第2話【異世界少年とマッサージ】
悲鳴が聞こえた気がする。
「ユフィーリア……!?」
「え?」
「ええ?」
ちょうど購買部で買い物を済ませて用務員室まで戻ってきた女装メイド少年、アズマ・ショウは神妙な表情でどこかを見上げる。
最愛の旦那様であるユフィーリアの悲鳴が聞こえたような気がしたのだ。
もしかしたらショウが留守の間に誰かが用務員室を襲撃したのかもしれない。可能性があるのは学院長のグローリア・イーストエンドだ。ユフィーリアに手出しをする以上、彼はショウの敵である。
一緒に購買部を訪れていた先輩用務員のエドワード・ヴォルスラムとハルア・アナスタシスは互いの顔を見合わせて、
「何も聞こえないけどぉ……」
「ショウちゃん、気のせいとかじゃないの!?」
「絶対に気のせいじゃない、間違いなくユフィーリアの悲鳴が聞こえたんだ!!」
ショウは用務員室の方角を睨みつけ、
「学院長だったら早急に焼き払ってやる……!!」
「あ、ちょっとショウちゃん!?」
「走るの!?」
用務員室に怨敵が侵入したことを懸念して、ショウは廊下を駆け出す。
すでに用務員室へ程近い場所だったこともあって、走ればすぐに目的地へ到着した。扉の前に立ち、ショウは取手を握る。
この先にいるのは学院長か、はたまた副学院長だろうか。どちらにせよユフィーリアが悲鳴を上げるほどの人物が襲撃したに違いない。彼女に害を加える相手ならば焼き払うまでだ。
施錠されていない用務員室の扉を開くと、
「あら、お帰りなさイ♪」
「アイゼさん?」
橙色の南瓜で頭部を覆った美女――アイゼルネが真っ先に迎えてくれた。
彼女は用務員室の隅に設置された長椅子の側に佇んでおり、そこには最愛の旦那様であるユフィーリアが転がされていた。どうやら眠っている様子である。
ただ、彼女の表情はどこか悩ましげだった。肌も上気しており、桜色の唇から漏れる吐息は艶めかしい。何かがあったことは間違いないのだが、果たしてそれを口にしていいものなのか躊躇う。
アイゼルネと長椅子に転がされたユフィーリアを交互に見やるショウは、
「えっと、あの、ユフィーリアに何をしていたんですか?」
「マッサージをしていたのヨ♪ あんまりにも気持ちよすぎるから寝ちゃったみたイ♪」
アイゼルネはポンと手を合わせて、
「そうだワ♪ ショウちゃんもマッサージを受けてみないかしラ♪」
「マッサージですか?」
「こういうのは体験者が多い方が勉強になるのヨ♪ 人によって身体の構造は違うし、おねーさんはたくさんの人をマッサージで癒せるようになりたいノ♪」
「なるほど……」
勉強熱心な先輩用務員に、ショウの心が揺り動かされてしまう。
実際、アイゼルネのマッサージはユフィーリアも「半日ぐらい身体が動かなくなるから嫌だ」と評するほど気持ちいいらしい。その気持ちよさを体験したことがないのでよく分からないのだが、前々から受けてみたいという気持ちではあった。
いい機会である。マッサージ技術を体験して彼女の技を盗み、献身的な嫁とした旦那様を癒してあげるのも悪くはない。
「分かりました、ぜひお願いします」
「ユーリと違うマッサージをしたいからお洋服を脱いでもらうことになるけれどいいかしラ♪ 汚れてもいいようなお下着は用意するワ♪」
「はい、大丈夫です」
アイゼルネは「じゃあお風呂までご案内♪」とショウを風呂場まで連行する。
女性の前で全裸を晒すのはちょっと抵抗はあるのだが、これはマッサージだし汚れてもいいような下着を用意すると言っていたので大丈夫だろう。アイゼルネは問題児の中でも真面目でしっかり者なので、自ら問題行動を起こすとは考えられない。
――というか、汚れてもいい下着を用意すると聞いているのだが、マッサージとは汚れるものなのだろうか。香油か泥を用いるものなのか。
まだ見ぬ世界をちょっと想像しながら、ショウはアイゼルネの手によって浴室に引っ張り込まれるのだった。
☆
普段利用している脱衣所に、扉が2つある。
1つは浴室へ繋がる扉だ。こちらはいつも使っているので見覚えはある。
もう1つは脱衣所の隅に設けられた小さめの扉だ。その部屋は入ったことがないので物置か何かだと思っていたのだが、アイゼルネに案内されて初めて足を踏み入れた次第である。
マッサージ専用のベッドと香油や泥パックなどが置かれた棚、着替えを用意された籠などが置かれた薄暗い部屋である。どうやらマッサージルームのようだ。
「あ、あの」
