第5話【問題用務員と中和剤】
さて、ここで新たな問題が発生である。
「ユーリぃ、この素麺はどうやって食べるのぉ?」
「…………」
エドワードに指摘され、ユフィーリアは死んだ魚のような目を大釜から無限に湧き出る素麺に向ける。
魔法薬調合用の大釜から無限に湧き出てくる素麺は、止まるということを知らない。果てしなく湧き出てくる白い麺の奔流によって廊下は占拠され、足の踏み場もないぐらいだ。
ショウの言う『ながしそーめん』とやらが、問題児の手によってとんでもねー文化に早変わりである。倍々魔法薬を1瓶丸ごと投下してしまったのでどうにも止められない。止めるには中和剤を調合する必要があるのだが、その魔法薬の調合手順はどこにあったか。
冷や汗を流すユフィーリアの頭に、ポンとエドワードの大きな手が乗せられる。
「ユーリぃ?」
「…………どうしような、これ」
「後先考えずに魔法薬なんて便利なものに頼るからこうなるんだよぉ」
「イダダダダダダダダダアーッ!!」
エドワードの5本指がユフィーリアの頭を容赦なく締め上げてきて、堪らず悲鳴を上げる。頭の形が変わるどころか頭蓋骨を握力だけで粉砕してきそうな勢いだ。
これはまずい、非常にまずい。命に関わる頭の痛さである。食べ物のことに関連するとエドワードは目の色を変えるので、倍々魔法薬なんてものを安易に使ったことを後悔した。
頭を握り潰さん勢いで締め上げられるユフィーリアは、
「いいだろこれ!! 立派に流れてるから『ながしそーめん』じゃねえか!!」
「仮にこれが『ながしそーめん』だとしてぇ、どこでこんなの食べるのよぉ!!」
「直に箸を突っ込むしかなくねえだろ!!」
「俺ちゃんが聞いてるのは手段じゃなくて場所だよぉ!!」
頭を締め上げてくるエドワードの手のひらから解放され、ユフィーリアは廊下の惨劇と再び向き合う。
廊下の幅いっぱいに素麺が水と一緒に流れているので、食べる場所なんてない。みんなで用務員室の入り口から箸を出して食べれば大渋滞が起きる。誰かしらが箸を落として素麺の奔流に飲み込まれ、新しい箸を出すのが面倒だからという理由で手掴みで食べる光景まで想像できてしまった。
倍々魔法薬の使用を早くも後悔する。そもそもちゃんとユフィーリアが使用方法を確認しておけばよかったのに、その過程を面倒臭がって1瓶丸ごと流し込んでしまったのでこんな事件が起きたのだ。犯人はユフィーリアである。
その時だ。
「ユフィーリア、君って魔女は!!」
「え」
顔を上げると同時に、視界いっぱいに誰かの靴底が映り込む。
気づいた時には、ユフィーリアの顔面に飛び蹴りが叩き込まれていた。
顔面で飛び蹴りを受け止めた衝撃のせいで吹き飛ばされ、ユフィーリアは机に背中と後頭部を思い切り叩きつけて悶絶する。目玉が飛び出るほどの激痛が襲いかかってきた。
飛び蹴りをしてきた相手はもう分かっている。流し素麺の存在に気づいたヴァラール魔法学院の学院長様だ。
「痛えな、グローリア!!」
「君は一体何てことをしてくれたの、ユフィーリア!!」
浮遊魔法を解除して用務員室の床に降り立つ学院長の青年――グローリア・イーストエンドは、紫色の瞳を吊り上げて怒りを露わにする。
「廊下いっぱいに素麺を流すとか馬鹿じゃないの!?」
「倍々魔法薬で増やしすぎたんだよ!!」
「反省する姿勢がまるで感じられない!!」
開き直るユフィーリアに、グローリアは廊下いっぱいに流れる素麺を指差して「どうするの!!」と叫ぶ。
「あんな無限に素麺を湧き出すだけの大釜を放置していないで、さっさと中和剤を使って止めてよね!!」
「あれしか大釜を持ってねえから無理」
「じゃあ僕の大釜を使っていいからとっとと中和剤を調合するんだよ。素麺の奔流はとりあえずスカイにどうにかしてもらってるから」
