第2話【問題用務員とビストロ・マリーナ】
目の前に見えてきたのは、水の中に沈む階段である。
「いつ来ても、ここだけは足を踏み入れるのに勇気がいるな……」
「お水の中に沈んでるからね!! しょうがないね!!」
水の中に沈む階段を前に蹈鞴を踏むショウへ、ハルアが先輩として「大丈夫だよ、何も怖くないよ!!」と勇気づける。
新入生は間違いなく、この先へ進むことを躊躇うだろう。水の中に沈んだ階段を進むなんて「溺れて死ね」と言っているようなものだ。地下へ繋がる階段の入り口ギリギリまで水で満たされており、波のせいで僅かに階段の周りが濡れているように見える。
貝殻や海藻などで飾り付けされた岩のアーチは海の世界を象徴するのに相応しい外観だが、問題は水の中に沈む階段の恐怖と戦うことである。この入り口に慣れないと、その先にある人魚が経営する店には辿り着かないのだ。
ユフィーリアはショウに向けて手を差し出すと、
「大丈夫だ、ショウ坊。手を握っててやるから」
「ああ……」
ショウはユフィーリアが差し出す手を握ってくる。割と力が強めなのは、この先に進む恐怖へ彼なりに戦っているからか。
「じゃあ反対のお手手はオレが握るね!!」
「ありがとう、ハルさん」
反対側の手を信頼できる先輩用務員に強く握られ、ショウは安堵の表情を見せた。
ショウの手を引き、ユフィーリアは水の中に沈んだ階段の1段目に足を乗せる。
不思議と水に濡れたような感覚はない。水の中だというのに、ちゃんと重力があるのだ。そのまま順調に2段目、3段目と水の中の階段を降りていく。ショウもハルアも、そしてエドワードとアイゼルネも先陣を切るユフィーリアを追いかけるようにして水の中に沈む階段を降りる。
そして完全に頭まで水に沈むのだが、
「むッ」
「ショウ坊、息できるから呼吸を止めるな」
「ぷはッ」
水に潜るということで息を止めていたショウが、呼吸を再開させる。
頭まで完全に水の中へ沈んだというのに、不思議と息は出来る。それどころか水特有の揺らぎだけは視界で認識できるのに、水の冷たさや身体が濡れた感覚だけはまるでない。さながらユフィーリアたち問題児の存在が水に拒否されているかのようだ。
壁から突き出た貝殻の形をした洋燈が、ぼんやりと階段の先を示している。その先で待っていたのは天鵞絨が張られた豪奢な扉だ。薄らと甲高い女性の声が聞こえてくるのは、お昼休みで忙しい時間が到来するから開店準備を急いでいるのだ。
すると、
「何をぼんやりしているんだい」
「うわぬるぬるする」
「ご愛嬌さね、許しな」
上から声が降ってきたかと思えば、ユフィーリアの頬を蛸の足が撫でる。ぬるりとした感覚に嫌な表情を見せると、巨大な蛸がゆったりと落ちてきた。
よく見れば、蛸の足を持つ人魚である。濃紫のドレスの裾から伸びるのは巨大な蛸の足で、器用に壁や階段に吸盤を張り付かせて体勢を維持している。水の中に広がる真珠色の髪は幻想的な煌めきを見せ、ユフィーリアを真っ直ぐに見下ろす深い青色の瞳は暗闇の中で妖しく光る。真っ赤な口紅が塗られた唇で細長い煙管を咥え、水の中に甘やかな紫煙が揺蕩う。
蛸足の人魚を前に、ユフィーリアとハルアによって両手を握られるショウが驚いたような表情を見せて言う。
「蛸さんだ」
「そうさね、あたしは蛸足の人魚さ」
8本の蛸足を自在に操りながら、レディ・マリンは口の端を吊り上げて笑う。
「随分といい反応を見せてくれるじゃないかい」
「蛸の酢の物って美味しいんですよね」
「あたしを食材として見ていたのかい!?」
ショウの一言に、レディ・マリンの方が驚いていた。人魚をまさかの食材扱いである。さすが異世界出身、神経の図太さは目を見張るものがある。
「まあいいさね。この先が店だよ」
「やたら騒がしいけど、まだ準備中か?」
「…………」
ユフィーリアがそう問えば、レディ・マリンは騒がしい声が聞こえてくる扉に視線をやる。
扉の向こう側は女性の甲高い声がいくつも飛び交っており、中には従業員を叱責するような言葉まで聞こえてくる。「そこ、掃除してない!!」とか「料理の仕込みはまだ?」などの開店準備がまだ終わっていないと察知できる内容だ。
レディ・マリンは不機嫌そうに細長い煙管を吹かせ、
「ちょっと待ちな」
そう言い残し、彼女だけ扉の向こうに消えていく。
