第3話【異世界少年と話の聞かない宗教家】
油の柱がぱちぱちと弾けている。
「ふわあ」
「わあ」
店奥に設置された油の柱に、ショウとハルアは揃って目を奪われる。
天井にある喇叭のような形をした穴から黄金色の液体が真っ直ぐ地面へ向かって落ち、床に置かれた金属製の甕か壺のような形の器が受け止める。金色の液体は他の場所に飛び散るようなことは一切なく、不思議なことに真っ直ぐと重力に従って落ちていくだけだ。
まるで天井と床を支える黄金色の柱のようになっているそれに、コック服姿の中年男性が棍棒のようなものを放り入れる。柱の下部に差し込まれた棍棒のような見た目をしたそれは焼きたてのバゲットであり、ぱちぱちと油が弾ける音と小さな気泡がバゲットを覆う。
下部に差し込まれたはずのバゲットだが、時間が経過するに連れて徐々に天井へと上っていく。ぷかぷかと黄金色の液体を揺蕩うバゲットが油の鎧を身に纏い、見ているだけでも涎が出そうだ。
「あれって油なのだろうか、凄いな」
「あんなのユーリが使ってるの見たことないね」
「そうなのか? ユフィーリアなら知ってるかと思ったのだが……」
「お店で扱うような設備は持ってないね。あくまで用務員だから、オレたち」
「そうだった」
碌に仕事をしていないから忘れていたのだが、そういえばショウたちはヴァラール魔法学院の用務員である。学校清掃とか備品の管理とか、そういった雑事を担当するはずの職業なのに普段の行動は遊んでばかりである。ついつい自分が用務員であることを忘れてしまう。
ハルアは「ショウちゃん忘れてやんの」と笑うが、笑っている場合ではないと思う。下手をすれば明日にでもクビを言い渡されてもおかしくないのだが、ユフィーリアたちが気にしている様子は微塵も感じられない。多分、大丈夫なのだろう。
すると、
「揚がったよ」
「はいよ、こっちに」
店頭に立つ恰幅のいい中年女性が、黄金色の柱から引き抜かれたバゲットを中年男性から受け取る。油が滴り落ちる棍棒のようなバゲットはじゅわじゅわと油が染みていて、香ばしい匂いが鼻孔を掠めた。
揚げられたばかりのバゲットをまな板の上に転がすと、中年女性は大きな包丁でそれをザクザクと輪切りにしていく。慣れた手つきであっという間にバゲットを切り終えると、今度は紙製の器にバゲットの半分を包丁で器用に移し替えた。
輪切りにしたばかりのバゲットに、中年女性が陶器製の壺から掬った真っ白いクリームを山のように盛り付ける。躊躇いのない手つきにショウは戸惑いを覚えた。
「はいよ、お待たせ」
そして最後に蜂蜜をたっぷりと白いクリームの上から振りかけて、中年女性はショウに紙製の容器を渡してくる。紙製の容器に盛られた揚げバゲットと山のようなクリームの組み合わせはずっしりと重たく、蜂蜜とクリームの甘やかな香りが食欲を唆る。
これが『フライバゲット』と呼ばれるおやつだ。偶然このイストラの街で見かけて、美味しそうだったのでつい買ってしまった訳である。カリッと揚がったバゲットとクリームの相性が抜群だが、何せ非常にカロリーの高い品物なのでそう簡単に食べられない。
中年女性はハルアにも同じものを手渡すと、
「ええと、あとは宝石糖が乗っている奴かい?」
「うん、そう!!」
「はい、そうです。お願いします」
「はいよ、ちょっと待ってな」
中年女性は店内と併設された厨房に振り返り、役目を終えたからサボろうとしていた中年男性を「あんたァ!!」と叱り飛ばす。中年男性は小さな丸椅子から転がり落ち、悲鳴を上げていた。
「サボってんじゃないよ!! とっとと次を支度しなァ!!」
「わ、分かってるよ、そんなに怒らなくてもいいだろ……」
中年男性は恰幅のいいおばちゃんから怒鳴られ、渋々と唇を尖らせながらも仕事を再開する。焼いてから少し時間が置かれたバゲットを再び黄金色の液体に差し込み、ぷかぷかと天井めがけて浮上していく様を眺めていた。
「お仕事をサボるのが日常なんですか?」
「いやァね、見苦しいところを見せて。まあそれもあるんだけど」
中年女性はバゲットを油で揚げている真っ最中の男性を睨みつけ、
