第3話【学院長とマッサージ】
目が疲れた。
「んー……」
ヴァラール魔法学院の学院長、グローリア・イーストエンドは目元を擦る。
2学期が目前に迫っており、授業の準備に加えて空間構築を題材とした魔導書の執筆依頼まで来ているのだ。最近になって目のかすみが酷くなったような気がする。
わざわざ眼球に回復魔法や治癒魔法をかけるような労力はかけたくないので、目元を擦ったり揉み込んだりして解消を図る。視界は多少よくなったかもしれないが、頭がぼんやりしていて働かない。
グローリアは小さく欠伸をすると、
「お茶でも入れよう……」
とりあえず休憩を挟んで頭を休ませよう。そうしなくては授業の準備すら手につかない。
執務椅子から立ち上がり、グローリアは学院長室の隅に設けられた棚の前に移動する。働かない頭でとりあえずカップと薬缶を手にしたところで、学院長室の扉が控えめに叩かれた。
誰かやってきたのだろうか。思い当たる節が多すぎて見当がつかない。そもそも疲労によってあまり思考回路が働いていないので、誰かが扉を叩いて来訪を告げても分からない。
ぼんやりとしたまま紅茶の茶葉が詰まった缶を取り出すグローリアは、
「入っていいよ」
「失礼するワ♪」
扉を開けて入ってきたのは問題児に名を連ねる南瓜頭の娼婦、アイゼルネである。
問題児に名前を連ねているのだが、彼女は比較的大人しめの問題児である。自ら進んで問題行動を起こさず、暴走気味な問題児を諌める役目まで負うストッパーのような存在だ。ただしそこに酒精が混ざってしまうと箍が外れて暴走してしまうのだが、そこだけ目を瞑れば話が通じる相手ではある。
アイゼルネはお茶の準備をするグローリアを見て首を傾げ、
「学院長、いいかしラ♪」
「何かな、アイゼルネちゃん。僕は忙しいんだ、貴重な休憩時間を邪魔しないでほしいんだけど」
「学院長が持っているのはビーカーとフラスコだけど、それで魔法薬でも調合するのかしラ♪」
「ん?」
グローリアは自分の手に持っているものへ視線を落とす。
カップと薬缶を手に取ったつもりだったが、グローリアの手の中にあるのは魔法薬を調合する際に使われるビーカーとフラスコである。しかも紅茶の茶葉は乾燥状態にされた魔法植物だ。このままだとクソ不味い紅茶となって噴き出していたかもしれない。
ついに疲労もここまで極まってしまったか。カップとビーカーは手触りが似ているので間違えてしまうこともあるだろうが、薬缶とフラスコはさすがに取り違わないだろう。というかビーカーとフラスコを戸棚に放り込むとは疲れが限界突破している証拠だ。
執務机にビーカーとフラスコ、乾燥された魔法植物を置いてグローリアはため息を吐いた。
「僕はもうダメだ」
「お疲れの様子だから、おねーさんがお紅茶を入れるワ♪」
「ありがとう……」
鼻歌混じりにアイゼルネが紅茶の準備をしてくれる。ちゃんと薬缶に魔法で生み出した水を投入して、温度を操作してお湯にしていた。
戸棚に並ぶ紅茶の茶葉を吟味する彼女は、慣れた手つきで紅茶の準備作業を進めていく。その手際のよさは目を見張るものがあった。普段から紅茶の入れ方を研究しているだけある。
花柄のカップに出来上がったばかりの紅茶を注ぎ入れたアイゼルネは、グローリアに飴色の液体で満たされたカップを差し出した。
「どうゾ♪」
「ありがとう、アイゼルネちゃん」
紅茶のカップを受け取り、グローリアは入れたての紅茶を啜る。
鼻孔を掠める花の香りと、紅茶特有の渋さの相性が抜群だ。落ち着ける風味にほっと息を吐く。
自分が入れてもここまで美味しくならない。せいぜい花の香りが飛んでただ渋いだけの紅茶になるのだが、ここまで上手に入れることが出来るとは相当な研鑽をしてきた証左である。
アイゼルネは紅茶がまだ残る薬缶をグローリアの執務机に置き、
「お疲れのようネ♪」
「授業の準備と来月に発売予定の魔導書の執筆依頼が立て込んでて……」
「お疲れの学院長に素敵な提案があるのだけド♪」
グローリアは疲れの滲む瞳をアイゼルネに向け、
「……何?」
「そんなに警戒しないデ♪ ただのマッサージなのヨ♪」
「マッサージ?」
グローリアは首を傾げる。
マッサージといえば、アイゼルネが最近熱心に勉強をしている題材だったか。主に上司のユフィーリアが餌食になり、その度に悲鳴を上げている姿を見かける。
被害者であるユフィーリアが言うには「半日は身体を動かすことが出来なくなる」らしいのだが、実際に受けたことがないグローリアでは想像が出来ない。彼女も面白がって大袈裟に言っているのだ。
とはいえ大がかりなマッサージはさすがに受けている時間が惜しい。手軽に終わらせることが出来るものがいい。
「何か手軽に受けられるものがあればお願いしたいな」
「ハンドマッサージはどうかしラ♪ 書き物をしていると手も疲れてくるでショ♪」
「確かにね」
彼女の言う通り、手にも疲労が溜まっているような気がする。まずは手のマッサージを受けて様子を見てみることが最適かもしれない。
アイゼルネが「手を出してちょうだイ♪」と言うので、グローリアは手を差し出した。
白魚の如き指先がグローリアの手を撫でる。ちょっとくすぐったかったのだが、手のひらを親指で押し込まれると鈍い痛みと同時に甘やかな痺れが広がっていった。
