第1話【問題用務員と壁塗り】
唐突だが、用務員のお仕事である。
「壁を塗り直しておいて」
今日も今日とて唐突に訪問しては働きもしねえ用務員に仕事を任せる名門魔法学校の学院長、グローリア・イーストエンドからのありがたいお言葉だった。
魔導書や筋トレ用具、絵本、ぬいぐるみ、女性用雑誌など雑多なものでごちゃごちゃと散らかった用務員室に、新たな物品が追加される。真っ白な塗料の缶だった。しかも人数分の刷毛が用意されている徹底ぶりだ。
真っ白な塗料の缶は蓋が僅かに開いており、使用済みであることが窺える。その僅かに開いた蓋から漏れてきた塗料独特の匂いが鼻孔を掠めた。特殊な魔法薬を混ぜ込んで作られる、雨にも負けない風にも負けないついでに言えば魔法にも負けない強力な塗料だ。
床にドンと置かれた塗料の缶と、当然とばかりの表情で塗料の缶を押し付けてきたグローリアを交互に見やる銀髪碧眼の魔女――ユフィーリア・エイクトベルは、手元に広げた魔導書に視線を戻した。
「訪問販売はお断りしてまーす」
「誰が訪問販売だって?」
「あ、押し売りの方だったか? どっちでもいいけど、とにかくお帰りくださーい」
「仕事をしろと言ってんだよ、こっちは」
グローリアはため息を吐き、
「そろそろ君たちも真面目に働いてもらわないと困るんだよ。こっちは給料を払ってるんだから」
「魔法でやれよ、壁の塗り直しぐらい」
「君たちを働かせる為に魔法を使用しての壁の塗り直しは禁止するね。ちゃんと働いているところを見せてよ」
「この魔法全盛期の時代に手塗りかよ。時代遅れな奴だな!!」
ユフィーリアは極小の舌打ちをし、魔導書の頁に滑らせていた視線を持ち上げる。
全てが魔法によって便利になった魔法全盛期の時代に、わざわざ手で壁を塗り替える必要があるのだろうか。それこそ修復魔法でも使った方が早く、しかも正確に塗り直しが可能である。それを問題児どもを働かせる為だけに手塗りを命じてくるとは鬼畜外道の極みだ。
いやまあ、出来なくはないのだ。昔は一時期、大工仕事が楽しいと思っていた時期もあったのでエドワードを引き連れて塗装屋や職人の元に勝手に出入りしていたこともある。塗料の扱いなど慣れたものだ。
ただ、気分が乗らない。誰もが知ることだろうが、ユフィーリアは物事を『面白い』か『面白くない』かで判断する気分屋の自由人だ。この広大な校舎を、しかも手塗りで壁を塗り直すとか何を考えているのやら。
「絶対に嫌だから魔法で学院長室に送り込んでやろドーン」
「その狙いを華麗に見越して返却するねバーン」
ユフィーリアが転送魔法で壁塗り用の塗料を学院長室に送り込んだと思ったら、それを見越したグローリアが学院長室でひっくり返るより先に真っ白な塗料を用務員室に戻してくる。
ところが、である。
転送魔法の座標が狂っていたからか、戻されたはずの真っ白な塗料は用務員室にやってこなかった。中身もぶち撒けられることはない。はて、一体どこへ消えたのやら。
――隣の部屋からガシャーンなどという音が聞こえてこなければ、きっと地獄を見ずに済んだのだろうが。
「…………」
「…………」
ユフィーリアとグローリアは互いを指差す。
瞳は物語っていた――「お前が余計なことをするからだ」と。それもそうである。ユフィーリアが転送魔法で学院長室に塗料を送り込まなければあんな音が隣の部屋から聞こえてくることもなかったし、グローリアが転送魔法を成功させていれば被害は隣の部屋に及ぶことはなかった。
そして、地獄の門が開くように、隣の部屋の扉がゆっくりと開かれる。
「…………」
姿を見せたのは、頭に塗料の缶を被った筋骨隆々の男――エドワード・ヴォルスラムであった。
どうやらグローリアの失敗した転送魔法の結果は、彼の頭と全身に出てきたようである。灰色の短髪を真っ白に染め上げ、さらに顔はおろか迷彩柄の野戦服まで真っ白な塗料によって汚されていた。大胆に解放されたご立派すぎる胸筋の溝にまで塗料が伝い落ち、何だか淫靡な気配が――いやしねえわ。だって顔が阿修羅のように怒っているから。