「あのクソ野郎のせいで若い従業員がみんな辞めちまったのさ。親父発言についていけなくてね」
「どんなのなの!?」
「『髪切った?』とか『今日はお洒落だね』とかね、まあ本人は普通に褒めていたんだろうけどさ。最近の若い子はそういうのを嫌がるだろう? 若い従業員がいると調子に乗るのさ」
「ああ……」
ショウは遠い目をしてしまう。
世間的にはそう言ったことを『セクハラ』と呼んでいたものだが、果たしてこの世界にもそのような概念はあるのだろうか。言葉の存在はなくても若い従業員が嫌がるのだから、成立しそうな案件ではある。現場を見ていないので実際のところは不明だが。
とはいえ、旦那である中年男性が他の女性に言い寄っているところを見て、女将の女性は気を揉んでいたところだろう。女性が男性を尻に敷く夫婦像はよくあるものだ。
中年女性はため息を吐いて、
「本当、あいつの代わりが見つかればすぐにでもクビにしてやるのにねぇ。ウチの店、体力仕事だし立ち仕事が多いから」
「あの人と結婚してないんですか!?」
「あんな人間トロールと誰が結婚するんだい!!」
中年女性はショウの言葉に嫌悪感を示す。
何ということだろう、まさかの従業員と雇い主の関係性である。あの見た目で言えば、中年男性は相当な古参と言ってもいい。先輩からのセクハラ発言に耐えかねて辞めていく若い従業員は多かろう。
体力仕事に立ち仕事が主な業務となるならば、女性の手のみでは辛いはずだ。現状のような体制に、盛り付け担当がもう1人か2人ぐらい雇えば店は安定するはずである。ただ、その追加人員が古参の従業員のセクハラに耐えかねて辞めていくので、少なくとも絶対に必要となる男手を確保するまでクビを言い渡すのは無理そうだ。
中年女性は「誰かいないかねぇ」と呟き、
「体力があって、親父発言をしないような男手がねぇ。出来れば身長が高くて筋肉があるのがいいねえ」
「…………」
「…………」
ハルアとショウは互いの顔を見合わせる。
該当する人物に心当たりが、1人だけあった。若い女性には怖がられる見た目をしているが、決して親父発言をしない筋肉紳士が。
欠点があるとするなら、食欲に耐えかねて店の商品を摘み食いする恐れがあるぐらいだが、彼自身は大人なので自制心もあるだろう。若い子に下心ありきで言い寄って退職に追い込むような真似は絶対にないと言い切れる。
ただ、紹介するのも惜しいので「頑張ってね!!」「きっといますよ」とだけ返しておいた。頼れる先輩を取られたくないというのが後輩であるショウとハルアの本音である。
「――あなたは神を信じますか?」
「え?」
「何!?」
不意に意味不明な質問を投げかけられ、ショウとハルアは反射的に振り返った。
背後に立っていたのは、真っ白な祭服を身につけた女性である。銀縁眼鏡の向こうにある青色の瞳には穏やかな光を湛えており、柔和な笑みを浮かべた顔立ちは「優しそう」という印象が頭をよぎる。
彼女の後ろを、同じような真っ白い祭服を着た集団が何かを大声で叫びながら通り過ぎていく。通行人や店の経営者に向けて呼びかけるような仕草を見せる彼らは、何かの宗教団体のようである。
女性はショウとハルアにチラシを差し出し、
「我らが主神、アドニス様は迷える子羊である貴方たちをお導きになってくれるでしょう」
「ショウちゃん、これ遠回しにオレのことを方向音痴だって言ってる?」
「ハルさん、それは違うと思う。そんな高度な煽り文句ではない」
ハルアの見当違いな発言に、ショウはキッパリと否定する。
これは宗教勧誘の常套句である。目論見通り、この女性は宗教団体の1人らしい。
しっかりと「宗教の類は結構です」と言って諦めてくれる勧誘ならまだしも、こう言った勧誘はかなりしつこいと聞いたことがある。意地でも宗教団体の集会所に連れて行こうとしたら最悪だ。
微笑む女性を真っ向から見据えたショウは、
「すみません、宗教などの勧誘はお断りさせていただいております。他をお当たりください」
対する女性の回答は、
