第1話【問題用務員と酷暑】
問題児は死んでいた。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
もう一度言おう、問題児は死んでいた。
普段は騒がしい用務員室は驚くほど静まり返り、用務員の面々は可哀想なほど微動だにしなかった。銀髪の魔女は下着姿で温くなった床に突っ伏し、筋骨隆々の巨漢と問題児きっての暴走機関車野郎は共に上司の真似をしてパンツ1枚の状態で用務員室の床に転がっている。
長椅子に腰掛ける南瓜頭の娼婦と女装メイド少年はそれぞれの頭に氷嚢を置き、溶けてなくなりそうな氷で涼を取っていた。2人揃って表情が抜け落ち、今にもぶっ倒れそうな勢いがある。
窓の向こうで元気に泣き喚く蝉の声しか聞こえてこない用務員室に、ポツリと気力の感じられない声が落ちる。
「…………何度?」
その質問は、室温を尋ねていた。
質問を受け取った筋骨隆々とした巨漢が、モゾモゾと右腕を動かす。掴み取ったのは室温を計測する為の温度計だ。
床に突っ伏していた顔を持ち上げ、目盛を確認する。そこに表示されていた室温は驚くべき温度だった。
「……35度」
「…………」
銀髪の魔女はおもむろに起き上がると、汗で濡れた銀髪を適当に束ねる。涼しげなポニーテールに結び、胴着とパンツ1枚という心許ない装備を堂々と晒して用務員室に仁王立ちする。
決して自分の抜群なプロポーションを晒している訳ではない。確かに胴着が支える豊満な胸と括れた腰つき、肉感のある太腿とハリのある白い肌は目を見張るものがあるのだが、用務員室でくたばる問題児どもは誰1人として銀髪碧眼の魔女に目もくれていない。
雪の結晶が刻まれた刻まれた煙管を握りしめた銀髪碧眼の魔女――ユフィーリア・エイクトベルは、
「部屋を氷漬けにすれば涼しくなるよなッ!!」
「ちぇすと」
「あだあッ!?」
トチ狂ったことを叫ぶユフィーリアの側頭部に、室温を計測する温度計が強襲する。温くなった床に突っ伏す筋骨隆々の巨漢が器用にぶん投げた温度計が、ユフィーリアの側頭部に見事命中したのだ。
用意していた氷の魔法が強制解除と相成り、用務員室は茹だるような暑さが続いていく。窓の向こうでミンミンと鳴く蝉の声が鬱陶しくて仕方がない。
顔だけ上げた筋骨隆々の巨漢――エドワード・ヴォルスラムは、
「ユーリぃ、とうとう暑さで頭の螺子が溶けちゃったぁ?」
「何言ってんだ、エド。アタシはいつでも正常だろうが」
胴着とパンツ1枚という痴女と呼んでも差し支えのない格好を晒した状態で、ユフィーリアは豊満な胸を張りながら正常であることを伝える。どう考えてもユフィーリアの頭がおかしい。
室温が35度である。あり得ないほどに暑くて仕方がない。それなら部屋を氷漬けにでもすれば一気に涼しくなって全員仲良く大団円でいいではないか。ただ少し風邪を引くかもしれないし、下着1枚でいる馬鹿野郎どもは最悪の場合だと死に至る可能性もあるのだが、そこは「運がなかった」と諦めてほしい。
ゴロリと床を転がってうつ伏せの状態から仰向けになった少年――ハルア・アナスタシスは、今にも死にそうな細々とした声で訴える。
「ユーリ……暑い……死んじゃう……」
「ハルの元気がねえのは異常だな、こりゃ」
「室温も規格外だしねぇ」
温くなった床から起き上がったエドワードが、適当な雑誌を団扇の代わりにしてハルアを扇いでやる。室温35度という状況ではクソほども涼は取れないが、ないよりはマシという感想しか出てこない。
ユフィーリアも魔法で一抱えほどもある氷塊を作り出してやると、弾かれたようにハルアが起き上がって氷塊に抱きついた。素肌で抱きつくと涼しいを通り越して寒さを感じるはずだが、彼はお構いなしである。冷たいのが嬉しくて、ゴツゴツとした氷塊の表面に頬擦りまでし始める。
