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第9話【族長の息子とおつかい】

「あら……?」



 棚を見上げたミランダは、不思議そうに瞳を瞬かせる。



「食器用の石鹸がないわ」



 彼女が手に取ったものは、食器を洗う為に用いられる石鹸の箱だった。本来であれば5個ぐらいまとめて詰め込まれて人里にて販売されているのだが、ものの見事に空っぽとなっていた。

 あまり新しいものに交換する機会がないので、仲のいいご近所さんに配ってしまったのだ。今日に限って石鹸がなくなるとは想定外の出来事である。


 ミランダは「困ったわ」と言い、



「石鹸を買ってこなきゃ」


「母さん、どうしたの?」



 母の困っている姿を見て、ちょうど弟と妹と一緒に積み木遊びをしていたエドワードが遊びを中断して歩み寄る。エドワードが母親の元に歩み寄ると、一緒になって弟と妹までついてきた。

 足元にしがみつくアンドレとエリザベスの存在など気にした様子もなく、エドワードは不思議そうに首を傾げる。その姿は人間の子供と大差はない。


 ミランダは少し考えてから、



「エドワード、おつかいを頼んでもいいかしら?」


「おつかい?」


「人里まで行って、石鹸を買ってきてほしいの。食器用の石鹸よ」



 ミランダは食器用の石鹸が詰め込まれていた空っぽの箱をエドワードに渡す。


 エドワードは箱をぐるぐると回しながら、その模様や形などを確認していた。「きれいにナール……」と商品名まで読み上げる。ちゃんと記憶しようと頑張っていた。

 それから石鹸の箱をミランダに突き返すと、部屋の隅にあった箪笥タンスに近寄る。箪笥の引き出しを開けると防寒具を一通り取り出してから、厚手の外套コートをモソモソと羽織った。灰色の頭を隠すように毛糸の帽子を被り、手袋まで装着する。


 あっという間に出かける準備を終えた兄の姿を見て、アンドレとエリザベスは不満げな表情を見せる。



「にいちゃ、おでかけ!?」


「おでかけ?」


「うん、そうだよ。おつかいに行ってくる」



 小さな手でエドワードの洋袴ズボンを引っ張るアンドレとエリザベスは、出かけようとする兄の行動を懸命に阻止していた。可愛いことである。



「大丈夫だよ、すぐに帰ってくるから」


「あそんでたのに!!」


「のに」


「ぼくもいきたい!!」


「えりーもいきたい」


「だぁめ」



 我儘を言うアンドレとエリザベスの頭を撫でるエドワードは、



「帰ってきたら遊んであげるから。雪だるま作ろうか、今日も雪降ってるし」


「いいよ!!」


「たのしみ」


「それじゃあ、母さんを困らせないでお留守番していてね」


「あい!!」


「あい」



 アンドレとエリザベスは揃って頷くと、積み木遊びに戻ってしまった。普段はエドワードの前だと我儘を言ったりするアンドレだが、妹のエリザベスが相手だとちゃんと面倒見よく遊んでいる。アンドレの方が先に生まれたので、妹の前ではいいお兄ちゃんでいる様子である。


 エドワードは狼の形をした財布を首から下げて、手袋をした手をミランダに伸ばす。「お金ちょうだい」と石鹸の代金を求めていた。

 家計を管理している財布から真新しいルイゼ紙幣を取り出すと、エドワードの首から下げられた狼の財布にお金を丁寧に折り畳んでしまってやる。余裕のあるお金を貰ったので大丈夫だろう。


 ミランダは大きく頷くと、



「じゃあ行ってらっしゃい、気をつけてね」


「うん」



 エドワードはしっかりと頷き、テントを飛び出す。


 布の扉を捲ると、容赦のない冷気がエドワードの頬を撫でた。あまりにも風が冷たいので首に巻いたマフラーに顔を埋めてしまった。これだけで外出する意欲が半減するのだが、今日はおつかいという使命があるので家の中に戻る訳にはいかない。

 凍えるような寒さを我慢して雪が降り頻る世界に足を踏み出せば、カーンカーンという聞き慣れた音がすぐ近くで聞こえてきた。薪割りの音である。


 ふと音の方へ視線をやれば、父親のアッシュが上半身裸で斧を振っていた。見ているだけで暑苦しい光景である。



「ん、何だエドワード。どこかに出かけんのか?」


「母さんのおつかい。食器用の石鹸がないんだって」


「ほー、そうか。気をつけて行ってこいよ」


「うん」



 斧を担ぐアッシュを見上げたエドワードは、



「暑苦しい」


「ンだとぉ?」


「見ているだけで風邪引きそう。せめて上半身裸は止めた方がいいよ」


襯衣シャツを汗塗れにしたら母ちゃんに怒られんだよ。薪割りは力勝負なんだからよ」


「その感覚がよく分からない」


「テメェも大きくなったら分かる」


「分かりたくない」



 何やらアッシュが「いーや絶対に分かる」とか適当なことを言っていたが、エドワードは無視しておつかいに出かけた。



 ☆



 人里までは雪道を歩いて30分ほどの場所である。



「小さいのに偉いねぇ」


「もう10歳だから」



 石鹸を販売する雑貨屋の店主に褒められて、エドワードは誇らしげに胸を張る。初老の店主は小さな丸眼鏡をかけ直して「ほほほ」と楽しそうに笑いながら、エドワードが購入した食器用石鹸を紙袋に詰め込んだ。

