第2話【問題用務員と恋煩い】
「酷え目に遭ったんですの……」
疲れ切った様子のルージュは、用務員室の隅に設けられた長椅子にもたれかかって言う。
煮えたぎる紅茶を口の中に注がれた際の怪我は、ユフィーリアが仕方なく回復魔法で治療してやった。だが沸騰するほど熱された紅茶を口の中に注がれた時の痛みはまだ残っているのか、長椅子に寝そべる真っ赤な淑女は綺麗な顔立ちを歪ませている。
主犯格であるショウは「危ないでショ♪」とアイゼルネに注意されていたが、知らん顔でハーブティーを入れ直している。わさわさと揺れる炎腕に紅茶を熱してもらっており、ルージュが失言した途端に2発目をぶち込む計画を静かに準備しているようだ。
ついでに上司を犠牲にして逃げ出しやがったエドワードとハルアは、ユフィーリアの手によって氷柱を尻の穴に捩じ込まれてしめやかに気絶していた。当然の報いである。
「貴女のお嫁さん、最近容赦がないですの」
「お前が全力で地雷を踏まなきゃいいだけの話だろうが」
ルージュが苦言を呈してくるが、ユフィーリアは彼女の言葉を軽くあしらう。
容赦がない、という訳ではない。ルージュはあまりショウの地雷を踏むようなことがなかったから目の敵にされていないだけで、彼女と同じことを学院長のグローリア・イーストエンドがやろうものなら冥砲ルナ・フェルノが火を噴いていたところである。仕返し具合で言えばまだマシだ。
ルージュがユフィーリアに犬用の首輪を巻いて「犬になりなさい」とふざけたことを言わなければ、まだショウだって美味しいハーブティーを振る舞う気概は見せてくれたと思う。見事に全体重で地雷を踏み抜いたからこそ、ハーブティーは美味しい飲み物ではなくルージュを痛めつける武器になってしまったのだ。
ユフィーリアは「で?」と言い、
「アタシに首輪を巻き付けた理由を聞かせてもらおうじゃねえか」
「ですから言ったでしょう。わたくしの為に、犬になりなさいと」
カシャン、と細やかな音がした。
見ればショウが花柄のカップをソーサーの上に置いていたのだ。花柄のカップを満たす飴色の液体はグツグツと沸騰しており、物凄い熱さであることは見ただけで判断できる。
光の差さない赤い瞳で、ショウはルージュを見据える。動き1つ取ってもさながら幽霊のように不気味だ。格好だけ見れば可愛い犬耳メイドさんなのに、背後を黒い靄のようなものが取り巻いている。
ショウは怯えた表情を見せるルージュに微笑みかけ、
「おかわりが必要ですか?」
おかわりを窺う質問が、まさか「辞世の句は用意できたか?」みたいな意味合いで聞こえるとは想定外である。対象にはならないユフィーリアも戦慄を覚えた。
「んもう、ショウちゃんったラ♪ お紅茶は美味しく飲んでもらう為に入れるのヨ♪」
「止めないでください、アイゼさん。この頭のおかしなクソアバズレに鉄拳制裁ならぬ熱湯制裁をしてやらなければ気が済みません」
「ユーリにそんな熱いお紅茶を飲ませるつもりなノ♪」
「入れ直してくる。ユフィーリア、待っていてくれ」
ユフィーリアの名前を出した途端、ショウはグツグツと煮えたぎる紅茶を引っ込めて足取り軽やかに居住区画へ引き返していった。アイゼルネも大概、ショウの扱いが上手くなったようである。
居住区画へ引っ込んだショウを追いかけ、アイゼルネは「ごゆっくリ♪」と硝子製の薬缶を置いて居住区画に引き返す。透明な薬缶には氷と一緒に薄茶色の液体で満たされており、冷え冷えとした温度を伝えてくる。
とりあえず魔法でカップを人数分用意するユフィーリアは、
「犬になるのは御免だな、他を当たれよ」
「あらよろしいんですの? お嫁さんに最近借りパクなさったエロ本の傾向をお教えしても」
「事情も話さず人に犬用の首輪を巻き付けて『犬になりなさい』って言い出す頭の湧いたお前よりマシだと思うな」
