第5話【問題用務員と人魚の呪い】
棺が安置されている広間の扉を開けると、強烈な磯臭さに襲われた。
「おげッ」
「びょむッ」
「ぼえッ!!」
「♪」
「ああ、アイゼさんが膝をついてしまった……」
呻き声を発したユフィーリアは、思わず扉を閉じてしまう。
ほんの僅かに扉を開いただけなのに、隙間から強烈な磯臭さが漂ってきたのだ。人並み程度の嗅覚しか持たないユフィーリアでさえ悶絶するのだから、嗅覚が人並み以上に優れているエドワードの被害は尋常ではない。実際、口元を手で押さえて素早く広間の扉から離れていた。
ハルアは今まで臭さを我慢していた影響か、ついにその場で三点倒立をするという奇行に及んでしまった。白目を剥きながら三点倒立をして奇声を発し始めてしまう彼の側では、アイゼルネが力なくその場に座り込んでしまっていた。もう誰も彼が被害を受けている。
座り込んでしまったアイゼルネを支えるショウは、
「ユフィーリア、もう限界だ。どうにかならないか?」
「魔眼で嗅覚の機能を停止させる。もうダメだ、耐えられねえ」
ユフィーリアは雪の結晶が刻まれた煙管を一振りし、銀製の鋏に切り替える。2枚の刃が雪の結晶の形をした螺子で止められた、一点の曇りもない銀色の鋏が手の中に出現する。
鋏を構えて『絶死の魔眼』を起動する。視界を色とりどりの糸が埋め尽くしていくが、魔眼の精度を上昇させて見える糸を限定していくと桃色の糸だけが残った。
その桃色の糸を鋏で断ち切ると、簡単にぷつんと切れるが糸そのものは消えずに視界の端を漂う。同時に、今まで感じていた磯臭さが嘘のように消え去った。
「はあ、ようやくまともに息が出来るような気がする」
ユフィーリアが息を吐くと、
「ユーリぃ、こっちも早くしてよぉ!!」
「臭いよ!!」
「耐えられないワ♪」
「これ以上はダメだ」
「おっと」
磯臭さに耐えられないと訴えてくるエドワード、ハルア、アイゼルネ、ショウの嗅覚も同じように断ち切ることで激臭から解放してやる。
それにしても、本当に酷い磯臭さだった。いいや、磯臭さの中に腐った魚のような激臭も混ざっていたような気がする。とにかくあまりにも酷すぎる臭いなのだ。
海沿いにある街特有の臭いがこんな磯臭いのならば、ユフィーリアは二度と海には近づかない。以前、ニヴァリカ王国を訪れた際はここまで酷い臭いはしていなかった気がするのだが、あの時から海が汚れてしまっているのだろうか。
ようやく磯臭さから解放されたエドワードは、
「ユーリぃ、最初からやってよぉ」
「もしかしたら危険な臭いかもしれねえだろ。今は感じなくなってるけど、今でも磯臭さを嗅いでいるのは確かだからな」
嗅覚を一時的に機能停止することで危険さを嗅ぎ分けることが出来なくなるのだが、もう磯臭さに耐えられなかった。こればかりは仕方がないので細心の注意を払うしかない。
いざとなったら頼りになるのはハルアの第六感である。彼が「嫌な予感がする」と言ったら防衛魔法を展開して結界の中に閉じこもるしかない。
その時だ。
「ユフィーリア、ユフィーリアユフィーリアユフィーリアユフィーリアユフィーリアユフィーリアユフィーリア!!」
「ぎゃあ!? 何、何だぁ!?」
背後からいきなり何かに飛びつかれて、ユフィーリアは思わず叫んでしまった。
相手は黒い髪を振り乱し、喪服を着た誰かだった。その後ろには赤い毛玉のような妖怪が続き、袴を着た白い狐が泡を吹く幼い修道女を抱えていた。何の百鬼夜行だろうか。
葬儀行列につられてやってきた妖怪ならば、今ここで退治する必要がある。嗅覚をなくして早速の危機的状況だ、五感の1つを機能停止するだけでやはり危険は高まるのだ。
ユフィーリアが銀製の鋏を握りしめると、
「待ってユフィーリア、僕だよ!!」
「ッ、グローリアか?」
しがみついてくる黒い髪を振り乱した何者かに鋏を突き刺そうとしたところで、相手は髪を掻き上げて顔を見せてくる。
夜の闇に紛れる髪の毛の下から現れたのは、見慣れた爽やかな風貌と色鮮やかな紫色の瞳。ヴァラール魔法学院の学院長にして七魔法王が第一席【世界創生】のグローリア・イーストエンドだった。
ユフィーリアは鋏を引っ込めると、