「あ、気持ちいいね」
「そうでショ♪」
アイゼルネはグローリアの手のひらを丁寧に揉み込みながら、
「気分よくお仕事が出来るように香油も塗り込んでおくわネ♪ ミントの香りがして頭もスッキリするわヨ♪」
そう言ったアイゼルネの豊満な胸元から、何故か香油の瓶が引っ張り出される。よくトランプカードを胸の谷間から出す姿は見かけるのだが、香油の瓶まで取り出せるとは驚きだ。
一種の転送魔法だろうが、使い方が彼女らしいといえば彼女らしい。魔法なんてどうでもいいと考える一般人なら鼻の下を伸ばしそうだが、魔法学院の学院長を務めるグローリアはその転送魔法の活用方法に感心した。
グローリアの手のひらに香油を垂らしたアイゼルネは、
「どうかしラ♪」
「うん、爽やかないい香りだね。冷たく感じるけど」
「冷感使用なのヨ♪ さっぱりするでショ♪」
「そんなものもあるんだね、知らなかったな」
香油を垂らされた手のひらがひんやりと冷えていき、まだ暑さの残る今の時期にはいいのかもしれない。鼻孔をくすぐる爽やかなミントの香りも相まって、疲れた心がだいぶ癒されていく。
ひんやりとした香油を馴染ませるように手のひらや手の甲を揉むアイゼルネは、親指でグローリアの指の付け根を押したり手首をぐるぐると回して筋肉を解していく。指圧が絶妙な力加減なので、自然とグローリアの身体から力が抜けていった。
指の腹を摘んで揉み込むアイゼルネは、
「学院長は働き者なんだから、もう少しお休みを取った方がいいわヨ♪」
「そうしたいのは山々なんだけどねー……」
「眠そうだワ♪」
「んー……」
手のひらへの指圧が気持ちよくて、グローリアはウトウトと微睡む。
マッサージを受けながら色々と考えていたはずなのだが、いつのまにかそんな思考回路も蕩けていく。今や頭の中はぼんやりと靄がかかったような状態となり、ただ目の前の快楽を享受するだけしか考えられない。
徐々に瞼も重くなり、抗い難い眠気が忍び寄ってくる。いつもならば耐えられる睡眠欲も、アイゼルネのマッサージを受けたことで理性が解けきっている影響なのか振り払えずに受け入れてしまう。
重たくなった瞼が完全に降り、意識がゆっくりと暗い闇の中に引き摺り込まれていく――その瞬間だった。
「えイ♪」
「びゃッ!?」
唐突な刺激に、グローリアの意識が現実に引き戻される。
アイゼルネの指先はどこか変な箇所を触った形跡はない。彼女の親指はグローリアの手のひらの真ん中で止まっており、南瓜のハリボテの下でキョトンとした表情を見せて「どうしたのかしラ♪」などとすっとぼける。
未知なる衝撃に、グローリアの脳内が警鐘を鳴らしてくる。甘やかな痺れが快感に変わり、心はこれ以上の領域に踏み込むことを拒否しているのに身体が言うことを聞かない。何か洗脳する類の魔法を感じた訳ではないのに、指先さえ動かすことが出来ないのだ。
グローリアは顔を引き攣らせると、
「あ、あのー、アイゼルネちゃん。もういいかな、そろそろ仕事をしなきゃ」
「えいヤ♪」
「み゛!?」
グローリアの口から変な声が漏れてしまった。
身体の奥底に潜む悪いものに直接触られたような感覚だ。この感覚は味わってはいけないものである。扉に鍵をかけてしまっておかなければならないのに、アイゼルネのマッサージによって無理やりこじ開けられようとしていた。
手を引っ込めたくても引っ込められない。腕どころか足も動かないのだ。全身の筋肉からすでに力が抜けており、椅子に根を張ったかのように身体を預けてアイゼルネによる手のひらへの指圧を受け入れる他はない。
唯一働く脳味噌で打開策を探るグローリアだが、そこである真実に気がついてしまった。
「アイゼルネちゃん、ユフィーリアは?」
「あラ♪」
「君の単独行動を、ユフィーリアは許さないはずだ。少なくともエドワード君やハルア君、ショウ君辺りを護衛としてつけるでしょ!?」
そう、アイゼルネは魔法の腕前は中の下と言ったところだろう。
元々の魔力量がそれほど多くなく、魔法を連発すれば魔力欠乏症になりかねないほどだ。相手の認識を騙す『幻惑魔法』や嫌なものを幻覚として見せる『幻覚魔法』には長けるものの、それでも身内を大切にする銀髪碧眼の問題児筆頭がアイゼルネに単独行動を許可するはずがない。
なのに、彼女が学院長室を訪れたのは1人きりの時である。護衛らしい存在は見当たらない。部屋の中で待機をしているかと思うのだが、飛び込んできてグローリアに何か悪戯をけしかける雰囲気もない。
「うふフ♪」
アイゼルネは楽しそうに笑うと、
「みんな用務員室でオネムなのヨ♪」
「え……?」
「今の学院長と同じように身体が動かなくなって、そのまますっかり夢の中に旅立ったワ♪ いい悲鳴を何度も上げてくれたノ♪」
グローリアの手を引っ張り寄せたアイゼルネは、
「だから学院長もいい悲鳴を聞かせてちょうだいナ♪」
「ちょっと待って話が違うでしょアイゼルネちゃあああああああん!?!!」
名門魔法学校の学院長でさえも、悪魔のマッサージの前では抵抗できずに陥落するのだった。
《登場人物》
【グローリア】マッサージなんて時間がないので受けたことないのだが、ハンドマッサージで動けなくなった。トラウマになりそう。
【アイゼルネ】次の獲物は学院長に決めた。可哀想なので紅茶はサービス。