「いつまで開店準備をしているつもりだい、とっとと支度をし」
「すみません、店長!!」
「あんたらの方が早く泳げるってのに、何であたしよりもグズで鈍間なんだい。従業員じゃなくて食器として、あんたらの裸に食事を盛り付けて客に提供しちまうよ」
「ごめんなさいすぐに準備しますので!!」
レディ・マリンの帰還によってますます騒々しくなる様子を扉の向こうから聞いていた問題児は、
「さすがに人魚の女体盛りが出てきたらまずくねえか?」
「こう言うのって何だっけぇ、公序良俗に反するって言うんだっけぇ?」
「アイゼの前の職場でありそう!!」
「おねーさんのところ、さすがに女体盛りはやらなかったわヨ♪」
「その口振りからすると、他の店ではやっていたのでは……?」
とりあえず、逃げたらあとが怖いので大人しく待つことにした問題児だった。
☆
しばらくして、騒ぎが収まるとレディ・マリンが扉から顔を覗かせる。
「待たせたね」
「本当だよ、エドの腹から地響きのような音が聞こえ始めたから店を変えようかと話し合っていたところだぞ」
「そうしたらあんたを人魚にしてウチで働かせるよ」
「止めろ、まだアタシは人間の足のままでいたい」
レディ・マリンは「冗談だよ」と笑うが、声の調子はどこか本気の様子だった。店を変えようと考えた途端に人間の足を奪われそうである。
導かれるまま、ユフィーリアたち問題児はレディ・マリンが顔を覗かせる扉の先に足を踏み入れた。
一言で表すならば『絢爛豪華』だろうか。高い天井にはいくつもの照明器具が煌めいて店内を明るく照らし、壁に飾られた絵画や調度品はどれも一目で高価だと分かるものばかりだ。店内に等間隔で並べられた長椅子の座席は高級感溢れる見た目で、その間や上空を人魚が優雅に泳ぎながら巡る。
店の奥にはバーカウンターや舞台が設置され、演奏をする為の楽器類も店の隅に準備された状態で置かれている。舞台には緞帳が下ろされており、夜になれば人魚があの舞台で綺麗な歌声を客に披露するのだ。
「さあ、今日はあたしが呼び立てたんだ。何でも好きなものを頼むといいさね」
「何でもって言われてもなァ……」
レディ・マリンに促されてふかふかな長椅子に腰掛けたユフィーリアは、人魚の従業員が差し出してきたメニューに視線を走らせる。
革表紙が特徴の立派なメニュー冊子に記載された料理の数々は、どれも高級感のあるものばかりである。学生価格ということもあって見た目の割にはお安く感じるのだが、それでも昼食に困る苦学生からすれば高すぎると言ってもいい。カフェ・ド・アンジュに比べると値段は1.5倍はある。
ユフィーリアは静かにメニューを閉じると、
「どれも高えよ」
「好きなものを頼めって言ったろう、当然だけどあたしの奢りさね」
「お前の奢りィ?」
眉根を寄せるユフィーリアは、
「何を企んでやがる」
「まあ、下心があるのは事実さね」
レディ・マリンが蛸足で示した相手は、高い料理が並ぶメニューを眺めていたショウである。
「あんた、カフェ・ド・アンジュの新商品開発に関わっているんだろう? ウチにも協力しちゃくれないかい」
「俺ですか?」
ショウは首を傾げると、
「大した力にはなれないかと思いますが」
「あんたは異世界出身って聞いたさね。異世界の料理で何か再現できそうなものはないのかい?」
「あるにはありますが……」
少しだけ考える素振りを見せたショウは、
「では飲食代に加え、以前ユフィーリアたちが飲み食いした代金の帳消しでお引き受けします」
「随分と大きな交渉に出たねェ」
「俺が有する知恵で旦那様を救えるのであれば、交渉だって大きく出ます」
清々しい笑みでレディ・マリンにも臆さず交渉へ臨むショウ。
ユフィーリアは感動した。
最愛の嫁は本当に聡明である。レディ・マリンに借りを作るとまずいことになるのでどうしようかと悩んでいたところ、素晴らしい提案をしてくれた。これで人間の足を失わないで済む。
レディ・マリンはポンと手を叩くと、
「それなら契約をしようじゃないかい」
そう言って、ショウの目の前に突き出したのは古びた羊皮紙である。
羊皮紙にはショウが商品開発に協力する旨の内容が回りくどい文章で並んでおり、よく確認することさえ億劫になってくる。ご丁寧にも魚の骨を使用したペンまで用意して、レディ・マリンは「さあ」と促してきた。