「えー」
「えー、じゃないんだよさっさとやる!!」
グローリアは一喝すると同時に、手を叩いて転送魔法を発動させる。荒れ果てた用務員室にゴトンと大釜が出現した。
倍々魔法薬をどうにかする中和剤の調合は、ユフィーリアに押し付けられてしまうことになったようだ。やらかした犯人が責任を持ってどうにかするのは理解できるのだが、そうは問屋が卸さない。問題児が素直に仕事をすると思うか。
その証拠に、学院長へ魔の手が忍び寄る。
「ユフィーリアの綺麗な顔に何してくれてるんですか」
「ぎゃーッ!?」
ショウが床から生やした腕の形をした炎――炎腕に胴上げされて、グローリアが甲高い悲鳴を上げる。
わっしょい、わっしょいと胴上げされるグローリアは用務員室の開けっ放しにされた扉付近まで連行された。その先に待ち受けているのは素麺の激流である。炎腕に胴上げされて思うように身体を動かすことが出来ないグローリアは、顔を青褪めさせてショウを見やった。
綺麗な笑顔を見せたショウは、学院長を胴上げしている炎腕に無慈悲な命令を下す。
「炎腕、突き落とせ」
「ちょ、やめッ、ぎゃーッ!!」
炎腕によって、グローリアは素麺の激流に突き落とされてしまった。
あっという間に悲鳴が遠ざかっていき、彼の姿は見えなくなる。どこまで運ばれるのか不明だが、この激流に飛び込んだ暁にはしばらく素麺を見たくなくなるほど嫌いになりそう。
ユフィーリアは素麺に飲まれて消えた学院長に敬礼を送るが、
――ぴりりりりり、ぴりりりりり。
聞き覚えのある音が耳朶に触れる。
音の発生源はユフィーリアの持つ通信魔法専用端末『魔フォーン』だ。その画面には副学院長の文字が表示されている。
嫌な予感がするのだが、通信魔法に応じることなく切断した場合だと何が起きるか分からない。冷や汗が背筋を伝いながらも、ユフィーリアの指先は魔フォーンの画面に触れた。
「あい」
『あ、もしもしユフィーリア? そっちにグローリアが行ったと思うんスけどね』
「素麺の激流に飲まれて消えたぞ」
『ありゃ、そッスか。まあ流れ着いた時に異物として取り除けばいいッスかね』
魔フォーンの向こう側でスカイはのほほんと笑いながら、
『で、素麺をどうにかする為に即席でプールみたいな魔法兵器を作ったんスよね』
「おう」
『これ以上ッスね、倍々魔法薬で湧き出す素麺をどうにかしないとボクが作った魔法兵器から溢れ出すんスよね』
「はい」
『溢れ出したら増築なり何なりしなきゃいけないんスよね』
「…………はい」
『ボクの手をこれ以上煩わせるつもりッスか?』
「今すぐ中和剤の調合に入らせていただきますッ!!」
顔を青褪めさせたユフィーリアは、急いで魔フォーンによる通信魔法を叩き切った。
そこはかとなく感じた命の危機、より具体的に言えば副学院長お手製のエロトラップダンジョンに放り込まれるのではないかという危機感である。最後の一言に全ての感情が盛り込まれていた。「早く中和剤を作らないとどうなると思う?」と言われているようである。
半泣きの表情でユフィーリアは本棚から魔法薬の調合手順を記した魔導書を引っ張り出し、中和剤の調合に着手するのだった。
☆
中和剤の完成はすぐだった。
「出来たァ!!」
魔法薬による独特の匂いが鼻孔を掠めるが、ユフィーリアは大釜いっぱいに出来上がった青紫色の魔法薬の完成に拳を天高く突き上げる。
ちょうど運良く中和剤の材料は用務員室にある食材などで代用できたので、中和剤の調合は比較的早かった。これで副学院長によるエロトラップダンジョンの餌食にならないで済む。
雪の結晶が刻まれた煙管を一振りし、ユフィーリアは出来上がったばかりの中和剤を倍々魔法薬の瓶に流し込む。綺麗な魔法薬の色だが、そんなことを気にしている場合ではない。