硝子製の薬缶から用意したカップに紅茶を注ぐユフィーリア。カップから漂う香りは香草のいい匂いがして、嗅いだだけで心が安らぐ。
「では事情を話してくれたら犬になってくださいますの?」
「時と場合による。それが面白そうならな」
「貴女はそんな性格だと思いましたの」
ユフィーリアからハーブティーの注がれたカップを受け取ったルージュは、
「実は、わたくしの飼っている愛犬が恋煩いを抱いてしまいましたの」
「アタシが犬になる必要性ってどこにあった?」
事情を話し始めたルージュに、ユフィーリアは静かにツッコミを入れた。
いきなり犬用の首輪を巻き付けて「犬になりなさい」と宣っておきながら、用務員室を訪れた理由が恋煩いの相談である。素直にその話題だけを持ってきてほしかったのに、初手で訳分からん行動に出られたから彼女の脳味噌がついにおかしくなったのかと錯覚してしまう。
そもそも、彼女の言う愛犬とはちゃんとした犬種なのだろうか。ぴちぴちの下着1枚で犬用の首輪を装着し、汗に塗れた小太りのおっさんのことを愛犬と称して飼っていそうな気配はある。四つん這いにさせて椅子の代わりに用いている姿まで簡単に想像できた。
ルージュはジロリとユフィーリアを睨みつけ、
「不名誉な妄想は止めるんですの」
「何も言ってねえだろ」
「表情が物語っているんですのよ」
不満げに言うルージュから視線を逸らしたユフィーリアは、
「続きは?」
「まあいいですの、話を続けますの」
こほんと軽く咳払いをしてから、ルージュは話を再開させた。
「イストラにドッグランが出来たことはご存知ですの?」
「新聞で見た程度なら」
ルージュに質問され、ユフィーリアは今朝の新聞で見かけたドッグランについて思い出す。
ヴァラール魔法学院のお膝元と呼び声の高いイストラなら、動物を伴って移動もしやすい。幸いにも教員寮はペットの飼育を禁止している訳ではないので、使い魔として適切に申請すれば寮内で飼うことが出来るのだ。
冷たいハーブティーで満たされたカップを傾けるユフィーリアは、
「それがどうしたんだよ」
「我が家のキャンディーちゃんもイストラのドッグランに連れて行ったんですの。あまりお部屋に篭りきりですと運動不足になるから、外でたくさん遊ばせてあげた方がいいとかかりつけのお医者さんにも言われたんですの」
どうしよう、ルージュの説明で下着1枚の小太り野郎が病室でお医者さんと向かい合う光景が想像されてしまった。
ユフィーリアは口の内側を噛んで笑いを堪える。
下手に噴き出せばルージュの反感を買いかねない。いくら面白いことが大好きなユフィーリアでも、この状況で噴き出すことはまずいというのは理解できる。
「そこのドッグランでキャンディーちゃんがよそ様の飼い犬に一目惚れをしてしまいまして……」
「イッテ、口の内側を噛み切った」
「大丈夫ですの? 一体どうなさったんですの」
「ちょっとあれがアレしてあれになっちゃっただけだ気にすんな問題ねえ」
適当な理由で誤魔化すユフィーリア。ルージュの怪しげな視線が突き刺さってくるので、適当に笑い飛ばしておく。
「家族のことを考えれば仲良くなってもらった方がいいでしょうが、よそ様の飼い犬にご迷惑をおかけする訳にはいきませんの。ですから手っ取り早く、問題児のユフィーリアさんには犬になってもらってキャンディーちゃんの初恋を上書きしてほしいんですの」
「おいそれ犬を相手に口説けって話か? ふざけんな、誰がやるかそんなの」
ユフィーリアは速攻で断った。
当然である、犬を相手に甘い言葉なんて吐けるものか。「好きだ」や「愛している」などの情熱的な愛の言葉は最愛の嫁であるショウの為のものだ。
ルージュは軽い調子で、
「ユフィーリアさんは頭がよろしいですし、経験豊富そうに見えるんですの。きっとキャンディーちゃんをメロメロにしてくれるはずですの」