ショウは署名欄の部分に視線を落とし、
「これは俺の名前でいいんですか?」
「そうさね。ちゃんと、本当の名前で書くんだよ」
「ちょっと待て」
さすがにユフィーリアは待ったをかけた。
いくら最愛の嫁だとしても、レディ・マリンが出してきたのは魔法による契約書だ。破ればどうなるか分かったものではない。
レディ・マリンのことだ、契約者本人が有利なように見せかけて実は不利な内容にしているに違いない。きっと永遠に商品開発へ協力させられるだろう。
だがショウは「大丈夫だ」と言い、
「いざとなったら父さんに冥府へ連行してお説教フェスティバルにするから」
「いやそうだけど」
「それに、貴女の絶死の魔眼もある。頼りにさせてもらうぞ」
「むぅ……」
そう返されてしまい、ユフィーリアはそれ以上何も言えなくなってしまった。まあ確かに、いざとなれば魔眼で契約書の縛りを終焉させてしまえばいい。
ショウはペンを手に取り、慣れたように自分の名前を契約書に書き込んでしまった。
契約書にショウの名前が書かれると、レディ・マリンは契約書を回収する。名前が署名欄に並んでいることを確認してニンマリと笑うと、彼女は泳いできた人魚の従業員を呼びつけた。
「このお客に料理を出してやりな」
「は、はいッ」
人魚の従業員は極彩色の尾鰭を揺らして、厨房に向かって泳いでいった。レディ・マリンの言いつけを守り、ユフィーリアたちをもてなす為の料理の準備を始めたようである。
「さあ、魅力的な提案を聞かせてもらおうじゃないかい」
「ではまず最初の提案ですが」
人魚の従業員が運んできたお冷をちびちびと飲みつつ、ショウは最初の提案をする。
「店名を変えた方がいいですね」
「店名を?」
「そもそも『ビストロ』の意味は小カフェや居酒屋などを示しますので、店内の外観が合っていません。設備もお金がかかっていますし、料理の内容も値段が高めなので居酒屋の意味を持たせるのはあまりに釣り合わないかと」
ビストロの意味が居酒屋であるならば、この外観はあまりにも不釣り合いである。酒を提供するが大衆酒場のような雑多な感じはしないので、店名を変えるのはいいかもしれない。
「それなら何て変えたらいいんだい」
「ラウンジの名前を使った方が雰囲気に合いますね」
「ラウンジか、いいじゃないかい。盲点だったよ」
レディ・マリンはショウの提案を羊皮紙に書き込むと、
「さあ、その調子で次の提案を」
「お腹が空きました」
コン、とショウは硝子杯を机に置く。
いつのまに飲み干したのか、彼の硝子杯は空っぽだった。ユフィーリアたちの硝子杯は手付かずのままだが、それほど喉が渇いていたのだろうか。
レディ・マリンは「ちょいとお待ちよ」と言い、
「今は準備している最中さね。我慢をし」
「お腹が空きました」
なおも同じ主張を掲げるショウは、
「水1杯で提案できるのはここまでですよ」
「なるほど、交渉が上手いじゃないかい」
レディ・マリンはビストロ・マリーナの店内を泳いでいた人魚の従業員を呼び止めると、
「料理の準備を急がせな。最優先だよ」
「か、かしこまりましたぁ!!」
慌てた様子で泳ぎ去る人魚を笑顔で見送るショウに、問題児たちはほんのちょっぴりだけ戦慄するのだった。
《登場人物》
【ユフィーリア】ビストロ・マリーナでは冷製パスタが好き。基本的に交渉の時には自分が面白いことしかやらない主義なので、どれほどユフィーリアを面白いと思わせるかが重要。
【エドワード】ビストロ・マリーナでは海底溶岩焼きピザが好き。交渉ごとではユフィーリアの指示に従うが、大抵は肉料理や食事に釣られて交渉に応じる。
【ハルア】ビストロ・マリーナでもどこでもオムライスが好き。交渉とか分からないので頭のいい人に任せがち、でも仲のいい人には頼まれたら応じる。
【アイゼルネ】ビストロ・マリーナではサラダが好き。魚卵はアレルギー持ちなので気をつけている。交渉ごとはユフィーリアに任せがちだが、主に金額によって応じる。
【ショウ】ビストロ・マリーナではスイーツが好き。特にパフェが好き。交渉ごとはユフィーリアの指示に従いがちだが、自分で交渉する場合は持ち前の頭脳を使って応じる。どれほど旦那様に有利な条件に持ち込めるかが重要。
【レディ・マリン】蛸足の人魚。ビストロ・マリーナの経営をする敏腕経営者の女性。得意な魔法は契約魔法。