第6話【問題用務員と誘惑作戦】
その犬は唐突に現れた。
「わんわん、わんッ」(こんにちは、キャンディーちゃん。今日も遊びに来ていたんだ)
その吠え声を聞いたキャンディーちゃんは、尻尾をぶおんぶおんと勢いよく振り回しながら視線を足元に投げる。
足元にいたのは、クリーム色をしたチワワである。ふさふさの長い毛が特徴的で、つぶらな瞳でキャンディーちゃんを見据えている。ニコッとした笑顔はキャンディーちゃんだけではなく、全ての人間を陥落させることが出来るだろう。魔性の男ではなく、魔性の犬だ。
キャンディーちゃんの嬉しそうな態度から判断して、彼女の恋のお相手はこのチワワということか。なるほど、明らかに体格差がありすぎる。キャンディーちゃんは見上げるほど巨大な身体のケルベロス、お相手は簡単に踏み潰してしまいそうなチワワだと不釣り合いだ。
チワワはユフィーリアと足元に控えるエドワードとアイゼルネにも視線をやり、
「わんわんッ」(お友達ですか? 初めまして)
挨拶をしてくるとは、なかなか躾の行き届いた犬である。
「わんッ」(どうもねぇ)
「わんわん」(初めましテ♪)
エドワードとアイゼルネも当たり障りのない挨拶を返す。
「このチワワがキャンディーちゃんの想い犬か?」
「そうですの」
ルージュは「はあ……」と分かりやすくため息を吐いた。
飼い主からすれば愛犬に好きな犬が出来れば応援してやりたい気持ちはあるだろうが、体格差があまりにもありすぎるので複雑なところなのだろう。頭を抱えたくなるのも仕方がない。
可哀想だけど、誰もが不幸せにならない為には失恋させるのが手っ取り早い。傷は浅い方がいいのだ。
ユフィーリアはアイゼルネの頭を撫で、
「アイゼ、頼むぞ」
「わんッ」(任せてほしいワ♪)
アイゼルネは緑色の尻尾を振って元気よく応じる。
相手が雄犬である以上、雌犬には敏感なはずだ。かつて娼婦として数々の男を陥落させてきたアイゼルネにとって、雄犬を陥落させることなど容易い。これでキャンディーちゃんから引き離せば任務完了である。
ついにドッグランへ足を踏み入れたアイゼルネは、キャンディーちゃんの側にお座りする。それから前足でキャンディーちゃんの足を引っ掻くと、
「わんわん」(素敵な子ネ♪)
「くうーん」(虐められていた時に助けてくれたの)
「わんッ」(とても勇敢だワ♪)
アイゼルネはチワワに笑いかけ、
「わんわんッ」(おねーさん、もっとアナタのことを知りたいワ♪ お話を聞かせてくれるかしラ♪)
犬の言葉が分からない一般人だったらケルベロス、チワワ、希少種のフォレストハウンドが仲良くしている時点で我が目を疑うだろう。犬種が雑多にも程がある。会話の内容も「今日は天気がいいんだワン」的なものでしかないと錯覚するはずだ。
残念ながら、彼らの会話は昼ドラも裸足で逃げ出すドロドロした雰囲気のあるものだ。側で聞いているユフィーリアとエドワードも、アイゼルネの巧みな話術に戦慄していた。彼女が味方で心の底からよかったと実感する。
ルージュは「ふむ」と何やら玄人顔で、
「アイゼルネさん、なかなかおやりになりますのね」
「張り合うんじゃねえよ、ドポンコツ」
「どの辺りがドポンコツですの。わたくしほど魅力に溢れる魔女は早々いないんですの」
「それはまともに紅茶を入れられるようになってから言え。この前の創設者会議でグローリアを病院送りにしたくせに」
授業準備で疲れていたのか、創設者会議の際にルージュが出した紅茶を飲んで保健室経由で病院に送り込まれた可哀想な学院長の姿を思い出すユフィーリア。顔は真っ白、ガタガタと痙攣は止まらず、口から泡を噴き出すという始末である。あの時の光景は今でも鮮明に記憶している。
議長である学院長が病院送りになったことで創設者会議はお開き、八雲夕凪とリリアンティアがグローリアのお見舞いに急行した。ユフィーリアはキクガ、副学院長のスカイと一緒にそこのドポンコツ真っ赤っか魔女を袋叩きにしていた。
ルージュは「お疲れだったんじゃないですの」としれっとそんなことを言い、
「それより、一体どうやってキャンディーちゃんからあのチワワを引き剥がしてくれるんですの」
「まあ、アイゼに任せておけばいいだろ。何人の男を落としてきたと思ってんだ」
「そういえば、アイゼルネさんは人気の娼婦さんでしたの。男を陥落させる手練手管は我々よりも上ですの」
「お前も学んだらどうだ」
「ええ、本当に。あの魅了魔法は様々な場面で使えそうですの、しかも呪文を唱える気配もない」
「魅了魔法じゃねえよ、アイゼの話術だよ」
ユフィーリアとルージュが期待を寄せていたアイゼルネだが、ここで思わぬ邪魔が入る。
「うううう」(お姉さん、彼を横取りするつもりなの?)