「持ち上げてその気にさせようったってそうはいかねえからな。絶対に嫌だ」
「魔法の天才にかかればクッキーの歯応えより軽くこなせるですの」
「サクッとさせんじゃねえよ、クソが」
犬をメロメロにさせるなど、おやつを与えて遊んでやれば解決できそうな気がする。授業準備を終えて暇そうな教職員を捕まえれば問題はなさそうだ。
わざわざ問題児を相手に依頼をしてきたのか不明だが、おそらくユフィーリアたちが超優秀だから「適当に解決してくれるだろう」という甘い考えだったのだろう。そうは問屋が卸さないのだ。
ぷいとそっぽを向くユフィーリアに、ルージュは「よろしいんですの?」と首を傾げる。
「最近借りパクをなさったエロ本の傾向を、お嫁さんに暴露しますの」
「やれるもんならやってみろ、隠している位置まで完璧に把握されてるからな」
「ある意味でとんでもねーことになってますの」
ルージュから同情の眼差しが寄せられるも、すでに慣れたことである。愛情深い嫁さんだから仕方がない。
「では別の提案をしましょう」
咳払いをしたルージュは、
「『尽くし系癒しメイドちゃん、夜のご奉仕』」
「ッ!?」
「魔導書図書館に入荷いたしましたの。まだ誰も読んでいませんの」
ルージュは「いかがです?」と首を傾げる。
先程の本はすでに絶版されており、所有者を探さなければ見つからないような蒐集家垂涎もののエロ本である。出版されていた冊数が少ないので、魔導書図書館に入荷したら読んでみたい逸品ではある。
それが読めるとなったら、少しぐらい協力するのも吝かではない。夏休みが終わる前に入荷してくれたことに感謝をしよう。
ユフィーリアは満面の笑みで親指を立て、
「任せろ、上書きさせてやるぜ」
「出来ればユフィーリアさんだけではなく、たくさんの選択肢もほしいので他の人にも犬となっていただきますの」
「よく言っておく」
ユフィーリアは手始めに尻の穴へ氷柱が突き刺さった状態で気絶していたエドワードとハルアから、確かな手つきでを氷柱を引っこ抜く。
「あひんッ」
「おっふ」
尻穴から氷柱を引っこ抜かれて正気を取り戻したエドワードとハルアに、ユフィーリアは満面の笑みで言う。
「お前ら、ルージュの犬になるぞ!!」
「気絶しとけばよかったぁ」
「ユーリが壊れた!!」
「お紅茶を入れ直しているうちに何があったノ♪」
「ユフィーリア、犬になりたい願望があるなら俺がいつでも叶えるぞ?」
急にトチ狂ったことを言い出すユフィーリアに、部下たち4人は揃って混乱するのだった。当たり前である。誰が好き好んで犬になんてなるか。
《登場人物》
【ユフィーリア】恋煩いでご飯が食べられなくなるという経験がない魔女。だって嫁のショウとは相思相愛だから、患う必要がない。強いて言えば嫁の可愛さに吐血・心肺停止して冥府に旅立ち、彼の実父であるキクガに迷惑をかけるぐらい。
【エドワード】恋煩いでご飯が食べられなくなるという経験がない大食い野郎。恋とか関係なく食欲旺盛。気絶から目覚めたら上司が「犬になるぞ」とかトチ狂ったことを言い出してこっちが混乱した。
【ハルア】恋煩い以前に恋の感情がよく分かんないピュアボーイ。気絶している間に話が急展開していて混乱。
【アイゼルネ】恋なんて純粋な感情はどこかに捨ててきてしまった南瓜頭の娼婦。紅茶を入れ直している間に上司が犬になると宣言したのでびっくりした。
【ショウ】ユフィーリアを心の底から愛する女装メイド少年。恋なんて知らないが、ユフィーリアがいてさえくれればそれでいいのだ。犬になりたいなら自分がなるのに。
【ルージュ】まさかエロ本で釣れるとは思っていなかったが、希少なエロ本が魔導書図書館に入荷したのは本当。愛犬の恋煩いの相談に来たはずなのに、ハーブティーで拷問されるのは想定外である。