マッサージを受ける為に着替えていたショウは、部屋の隅に広げられた衝立の向こう側から顔を覗かせる。
「着替えましたが……」
「じゃあこっちにいらっしゃイ♪」
「あう……」
ベッドの準備をしていたアイゼルネに手招きをされ、ショウは不承不承といった感じで衝立の向こうから姿を見せる。
普段着にしている雪の結晶が随所に刺繍されたメイド服を脱ぎ捨て、今のショウは紙製の下着だけを身につけた心許ない格好をしていた。腰から太腿の付け根までの丈しかない紙製の下着はあまりにも薄く、少し動いただけで破けてしまいそうなほどである。
アイゼルネからマッサージの技術を盗むつもり満々で挑んだのだが、ここに来て羞恥心が到来する。何だかもうそんなことなんて出来ないような気がした。
アイゼルネはベッドを指差し、
「うつ伏せで寝てちょうだいネ♪」
「うつ伏せでいいんですか?」
「そうヨ♪ お背中で天国を見せてあげるワ♪」
「天国……?」
ショウは小さく「よかった……」と安堵の息を漏らす。これで仰向けに寝転がされた状態からマッサージを受けたらどうなることか。
言われた通りにベッドへうつ伏せになると、アイゼルネが腰の辺りにタオルを敷いて覆い隠してくれる。タオルそのものも温められていたものなのか、腰の辺りが温くてそれだけで眠ってしまいそうである。
ウトウトと微睡んでいると、アイゼルネから「始めるわヨ♪」と声をかけられる。それから遅れて何か液体のようなものが、ショウの背中に垂らされた。
「ん……」
「冷たかったかしラ♪」
「平気です……」
むしろ背中に垂らされた液体はほんのりと温かく、鼻孔を花の香りが掠める。心地のよい香りだ。
「この香油……とてもいい匂いがします……」
「お肌も綺麗になるのヨ♪ ショウちゃんはもしかしたら必要ないかもしれないけド♪」
アイゼルネはショウの背中に満遍なく香油を塗り込んでいき、指を肩甲骨に這わせる。
その感覚が少しばかりこそばゆくて、ショウは堪らず身体を震わせてしまった。指の動きが優しくてくすぐったいのだ。
クスクスと小さく笑みを漏らすアイゼルネは、
「くすぐったかったかしラ♪」
「ごめんなさい……」
「いいのヨ♪」
香油を全体的に塗り込んだところで、アイゼルネは「まずは軽く指圧していくわヨ♪」と言う。
親指がショウの肩甲骨部分を押し込む。
その力加減が絶妙で、凝っている訳でもないのにちょうどいい気持ちよさがあった。「んー……」という声が自分の口から漏れてしまう。
「お疲れかしラ♪」
「分かんないです……」
「自覚はしていないかもしれないけど、だいぶ疲労が溜まっているわヨ♪」
「本当れすかー……?」
もうあまりにも気持ちよすぎる影響で呂律も蕩けてしまっていた。
肩甲骨部分を指圧された次は腕に移動する。
だらりとベッドから垂れ落ちたショウの腕を拾い上げると、むにむにと二の腕を揉み込んでくる。花の香りがより一層強まったのは、腕にも香油を塗りたくられたからか。
適度な力加減で指圧されていき、腕を広げたり引っ張ったりして筋肉が解されていく。次第にショウの身体から力が抜けていき、アイゼルネのなすがままとなった。
「足もやっちゃうわヨ♪」
「お願いしますー……」
腕を揉み終えたところで、今度は足に目標が移動した。
ショウのほっそりした太腿やふくらはぎ、無防備に晒された足裏にまで香油が垂らされていく。花の香りがより一層濃厚になるが、不思議とそこまで嫌な気分にはならない。むしろ逆に心が落ち着いていく。
アイゼルネの温かな手のひらがグリグリと太腿を揉み込み、ふくらはぎをポンポンと叩いて弾ませる。足の裏に集中するツボも刺激されるが、僅かな痛みがあるだけでじんわりと快感に変わっていく。芸能人が受けて悲鳴を上げていた足ツボとは違って、痛みも痒みもない。
もう完全にショウはアイゼルネのマッサージの虜である。技術を体験して盗もうという思考回路さえ解けきっていた。
「うふフ♪」
タオルの上から腰を肘でグリグリと押し込んでくるアイゼルネは、
「そろそろいいかしラ♪」
「ほえ……?」
ショウが疑問を持つより先に、アイゼルネの親指がショウの肩甲骨に再び戻ってくる。何をするかと思えば、
「ひゃんッ!?」
微睡んでいたはずの意識が急に引き戻される。
肩甲骨に突き刺さったアイゼルネの親指は、決して痛い場所を刺激した訳ではない。なのに身体の内側まで響く快楽は一体何だ。