キャンディーちゃんが牙を剥き出しにしてアイゼルネに嫉妬心を向ける。
さすが恋する乙女だ。想い人ならぬ想い犬を取られない為に他の雌犬を警戒するのはいいことだが、このままでは作戦に支障が出る。キャンディーちゃんとチワワを引き離す作戦が遂行できない。
アイゼルネはキャンディーちゃんに臆した様子もなく言い返す。
「わんわん、わん」(そんなことないワ♪ おねーさんは純粋に彼のお話が聞きたいだけヨ♪)
「ばうッ」(だったら邪魔しないで!!)
キャンディーちゃんが嫉妬心を剥き出しにして吠えてくる。
さすがにキャンディーちゃんの嫉妬心が滲み出てきた低い鳴き声に、アイゼルネもすごすごと撤退するしかなかった。尻尾をへにょりと垂れ落としてドッグランから出てきたので、ユフィーリアは膝を折ってアイゼルネを迎え入れてやる。
横取りする余地もなく追い払われてしまったアイゼルネは、ユフィーリアの手や顔に頭を擦り付けて「ひゅーん……」と悲しそうな声を出す。上手くいくとは思っていたが、思った以上にケルベロスは独占欲が強い様子である。
ユフィーリアはアイゼルネのふわふわな緑色の毛皮を撫でてやり、
「エド、あのチワワを食い殺してこい」
「わん、わん」(チワワは小さいから食い出がないけどぉ、丸呑みすれば食べ応えはあるかねぇ)
「何してるんですの、止めるんですの」
ルージュがチワワの誘惑ではなくチワワの殺害計画を企むユフィーリアを制止を呼びかけ、
「お相手にも飼い主がいらっしゃいますの。乱暴な真似は止すんですの」
「じゃあアイゼに向かって吠えたキャンディーちゃんはボコってもいいって? エド、よかったな。ケルベロスの肉なんてまたとない珍味が味わえるぞ」
「わんわん」(本当にぃ? 興味あるねぇ)
「止めるんですの、キャンディーちゃんに何をするつもりなんですの!!」
今度はアイゼルネに向かって嫉妬心全開で吠えたキャンディーちゃんに標的を移行させたユフィーリアに、ルージュの手刀が振り落とされる。割と本気の威力だったので痛かった。
何が悪いと言うのだろうか。チワワやキャンディーちゃんを食い殺すのがダメなら、もう未成年組をけしかけるしか方法はない。今はまだドッグランの犬たちを追いかけ回している最中だが、キャンディーちゃんの悪行に気付けばどうなるか分からない。
しかし、ここにもキャンディーちゃんを叱りつける人物がいた。
「わんッ」(こら、キャンディーちゃん)
「くうーん……」(ハロルドさん……)
「わんわん、きゃんッ」(あの子はキャンディーちゃんの友達だろう、吠えちゃダメだ)
キャンディーちゃんからハロルドと呼ばれていたチワワは、鉄柵越しからアイゼルネに謝罪の言葉を投げかける。
「わんわん」(すみませんでした、せっかく仲良くなれるいい機会だったのに)
「ッせえなクソチワワ野郎が、全体的にお前が悪いんだよ!!」
「ううううう」(謝って済む話じゃねえンだよケツの青いクソガキがよぉ!!)
「犬相手に何を怒っていらっしゃるんですの」
ルージュから至極真っ当なツッコミを受けるユフィーリアだが、アイゼルネに被害が及んでいるので相手が犬だろうと知ったこっちゃないのだ。問題児の結束は固いのである。
動物相手だから穏便に済ませてやろうと控えめな問題行動に収めてやるつもりだったが、身内に被害が及んだ以上は手加減などしていられない。ユフィーリアも本気で作戦に挑ませてもらおうではないか。
ユフィーリアは指笛を吹くと、
「ハル、ショウ坊!! 戻ってこい!!」
「きゃん!!」(あいあい!!)
「わん!!」(分かった!!)