南瓜のハリボテに乗せた氷嚢で首筋を冷やす娼婦――アイゼルネは、
「校舎内は魔法で温度が一定に保たれているんじゃないノ♪」
「そのはずなんだけどなァ」
雪の結晶が刻まれた煙管を咥え、ユフィーリアは試しに用務員室の扉を開ける。
扉を開けたところで状況は変わらなかった。廊下も用務員室と同じぐらいに暑い。むしろ廊下の窓から差し込む陽光が赤い絨毯の敷かれた床に落ち、さらに暑さが強まったような気がする。現に太陽の光が漏れる窓に近付いただけで猛烈な暑さが襲いかかってきた。
どこもかしこも茹だるような暑さなのだ。こんな状況は異常と呼ぶ以外にない。砂漠の中心にある商業国家『アーリフ連合国』から見れば気温35度でヒィヒィ言う問題児など鼻で笑われるだろうが、とにかく異常は異常である。
何故なら、世の中には便利な魔法が溢れているからだ。
「おかしいな、環境維持魔法陣があるはずなのに」
「環境維持魔法陣……?」
不思議そうに首を傾げたのは、頭に氷嚢を乗せた可憐な女装メイド少年――アズマ・ショウである。汗塗れとなった儚げな顔立ちは暑さのせいで死んでおり、夕焼け空を流し込んだ赤い瞳にも光は宿っていない。
格好は半袖のメイド服に涼しげなポニーテールという通常装備だが、今にも倒れそうな気配がある。華奢で可憐な天使様にはこの酷暑は厳しすぎたのだ。
ユフィーリアは彼の頭に乗せられている氷嚢を変えてやりながら、
「室温を一定に保つ為の魔法陣が『環境維持魔法陣』ってんだ。ヴァラール魔法学院は、その魔法陣のおかげで誰もが快適に過ごせるような設計になってるんだよ」
環境維持魔法陣とは、建物を作る際に必要とされる魔法陣だ。建物内の温度を一定に保つ効果があり、夏場は涼しさを維持してくれて、冬場は温かさを保ってくれる。魔法陣を設置するだけで空気中の魔素を取り込んで常時展開されるので、家主がわざわざ環境維持の魔法を使わなくて済むという安心設計だ。
ヴァラール魔法学院にも、大規模な環境維持魔法陣が仕込まれている。敷地内全体になると相当な規模の魔法陣が必要だったが、校舎内に限定してしまえば難易度もそれほど高くない。校庭に出る授業は我慢するとして、校舎内や学校設備などには環境維持魔法陣が組み込まれているはずだ。
それがどうしてこうなったのか。これでは維持どころではない。
「グローリアのところに直談判しに行くしかねえかな」
額に滲んだ汗を拭ったユフィーリアは堂々とした足取りで用務員室から出ようとするのだが、その行動をショウが腕を引っ張って引き止める。
「どうした、ショウ坊。ちょっとグローリアのところに行って環境維持魔法陣のことを聞いてくるだけだぞ?」
「ユフィーリア、その格好で行くつもりか?」
「え?」
ショウに指摘されて、ユフィーリアは自分の格好に視線を落とす。
現在のユフィーリアは、胴着とパンツ1枚という下着姿だった。豊満な胸元も括れた腰つきも肉感のある太腿も淡雪の如き白い肌も、全てが曝け出された状態である。さらに言えば極上の肢体を伝い落ちる汗の珠が妖艶な雰囲気を演出しており、この格好で校舎内を歩けば確実に痴女として認定されてしまう。
ただ、衣類を着たくないのだ。35度という驚異的な室温を記録した今日、衣類なんてものを着ればユフィーリアは溶ける。本当ならば下着だって必要ないのだが、最愛の嫁がいるので全裸だけは回避しようと理性で耐えているだけだ。
ショウは真剣な表情で、
「下着姿で校舎内を彷徨うのは止めてほしい」
「いやだって暑いし」
「暑くても校舎内を歩く時はいつもの礼装を身につけてほしい。ユフィーリアの下着姿なんて誰かに見られでもしたら鼻血とか諸々が飛び出てしまう可能性がある」
「そこまではねえだろ。せめて痴女として警察組織に突き出されるぐらいじゃね?」