銀灰色の鋭い双眸で、自身の上司と雇い主を交互に見つめるエドワード。その無言の圧が凄まじかった。
彼の瞳は物語る――「どっちがやらかしたんだ、この馬鹿野郎どもが」と。
「こいつです!! こいつがやりました!!」
「ユフィーリアが先に転送魔法で学院長室に塗料を送り込んだんでしょ!?」
「はあ? 余計な抵抗をするからだろうがよ、大人しく学院長室の床を真っ白に染め上げでもしていればこんなことにはならなかったんだよ!!」
「そもそも君が仕事を引き受けていれば僕だって転送魔法で抵抗することもなかったんだよ!! 何で僕に責任転嫁してるんだ、君のせいでしょ!?」
「塗料の缶の蓋が開いてやがったから、持ってきたお前のせいだよ!!」
「記憶の限りだと最後に使ったのは君だねユフィーリア!!」
学院をお騒がせさせる問題児筆頭と、名門魔法学校の学院長がみっともなく言い訳じみた口論を展開するも、エドワードの絶対零度の声が落ちる。
「責任をなすりつけ合うテメェら2人のせいに決まってンだろうがクソがよォ!!」
エドワードが手に取ったものは、ユフィーリアの執務机に積まれていた魔導書である。1番上に乗っていたやたら表紙が硬い革製の、しかも妙に分厚い魔導書だ。
それを鈍器に見立てて、エドワードは遠慮のない手つきでユフィーリアの頭頂部をぶん殴る。しかも角である。面でも背表紙でもなく、角である。筆舌に尽くしがたい痛みが頭蓋骨を貫通して脳味噌まで到達し、あわや頭が凹むような衝撃を味わうことになった。
痛みのあまり椅子ごと背後に倒れ込んだユフィーリアを無視し、エドワードは手にした魔導書を逃げようとしたグローリアの後頭部めがけて投擲する。
「逃げてンじゃねえ!!」
「おぐぅッ!?」
抜群のコントロール力を発揮し、エドワードが投擲した魔導書はグローリアの後頭部を殴打する。スコーン!! という小気味いい音が聞こえたような気がした。
上司と雇い主を屠ったエドワードは、鼻を鳴らすと居住区画に戻っていく。頭に乗せられたままになっている塗料の缶は用務員室の床に打ち捨てた。
閉ざされていく扉の向こうでは、未成年組のアズマ・ショウとハルア・アナスタシスが口をあんぐり開けながら全てを目の当たりにしていた。どうやら今の今まで首を突っ込めずにいたらしい。
バタン、と居住区画の扉が閉ざされた音を、ユフィーリアとグローリアはただ聞くことしか出来なかった。
☆
そんな訳で、壁を塗り替える作業の開始である。
「何で魔法を使っちゃいけねえんだよ、あの野郎。頭おかしいんじゃねえの」
「ユーリぃ、殴られたくないなら手を動かしなぁ」
「悪さの割合で言ったらグローリアだからな。あいつが転送魔法を間違えなければ用務員室に被害を出すだけで済んだんだからな!?」
ペタペタと中庭に面した校舎の壁に、真っ白な塗料を塗りつけながらユフィーリアは叫ぶ。
よく見ると、校舎の壁にはひび割れが目立っていた。これは確かに塗料を重ねて修復した方がいいかもしれない。ただ「魔法を使うな」という命令が納得できないのだが。
こういうことなら魔法を使った方が早いではないか。刷毛を魔法で動かせば高所の作業も余裕である。むしろその方が効率がいいにも関わらず、問題児が『ちゃんと用務員の仕事をしている』というポーズを取らせなければならないというのがおかしい。
頭部を南瓜で覆った美女――アイゼルネが「あらあラ♪」と笑い、
「おねーさんがルージュ先生に従者としてのお作法を聞いている時に、何でそんな面白いことが起きてるのヨ♪」
「見なくてよかったぞ、アイゼ。エロさの欠片もねえから」
「誰のせいで昼間っからシャワーを浴びる羽目になったと思ってんのぉ?」
ユフィーリアが当時の様子を苦笑しながら伝えれば、その隣で刷毛を振るっていたエドワードがジロリと睨みつけてくる。眼差しが痛い。