「それは貴方が我らが主神であるアドニス様を信じておられないからです。どうか一度、我々の話を聞いてみませんか? そうすれば、きっとアドニス様のお救いを受けることになるでしょう」
おっと、ダメな類の宗教勧誘である。
「あの、困ります」
「そう言わずに」
「宗教は信じていないんです」
「我々の話を聞いていただければ信じてもらえます」
どれほど断っても、女性は全く話を聞いていない。「我々の話を聞いてくれれば信じてくれる」の一点張りである。
こうなるとお断りの方法が非常に面倒臭い。手っ取り早い方法はこのまま走り去るのが1番だが、そうすると追いかけてくる可能性も考えられる。出来ればここで退けておきたいところだ。
すると、
「止めなよ、迷惑だってショウちゃん言ってるでしょ」
「根っからのエリオット教信者のあたしの店の前で他の宗教の勧誘をするんじゃないよ!! 塩撒くよ!!」
ハルアと、フライバゲットの女店主が宗教勧誘の女性を威嚇する。女店主の方がエリオット教の信者であることには驚いたが、世界最大派閥の宗教を信ずる者の前で新興宗教の勧誘は難しいはずだ。
これで女性も勧誘を諦めてくれるだろう。周囲の通行人もどこか迷惑そうに祭服の集団を睨みつけている。居心地の悪さは彼らも感じているに違いない。
それなのに、
「ああ、嘆かわしい。皆様は随分と心が貧しく、余裕がないとお見受けします」
女性は狂気的な笑顔でショウの手を取ると、
「ですがご安心ください。アドニス様はどのような方でも受け入れてくださいます。さあ、集会所はすぐそこにあります。さあ!!」
「あッ」
思い切り手を引かれたことで、ショウの手からフライバゲットが盛られた紙製の器が滑り落ちる。
ひっくり返ったフライバゲットは地面に散らばり、山のように盛られたクリームはショウの着ているメイド服のスカートの裾やフリル付きエプロンを汚した。美味しそうなフライバゲットが無惨な姿に変わってしまった。
ショウが悲鳴を上げるより先に、ハルアとフライバゲット屋の女店主が「あーッ!!」と叫ぶ。
「何すんの!?」
「うちの商品が!!」
「これはこれは大変失礼いたしました。ですがこれはアドニス様の試練です、この苦しみを乗り越えて人は成長するのです」
女性は悪びれることなく言ってのけると、ショウに綺麗な手巾を差し出した。
「お召し物が汚れてしまいましたね。ですがこれもアドニス様の思し召しです、アドニス様を信じようとしない貴方に神が試練をお与えになったのです」
――ぶち、とショウの頭の奥で何かが切れた。
せっかく購入したフライバゲットを台無しにして、ショウの大事なメイド服を汚してもなお謝罪すら寄越さないとは見上げた根性である。いっそ清々しいほどの愚かさである。
世の中には神を信じない人種もいる。ショウの場合はリリアンティアやユフィーリア、グローリアなどの存在を知っているから神の存在はまあまあ信じていると言ってもいいが、ここまでされて「はい、信じます」などとコロッと信じてしまうほど阿呆ではない。
力づくでも信じさせようとする馬鹿には、こうする他はない。
「ひでぶぅッ!!」
ショウは殴った。
ちゃんと自分の拳で、女性の横っ面をぶん殴った。
最近ではエドワードの筋トレの甲斐もあり、さらに色々とぐちゃぐちゃになった怒りの感情が相乗効果を示し、殴られた女性は華麗に3回転ぐらいしてから地面に倒れ込んだ。殴られた箇所が赤くなっていた。
殴られた女性は、呆然とショウを見上げている。何が起きたのか分からないと言わんばかりの態度である。いきなり殴られれば、そう思いたくもなる。
冷ややかな視線で女性を見下ろしたショウは、一言、平坦な声音で告げた。
「神は死んだ」
《登場人物》
【ショウ】神様はいないと信じているが、神様のように優しい人は信じている。今なら元の世界の宗教勧誘も目潰しでどうにか出来る自信がある。
【ハルア】リリアンティアのような人がいるので神様は信じているものの、それはそれとして宗教勧誘は苦手。話を聞いてくれない相手には変なことをしろと学んだので、四足歩行で歩き始めたら逃げてくれた。