それまでキャンディーちゃんに対する悪口を囁く性格の悪い犬たちを追いかけ回していたショウとハルアを呼び戻したユフィーリアは、次いで懐から試験管を取り出す。
栓がされた試験管の中身は薄青の液体が揺れており、薄らと発光している。この時の為に用意していた魔法薬で、ユフィーリアが最終手段として取っておいた代物だ。
試験管の栓を外したユフィーリアは、その中身をルージュの頭に振りかける。
「何するんですの!!」
「お前がキャンディーちゃんとあのチワワの仲を裂くんだよ」
魔法薬をルージュの頭に振りかけたユフィーリアは、転移魔法を使用してルージュをドッグランの敷地内に放り込む。
ルージュがドッグランの敷地内に放り込まれたと同時に、それまでショウとハルアから地獄のように追いかけ回されていた犬たちの目つきが変わる。疲れ切った眼球に灯された炎は、まるで魅力的な雌犬を見つけたかのような雰囲気を感じた。
ぐったりしていたはずの犬たちは、ジリジリとルージュへ距離を詰めていく。いきなり雰囲気が変わった犬たちにたじろぐルージュは、逆に彼らから距離を取っていた。
「ユフィーリアさん!? わたくしに何をしたんですの!?」
「犬用の惚れ薬。今のお前は魅力的な雌犬に見えているだろうな」
狼狽するルージュに、ユフィーリアは指差して笑いながら言う。
犬用の惚れ薬は、その名前の通り犬にしか適用されない魔法薬である。異性にしか通用しないので女性に振りかければ雄犬が大量に釣れる、今回の作戦に最も適した商品だ。
もちろん、犬化魔法薬を使用している犬には通用しない。惚れ薬が適用されるのは正真正銘の犬だけであり、犬に変身している人間は対象外なのだ。
ルージュはユフィーリアを睨みつけると、
「ユフィーリアさん、貴女って魔女は!!」
「お前の口からそんな台詞が聞けるとはなァ、まあせいぜい足掻け」
惚れ薬効果で魅力的な雌犬に見えてしまっているルージュめがけて、大勢の犬たちが襲いかかる。もう熱量が半端ではない、さすが本能的に生きる動物たちである。
数え切れないほどの犬に追いかけられ、ルージュは甲高い悲鳴を上げながらドッグランの敷地内を全力疾走する。真っ赤なドレス姿で走り回るものだから、なかなか高い身体能力をお持ちのようだ。これは傑作である、キクガに教えたら腹を抱えて笑いそうだ。
さて、問題のチワワ野郎だが、
「くうーん?」(キャンディーちゃんのママ、大丈夫かい?)
「きゅーん」(ママ、大変なことになってる)
おかしなことに、チワワ野郎はルージュに釣られていなかった。
犬用の惚れ薬効果は絶大である。雄犬だったら確実に釣られていてもおかしくはないのに、どうしてこのチワワには通用していないのか。
チワワはキャンディーちゃんを見上げると、
「わん、わん」(キャンディーちゃん、こっちで少し話せるかな?)
「わん……」(でもママが……)
「わん、くうーん」(そのママについて大事な話なんだ、2匹だけで話したい)
キャンディーちゃんは、チワワ野郎に誘われるがままドッグランに戻ってしまった。別にルージュを追いかける訳でもなく、チワワの案内に従ってドッグランの隅に移動していく。
ユフィーリアはエドワードを見やる。エドワードもまたユフィーリアを見上げていた。
言いたいことは犬の姿になっても分かる。今の状況は確実にまずい。
「エド、あのチワワって」
「わん」(雄だよぉ)
「だよな、雌じゃねえな」
「わん」(匂いで分かるよぉ)
それからややあって、
「やべえ、エド!! あのチワワ野郎を何としてでも止めろ!!」
「わん!!」(はいよぉ!!)
「ハルとショウ坊はアイゼの護衛だ。ちゃんと守っておけよ!!」
「わんわん」(どこ行くの!?)
「わん?」(ユフィーリア?)
「くうーん」(行っちゃったワ♪)
ユフィーリアはドッグランの鉄柵を飛び越え、キャンディーちゃんを連れて行ったチワワを追いかける。
誘惑作戦がどうのとか言っている場合ではない。
キャンディーちゃんは、もっとまずいものに心を奪われていたのだ。
《登場人物》
【ユフィーリア】恋愛一年生だし、他人を誘惑する方法なんて惚れ薬以外に思いつかない魔女。意外とこういうことには慣れていない。
【エドワード】誘惑のやり方すら皆目見当がついていない。嗅覚が鋭いので雄と雌の違いぐらいお茶の子さいさい。
【ハルア】何か知らないけど上司と先輩がチワワを追いかけてしまったが、嫌な予感がするので任せておいた。
【アイゼルネ】キャンディーちゃんに吠えられて意気消沈。誘惑する為の手練手管は娼婦時代に習得済み。
【ショウ】叔父に仕込まれた誘惑方法が使えるなら使うが、使う相手はユフィーリアに限定される。
【ルージュ】まともそうに見えて意外とポンコツな魔女。紅茶で学院長を病院送りに出来る程度の実績がある。
【キャンディーちゃん】意外と嫉妬深い一面を持つ乙女。