む」
「ユーリぃ」
「何だよ、不満か?」
「そうじゃなくてぇ」
歪んだロッカーの隙間から教室全体を見渡すエドワードは、
「見てるよぉ」
「え」
弾かれたように、ユフィーリアは背後に広がる教室の光景へ振り返る。
目が合った。
ぬいぐるみが、くるみ割り人形が、デッサン人形が、お世話人形が――授業を受けているはずの全ての人形たちと、一心不乱に黒板へ白墨を叩きつけていたあの女性が、迷彩魔法で隠れたはずのユフィーリアとエドワードを見据えていた。
その悍ましい景色に、寒気を感じない訳がなかった。
「おぎゃああああああああ〈大凍結〉!!」
悲鳴と共にかろうじて掻き集めた理性を総動員させ、ユフィーリアは咄嗟に魔法を行使する。
ひゅお、と真冬にも似た空気が流れる。身を切るような冷たい空気に触れた途端、人形と悍ましい形相の女性が一瞬にして氷像と化す。
氷像の群れを確認したユフィーリアは、涙目で魔法錠と向き合った。
「もうやだ、これとっとと解いて次に進む」
「ユーリぃ」
「今度は何だよ!!」
恐怖のあまり声を荒げるユフィーリアに、エドワードは容赦なく現実を突きつけてくる。
「あれ動いてなぁい?」
「ぽよ」
「しっかりしてよぉ、ユーリぃ。まともに魔法を使えるのはお前さんだけなんだからぁ」
ユフィーリアが魔法で凍らせたはずの人形たちは、ぶるぶると震えていた。寒さに震えるのではなく、卵の殻から孵る雛のように氷の膜をぶち破ろうとしていた。
魔法で凍らせれば半永久的に氷像と成り果てるだけなのに、やはり絵の世界では魔法の効果も思うように発揮されない様子である。どうしろと言うのか。
固まるユフィーリアをロッカーを脱ぎ捨てたエドワードが小脇に抱えると、
「南京錠だけで封鎖できると思うんじゃないよぉ、こんなの枠ごと外すんだよぉ」
左手で昇降機の扉を塞ぐ鉄柵を掴み、その枠ごと剛腕で引き剥がす。
魔法錠で封鎖されていたはずの鉄柵は、呆気なく扉の枠組みから外された。ぶちぶちと毟り取られた鉄柵を前に、ユフィーリアは青い瞳を見開いて固まる。
片腕1本で鉄柵を握り直したエドワードは、氷像と成り果てた人形どもが復活するより先に毟り取ったばかりの鉄柵をぶん投げる。
「おらぁ!!」
さながら円盤よろしくぶっ飛んでいく鉄柵は、人形どもをまとめて薙ぎ倒した。鉄柵の下敷きにされた彼らが、たとえ復活したとしてもすぐに追いかけてくるのは無理そうである。
その隙に、エドワードは昇降機のレバーを倒す。すでに待機されていた昇降機の扉が開き、2人揃って狭い個室に駆け込んだ。
「危なかったねぇ」
「ぱう」
「ユーリぃ、正気に戻らないと置いてくよぉ」
動き始めた昇降機の壁に背中を預けて座り込むエドワードの隣で、ユフィーリアは非難するような目線を向ける。
「最初から鉄柵を毟り取ればよかったんじゃねえか?」
「今思いついたのぉ」
昇降機の駆動音が響く狭い個室内に、2人のため息が落ちるのだった。
劇型魔法絵画の世界は、まだ始まったばかりである。
《登場人物》
【ユフィーリア】恐怖のあまり頭が働かない。
【エドワード】雷がなければ頭は働くが、咄嗟の考えが出るまで時間がかかる。