「あとはこの中和剤を投げ入れるだけ!!」
「ハルちゃん、ユーリからその瓶を取り上げてぇ」
「あいあい!!」
「おわッ、何するんだ!!」
トチ狂ったユフィーリアが中和剤の入った瓶を投げようとしたところで、ハルアに取り押さえられてしまう。中和剤の瓶はエドワードに没収されてしまった。
別に中和剤の調合を阻止しようとか、このままユフィーリアをエロトラップダンジョンの餌食にしようとか、そういう魂胆ではない。単純な話、ユフィーリア自身に投擲の技術がないので、投げたらどこに飛んでいくか分からないからだ。せっかくの中和剤が無駄になる危険性がある。
エドワードはショウに中和剤の瓶を手渡し、
「ショウちゃん、ユーリの代わりにこの中和剤を大釜に入れてきてくれるぅ?」
「中身全部を大釜の中に入れればいいんでしょうか?」
「中和剤だからぁ、入れた倍々魔法薬と同じ分量を入れればいいよぉ。それに中和剤は多いに越したことはないよぉ」
エドワードの説明を受けたショウは、しっかり頷いてから右手を軽く掲げる。その合図で白く歪んだ三日月――冥砲ルナ・フェルノが出現すると、彼の身体がふわりと床からほんの僅かに浮かび上がる。
冥砲ルナ・フェルノに付与された飛行の加護によって、地上に降り立つことが出来なくなる代わりに空中を自由自在に飛び回ることが可能なのだ。これなら素麺の激流の上も楽々移動できる。
ショウは空中を蹴飛ばし、ふわふわと空を飛んで用務員室から素麺の激流が支配する廊下に出る。用務員室をすぐ出たところに設置された大釜の上空まで移動すると、
「えい」
瓶の中身を満たす青紫色の中和剤を、まとめて大釜の中に流し入れた。
ボトボトと大釜の中に落とされる中和剤。こんこんと湧き続ける素麺は、中和剤が投入されたことで徐々に勢いが弱まっていく。中和剤が完全に倍々魔法薬の効果を打ち消すと、素麺はもう大釜から湧くことはなくなった。
廊下はまだ素麺が埋め尽くしているのだが、大釜から無限に湧き出てきて押し出されることもなくなったのでそのまま廊下に停滞している。ともあれ無限に出てくる素麺の事件はこれで終わりだ。
無事に中和剤が機能したことに安堵したユフィーリアは、
「よかった、これでエロトラップダンジョンに放り込まれないで済む……」
「ご希望なら放り込むッスよ?」
「うおおお!? いつのまに!?」
突然の副学院長来訪に、ユフィーリアは驚きのあまり弾かれたように立ち上がった。思わず雪の結晶が刻まれた煙管まで握り直してしまう。
ヴァラール魔法学院の副学院長、スカイ・エルクラシスは「どうもッス」と手を振ってご挨拶。のほほんとした態度から判断してそれほど怒っていなさそうに見えるが、気を抜いてはいけない。
スカイは廊下の素麺を指差して、
「ほら早くそれも持ってくるッスよ。校庭に移した素麺をどうにか食べちゃわないと」
「校庭に素麺あるの!?」
「ボクが作った魔法兵器に溜め込んでるッスけどね」
琥珀色の瞳をキラッキラと輝かせるハルアに、スカイは「まあ、あれをどうやって食べるのかが問題なんスけど」とどこか遠くを眺めながら言う。
「とりあえず、見て貰えば分かるッスよ。めちゃくちゃ凄い量なんスから」
《登場人物》
【ユフィーリア】割と副学院長には逆らえない。魔法兵器の実験台にされてまだ死にたくない。
【エドワード】食べ物の悪戯はたとえ上司であろうと許さない。
【ハルア】大量の素麺に流された学院長が羨ましい。
【アイゼルネ】この素麺はどうするのかしら。
【ショウ】お昼ご飯まだかな。
【スカイ】ヴァラール魔法学院の副学院長。担当教科は魔法工学。魔法兵器の開発・設計を得意とするが、有り合わせの材料で組み上げた即席の魔法兵器でどうにか素麺を受け止めることに成功した。