「それにしても、これを全部塗り直していたら塗料がいくらあっても足りねえぞ」
「ひび割れのところだけでもいいんじゃないのかしラ♪」
「全部を塗り替えるなら本当に魔法を使わないと終わらないよぉ。魔法を使うなって言われてるなら壁のひび割れだけでもいいと思うけどぉ」
校舎の壁を全体的に塗り直すのであれば、それこそ魔法でも使わないと間に合わない。何せこのヴァラール魔法学院の校舎は馬鹿みたいに広いのだ。方向音痴がお散歩に出掛けただけで目的地には辿り着かず、さりとて学生寮や教員寮に戻ることも出来ず、ただただ彷徨い歩く巨大迷路となるのだ。それぐらいに広いという訳である。
そんな阿呆ほど広い校舎の壁を塗り替えるのであれば、何百人単位で人員を投入した上で数日間ほど時間をかけなければ無理である。手塗りでそうなるのだ。それなら魔法を使って効率よくやっちまった方がいい。
ユフィーリアは塗料の缶に刷毛を突っ込み、塗料をたっぷりとすくって壁のひび割れ部分に重ねる。
「はー、塗料は臭えし面倒臭えし。何だよこれ、何の拷問だよ」
「文句を言っていいなら俺ちゃんも言いたいよぉ」
「おねーさんも言いたいワ♪ 何でいきなり壁の塗り直しなんか命じてくるのヨ♪」
「さあな、近々なんか行事でもあるんじゃね?」
エドワードとアイゼルネの言葉にユフィーリアは適当に応じると、何かどこからか楽しげな声が聞こえてきて作業を止める。
「ハルさん、真っ白だから何を描いているのか分からないぞ」
「何かこう、微妙な明るさで分からない!?」
「何か兎っぽい耳は見えたが、まさかぷいぷいか?」
「うん、そう!! 次はステディを描こうかなって思って!!」
壁の根元に座り込み、ショウとハルアが真っ白な塗料を刷毛で塗っていた。だがただ仕事をしている訳ではなく、何かを描いている様子だ。
真っ白な塗料を真っ白な壁に塗りつけても、それは何を描いているのか分からない。ショウの回答はあながち間違いではない。
ユフィーリアは作業を楽しむ未成年組を見やり、
「ショウ坊、ハル。お前ら何してんだ?」
「白い塗料で落書きだ」
「落書き!!」
ショウとハルアは楽しげに笑い、
「でも真っ白だから何を描いたか分からないんだ」
「残念だね!!」
「いや、残念でもねえぞ」
ユフィーリアはニヤリと笑う。
これは面白いことが出来そうだ。そしてユフィーリアは『面白いこと』が何よりも大好きで、今までつまらない作業が面白いものだと判断したら周りが止めてもやり通すほどだ。
ただ、思いついた『面白いこと』をやるには、ちょっとばかり金がかかりそうである。まあ必要経費と思えば安い。
足元に真っ白な塗料の缶を置いたユフィーリアは、
「ちょっと購買部に行ってくる。お前ら、作業を続けておけよ」
「何しに行くのぉ?」
エドワードが投げかけてきた質問に、ユフィーリアは当然と言わんばかりに答えた。
「塗料を買ってくる」
《登場人物》
【ユフィーリア】大工仕事は昔にやりたくて大工に弟子入りをしたり、働いてみたりしていた。ただ知識と経験はあるのだが本人は細かいものを作る方が性に合っている。
【エドワード】日曜大工、割と得意。屋根の雨漏りから壁紙の張り替え、ショウに言わせるとDIYもお手のもの。
【ハルア】エドワードと一緒に作業をする影響で、DIYはある程度可能。大雑把なので適当さが目立つ。
【アイゼルネ】大工仕事に最も向いていない。ユフィーリアと同じくアクセサリー作りが合っている。
【ショウ】最近、エドワードとハルアと一緒に小さな本棚を作った。ユフィーリアの書斎の隅に置かせてもらい、自分で選んだ本を詰め込んでいる。本がいっぱいになっていくのが楽しい。
【グローリア】体力がないので大工仕事に向いていない。手先もそれほど器用ではないので細かい作業も向いていない。建物を作る時は魔法で解決する。醍醐味全部台無し。