これはまずい、どうにかして逃げなきゃいけない。本能が「今すぐ逃げろ」と告げているのだが、何故か身体を動かすことが出来ない。アイゼルネの腕を振り払うことなんて簡単なはずなのに、指先を動かすことすらままならないのだ。
ショウは「あ、あの」と口を開き、
「アイゼルネさん……?」
「いい声を聞かせてちょうだいネ♪」
悪魔に呆気なく捕まってしまったショウは、アイゼルネのマッサージを受けて悲鳴を上げるしか出来なかった。
☆
「あれぇ? ユーリしかいないのぉ?」
「ショウちゃんが先に帰ってたはずだけど!!」
ショウが用務員室に帰還を果たしてからたっぷり5分後、ようやくエドワードとハルアが用務員室に帰ってきた。
ところが、先に帰っているはずのショウの姿がないのだ。いるのは上司のユフィーリアだけである。
そのユフィーリアも長椅子に寝転がった状態で苦悶の表情を浮かべている。悪夢にでも魘されているのかと言わんばかりの様子だ。
エドワードは購買部で買ってきた品物が詰め込まれた紙袋を事務机に置き、
「トイレかねぇ?」
「戻ってきたらお菓子食べよ!!」
呑気にそんな会話を交わす2人だったが、
「――にゃああああああああああああああッ!?」
用務員室まで届くショウの絶叫が、エドワードとハルアの鼓膜に突き刺さった。
「え? 何?」
「ショウちゃん!?」
悲鳴が聞こえてきたのは居住区画からである。
エドワードとハルアが訝しげな視線を居住区画にやると、すぐ側から「んん゛」という呻き声が聞こえてくる。
見れば、長椅子に転がされていたユフィーリアが瞼を持ち上げていた。視線を彷徨わせてエドワードとハルアを見つけると、彼女は細々とした声で問いかける。
「ショウ坊は……?」
「先に戻ってるはずなんだけどぉ、いないんだよねぇ」
「クソ……まさかアイゼに捕まったか……」
ユフィーリアは「逃げろ……!!」と必死の形相で言い、
「今のアイゼは無双状態だ……誰彼構わずマッサージの餌食にされるぞ……!!」
「そんな大袈裟なぁ」
エドワードはユフィーリアの忠告を笑い飛ばすが、ハルアはエドワードの太い腕を掴む。その視線は居住区画に固定されたまま、何かに警戒するかのように表情が険しい。
第六感の優れたハルアだからこそ、ユフィーリアの忠告を正しく理解できるのだ。アイゼルネに捕まったらまずい、ということが。
ハルアはエドワードの腕を引っ張り、
「エド、まずいよ。このままいたらまずい」
「ハルちゃんまで一体何よぉ」
「とにかく逃げなきゃ!! ユーリの言ってることは本当だと思う!!」
グイグイとエドワードの腕を引っ張って用務員室から逃げようとするハルアだが、
「いらっしゃイ♪」
――何故だろう、用務員室の扉を開けた先で南瓜頭の娼婦が待ち構えていた。
「2名様ご案内♪」
「マッサージ受けるほど疲れてないんだけどぉ!?」
「アイゼ、何かに取り憑かれた!?」
「人聞きの悪いことを言わないでちょうだイ♪」
アイゼルネは朗らかに笑って豊満な胸の谷間からトランプカードを1枚取り出す。
「おねーさんはただ自分の限界が知りたいのヨ♪」
そう言って、彼女が取り出したものは魔法トリモチである。魔力を流している間は絶対に逃れることの出来ない万能拘束具だ。
魔法の天才であるユフィーリアならまだしも、魔法の『ま』の字も使えないエドワードとハルアが魔法トリモチから脱出する方法は皆無である。アイゼルネの魔力切れを狙う他はない。
そんな訳で、
「さあ2人もマッサージ体験しましょうネ♪」
「勘弁して勘弁してこれ絶対にダメな奴だよねぇ!?」
「死にたくない!! 死にたくない!!」
「殺さないわヨ♪」
抵抗虚しくエドワードとハルアは魔法トリモチに捕まり、居住区画に引っ張り込まれた。
――そして数十秒後、2人の悲鳴が聞こえたのは言うまでもない。
《登場人物》
【ショウ】先輩用務員から卓抜したマッサージ技術を盗んで旦那様のお役に立とうと目論んだが、あえなく撃沈。マッサージの経験はあまりないのだが、テレビなどで足ツボマッサージを受ける芸人たちが騒ぐ様を見て痛いものだと勝手に想像していた。
【アイゼルネ】この度、悪魔のマッサージなるものを習得した南瓜頭の娼婦。異世界出身の女装少年のヤンデレなどものともせず、マッサージによって陥落させた。
【エドワード】疲労などは感じることもあるけれど、別にマッサージへ頼るほど酷くはない。大抵は風呂に入って自分で疲れた部分をマッサージする程度で治る。
【ハルア】肩こり・疲労などと無縁の存在。いつでもどこでもやる気、元気、根性抜群。