とはいえ、嫁の言葉も一理ある。
この下着姿の状態で校舎内を彷徨えば、確実に痴女判定だ。問題児から変態に格上げである。むしろ格下げである。あまり歓迎できない状況だ。
仕方がないのでいつもの礼装を身につけるか、とユフィーリアは雪の結晶が刻まれた煙管を握り直す。いつもの礼装は丁寧に畳んで机に積んであるので、煙管を一振りすればすぐに身につけることが出来る。
「ユフィーリア、いる?」
その時、ガチャッと用務員室の扉がノックもなしに開かれた。
開いたのはヴァラール魔法学院の学院長を務める青年、グローリア・イーストエンドである。烏の濡れ羽色をした長髪を紫色の蜻蛉玉が特徴的な簪でまとめ、半袖の襯衣とベストという涼しげで夏らしい格好に身を包んでいた。
グローリアの来訪によって、用務員室の時が止まる。ユフィーリアは魔法を使おうとした手を止め、エドワードとハルアは氷塊の取り合いをし、アイゼルネとショウは氷嚢で身体を冷やしているというどうにかこうにか暑さ対策をしようとしている問題児と学院長の視線が交錯した。
グローリアは下着姿のユフィーリアを認識してしまうと、
「きッ、君って魔女は!? 男もいる状況なのに、どうして下着姿でいれるのさ!?」
「コイツらはもう全裸も見慣れてるから平気平気」
「何が平気!? どこが平気!?」
慌ててグローリアは用務員室の扉を閉めようとするのだが、
「あ」
ポツ、と。
何か、赤いものが垂れ落ちる。
グローリアの鼻から。
「…………」
「…………いや違くて、これは単なる暑さのせいだから。うん。絶対にそうだから」
形のいい鼻から垂れる血を拭うグローリアはもっともらしい言い訳を述べるが、世界で最もユフィーリアのことを愛して止まない狂信者的なお嫁様には通用しなかった。
「記憶を飛ばすまで殴ります」
「待ってショウ君、こっちは不可抗力だよ!? そもそもユフィーリアが下着姿で用務員室にいるのが間違いなんじゃないのかな!?」
「ノックをしなかった貴方には何の責任もないと言うんですか? ここは用務員室、ユフィーリアと俺たちの聖域です。お邪魔するなら最低でもノックをして様子を伺いやがれください」
「それはそう!! 本当にごめんなさい!!」
珍しく――本当に珍しく、ショウの理不尽な言葉が正論として罷り通った。
そしてその正論でぶちのめされたグローリアは、可哀想にもショウからボコボコに殴られるという暴行事件の被害者に格上げする。ノックをしなかったものだからユフィーリアの下着姿を目撃してしまうとは、何という不運な男だろうか。
グローリアの悲鳴を聞きながら、ユフィーリアはいつもの肩だけが剥き出しになった黒装束を身につける。
「やっぱり部屋を凍らせた方がいいんじゃねえ?」
「部屋に氷河期が訪れたらショウちゃんが風邪を引いちゃうわヨ♪」
「それもそうか」
最愛の嫁の健康を優先するユフィーリアは、アイゼルネの助言を受けて部屋を氷漬けにして涼を取る作戦を諦めるのだった。
《登場人物》
【ユフィーリア】夏の暑さは苦手な魔女。暑かったら下着姿になるのも厭わない。夏は大抵、氷嚢と氷の魔法と冷感体質で乗り切っている。
【エドワード】夏の暑さはあまり好きじゃない巨漢。暑かったら全裸になるのも厭わない。夏は冷たいものが食べたくなるよね、アイスとか。
【ハルア】夏の暑さは得意なはずだけど、今日の暑さは異常だと思う。夏じゃなくても全裸になる可能性がある。
【アイゼルネ】なるべく薄手のドレスとユフィーリアの作る氷嚢で暑さを乗り切る。意地でもすっぴんは見せない。
【ショウ】炎天下の中に放置されていた時期もあるし、元の世界は湿気も酷かったので暑さにはある程度の耐性はあるものの暑いものは暑い。
【グローリア】真夏の暑さは魔法で乗り切る。環境維持魔法陣、万歳。