「じゃあ、まさかその後ろの連中は」
「臭えんスよぉ!!」
「さすがにこの磯臭さは許容できかねませんの!!」
「このままだと死んでしまうのじゃあ!! りりあ殿が!!」
「ぶくぶくぶく……」
目論見通り、葬儀行列に参加予定の七魔法王の面々だった。彼らもまた王宮に蔓延る磯臭さに耐えられなかったらしく、悲鳴混じりの声でユフィーリアに助けを求めてくる。
特に八雲夕凪が抱きかかえる第六席【世界治癒】のリリアンティア・ブリッツオールは、この磯臭いニライカナイ城に耐えられず泡を吹いていた。彼女の鼻が阿呆になるのも時間の問題である。
ユフィーリアは慌てて鋏を持ち直して、
「お前ら整列ッ!! 並べ並べ順番にやってやるから並べ!!」
こんな状態の彼らを見て爆笑できるような精神状態ではなく、ユフィーリアは同じように嗅覚を一時的に機能停止させて磯臭さから解放してやるのだった。
☆
「助かったよ、ユフィーリア。この磯臭さには耐えられなかったんだ」
嗅覚を一時的に制限されたことで磯臭さから解放され、グローリアは安堵したような表情で言う。
泡を吹いていたリリアンティアも、アイゼルネが入れてくれた冷たいお茶をちびちびと啜って心を落ち着けさせていた。お茶を飲める程度には回復した様子でよかった。
いくら魔法関連で突出した才能を持っている七魔法王でも、さすがにこの磯臭さの前では無力だった。磯臭さを封じなければ全員仲良く白目を剥きながら泡を吹いていたかもしれない。無様な格好を晒さなかったのは、七魔法王としての意地でもあったのだろうか。
ユフィーリアは雪の結晶が刻まれた煙管を咥え、
「広間からめちゃくちゃ磯臭さが漂ってきたんだけど、ニヴァリカ王国は国王陛下の棺に腐った魚でも詰め込む習慣でもあったか?」
「ああ、ユフィーリアはあんまり経験がないんスね」
「経験?」
首を傾げるユフィーリアに、スカイが「呪いッスよ」と簡単に答える。
「王妃様が人魚だったでしょ、オセアーノ王を一緒に海へ連れて行こうと呪いをかけてるんスよ」
「じゃあ呪いの影響で磯臭いってのか?」
「俗に言う呪臭ッスよ」
スカイの言葉に、ユフィーリアは納得したように頷く。
呪臭とは呪った際に確認できる悪臭のことで、呪いの強さが増すほど臭いは酷いものになっていくのだ。これは最近の研究結果で判明した内容であり、比較的新しい情報だ。ユフィーリアも知識だけはあったが実際に体験したのは初めてのことである。
何せこの呪臭は嗅覚の優れたごく少数の人物にしか感知できないものなので、研究の結果が出なければ冗談か何かだと判断されがちである。ただ、ここまで強烈な呪臭は滅多にないだろうが。
八雲夕凪は首を横に振ると、
「この類の呪いは儂でも解呪できんわい」
「お前が肉壁以外に使い道なんてあったか?」
「ゆり殿、酷いのじゃあ!!」
ユフィーリアに辛辣な言葉を浴びせられ、八雲夕凪は「儂とて呪いとかの専門職なのじゃ……」としょんぼりと肩を落とす。
たとえそうだったとしてもこの白い狐にだけは頼らないし、ユフィーリアなら魔眼の能力でどうにか出来るので問題はない。八雲夕凪を頼ることになるのであれば、妻の樟葉を頼ることを考える。
グローリアは広間を一瞥し、
「まあ、何にせよ厄介なことだとは思うけどね。このままだとこの国は海に沈むんじゃないのかな?」
「人魚の呪いって奴!?」
「そうだよ、人魚の呪い。人魚の種族は執着心が強いから、呪われたら海に引っ張り込まれるか誘引されるよ」
広間の扉に背を向けたグローリアは、
「あとは君たちだけだよ。余計なことをしないで、ちゃんと挨拶してきなよね」
「分かってるっての」
磯臭さに耐えて挨拶を済ませたグローリアたちは、用事は済んだとばかりにその場から立ち去る。嗅覚を一時的に制限されていても、この磯臭さが充満する部屋の前には留まりたくないのだろう。
取り残されたユフィーリアたち問題児は、オセアーノ王の棺が安置された広間に視線をやる。
今は感じなくなっているものの、この扉を開いた先は強烈な磯臭さで満ち満ちているのだ。服に臭いが移ったらどうしようという考えが脳裏をよぎってしまうのだが、第七席【世界終焉】として行かなければならない。
覚悟を決めたユフィーリアは、広間の扉を押し開けた。
「わあ……」
「凄い綺麗な場所!!」
扉の向こうに広がっていたのは、天井の高い広々とした部屋だった。
立派な大理石の柱が高い天井を支えており、天井の隅から隅まで海の世界の油絵が描かれている。色とりどりの魚が泳ぎ、人魚が笑い、貝殻で作られた王宮が鎮座する見事な絵画だ。硝子絵図も海面に向けて手を伸ばす人魚を象っており、広い部屋は青系の光で満たされていた。
問題の棺は、部屋の奥に設けられた祭壇に安置されている。
群青の絨毯がユフィーリアたちを祭壇へ導くかのように敷かれており、色とりどりの花束が絨毯の脇に設置されている。中にはあの強烈な磯臭さを放つ『海の百合』も飾られていたが、まさかここで感じた磯臭さはあの花によるものだろうか。
広間には葬儀を執り行う冥府関係者どころか、親族さえいない。棺の中で永遠に目覚めない国王陛下は、悲しいことに1人きりで放置されていた。
蓋が開いた棺の中を覗き込むと、
「この人がオセアーノ王なんだねぇ」
「お爺ちゃんだね!!」
「素敵な紳士さんだワ♪」
「今にも起き上がりそうなほど安らかな寝顔だな」
4人がそれぞれの感想を述べる。
棺の中に横たわっていたのは、真っ白な死装束を身につけた老人である。真っ白な髪の毛に真っ白な髭、顔中には年齢を感じさせる皺が刻み込まれている。節くれだった指先は胸の前で組まれ、苦しさも何もない安らかな表情で眠っていた。
この老人こそ、国民から愛されたオセアーノ王である。最後に見た時から随分と老け込んだ気がするのだが、愛する妻のところに逝けて満足だろう。
白い百合の花で満たされた棺の中に、ユフィーリアはあらかじめ用意しておいた黒い百合の花を置く。
「冥府で奥さんと幸せにな」
そう告げて、ふと棺から顔を上げた。
「――――――」
目の前に、いつのまにか老人が立っていた。
白い髪に白い髭、年齢を感じさせる顔中の皺。どこかで見たことのある人物だと思えば、棺の中で今まさに眠っているオセアーノ王である。
いやでもおかしい。棺には同じ顔の人物が眠っているのに、何故ユフィーリアの目の前にオセアーノ王が立っているのか。
「ぎゃああああああああああ!?!!」
「お化けえええええええええ!!!!」
「化けて出たあああああああ!!!!」
「♪」
「ああ、アイゼさんが動かなくなってしまった……」
化けて出てきたオセアーノ王に対して悲鳴を上げる問題児に、彼がやったのは簡単な動作のみ。
「…………」
何も言わず、ただ真っ直ぐに硝子絵図を指で示した。
《登場人物》
【ユフィーリア】嗅覚は人並みなので呪いの臭いは感じないのだが、絶死の魔眼のおかげで呪いは可視化できる。ただ呪いの糸はあまりに複雑に絡みすぎている場合があるので切れないことがある。
【エドワード】嗅覚が優れているのでたまに不思議な匂いがするなと感じていた。あれが呪いの臭いとは気づいていない。たまにショウから感じ取る匂いと同じかな程度。
【ハルア】嗅覚は人並み程度なのだが第六感が優れているので呪いは回避しやすい。嫌な予感がすると言ったら嫌なことが起こる。
【アイゼルネ】嗅覚は人並み程度なのだが、呪いに関しては意外と明るい。娼婦時代に呪術で客を取っていた娼婦もいたので、その知識によるもの。
【ショウ】自分が知らず知らずのうちに呪いを振り撒いているとは思わない女装メイド少年。主にユフィーリアが関わると無意識で呪っているらしい。
【グローリア】呪いの臭いに関して研究をしていたことがある。まさか呪いにも臭いがあるなんてね。
【スカイ】グローリアの論文で呪臭についての知識はあれど、実際に体験したのは今回がお初。磯臭いなんて聞いてない。
【ルージュ】普段からヘドロみたいな臭いの紅茶を飲んでいる割には磯臭さは耐えられないという都合のいい鼻をお持ちの魔女。多分、呪いのせい。
【八雲夕凪】豊穣神として祀られているので呪いの解除にはあまり強くない。強いのは奥さんの樟葉。
【リリアンティア】あまりの磯臭さに泡を吹いていた。海とは無縁な生活を送っていたが故である。