 紙袋と交換するように、エドワードは石鹸の代金を支払う。多めのルイゼ紙幣を受け取った店主は精算機にお金を入れると、丁寧にお釣りを取り出してエドワードの小さな手のひらにお金を乗せた。


 初老の店主は次いで会計台を漁ると、



「小さいのにおつかいが出来たご褒美だよ」


「飴だ!!」



 初老の店主が取り出したものは、棒についた大きな飴である。赤色と白色の渦巻き状となった棒付きの飴は、この辺りではあまりお目にかかれないお菓子だ。


 エドワードは銀灰色の双眸を輝かせて、初老の店主が差し出してくる棒付き飴に手を伸ばす。だが指先が触れそうになったところで、手を引っ込めてしまった。

 受け取るのはいいし、初老の店主とも顔見知りだ。ただ、簡単に受け取ると何かあるのではないかと勘繰ってしまう。



「飴は好きじゃないかい?」


「好きだけど……」


「タダで貰うのは気が引けるかい?」


「…………」



 エドワードは店主の言葉に対して素直に頷いた。


 初老の店主は「そうか、そうか」と笑うと、エドワードの手に大きな棒付き飴を握らせる。

 どうして笑っているのか理解できないし、初老の店主がなおも飴を渡そうとしてくる理由も不明なままだ。押し付けられてしまった飴を返そうとするのだが、初老の店主は首を横に振った。



「そいつは君のお母さんにあげなさい」


「母さんに?」


「そうとも。少し前にヒグマが出て街の住人が怖がっていた時に、君のお母さんが助けてくれたのだ。そのお礼をどうか持っていっておくれ」



 初老の店主は茶目っ気たっぷりに片目を瞑ると、



「お母さんは大人だから、もしかしたら君にその飴を譲ってくれるかもしれない。その時は君の好きにしなさい」



 エドワードは大きな棒付き飴を見下ろす。


 母親への贈り物であれば仕方がない、これはきちんと届けてやらなければならないのだ。母親が他人の助けになったとは、息子としても少し誇らしい。

 大きな棒付き飴を食器用石鹸が詰め込まれた紙袋にしまうと、エドワードは「分かった」と頷いた。もし譲ってもらえたら、弟と妹と一緒に食べよう。



「ありがとう、お爺ちゃん。また来るね」


「気をつけて帰りなさい」



 初老の店主に見送られ、エドワードは小さく手を振りながら雑貨屋の扉を開ける。


 灰色の雲に覆われた空からは、ふわふわと綿のような雪が降っていた。エドワードと同年代の子供が楽しそうにはしゃぎながら雪遊びに興じており、寒い中だと言うのに元気いっぱいな様子だ。

 その姿を目の当たりにしたエドワードは、自宅で幼い弟と妹が待っていることを思い出す。「雪だるまを作ろう」と約束したばかりだ。


 石鹸が詰まった紙袋を抱きしめたエドワードは、



「早く帰ろう」



 首に巻いたマフラーに顔を埋め、エドワードは人里から足を踏み出す。


 森と街を隔てるように巡らされた木製の柵を出ると、呼吸さえも大きく聞こえるほどの静謐に包まれる。雪が積もった森の道を踏みしめるエドワードの足音だけがサクサクと寒々とした森の中に落ちた。

 適当な鼻歌を奏でつつ、エドワードは道端に落ちていた木の枝を拾う。分かれた枝には雪が積もっており、少し揺らしただけで枝に積もっていた雪が落ちた。



「武器発見」



 エドワードも10歳の子供である、大振りな木の枝を見つけると興奮してしまうのだ。


 誰も通らないのをいいことに、木の枝をぶんぶんと振りながら雪道を突き進んでいく。握った木の枝でそびえ立つ木の根っこや幹を叩くと、積もった雪が煙のようになって舞った。

 木の枝だけで無敵になったような気分になる。今ならあの暴力的な父親にも勝てるかもしれない。



「ん?」



 人里を経ってからどれほど時間が過ぎただろうか。


 いつのまにか、エドワードは銀狼族が集団で暮らす里まで戻ってきていた。自宅と同じような大きめのテントが不規則に並んでいるのだが、不思議なことに他の銀狼族はテントの中に引きこもっているようだ。子供たちですら外に出て遊んでいる気配はない。

 それどころか、里全体が驚くほど静かなのだ。今まで歩いてきた道と何ら変わらない、異様なまでの静けさに満ち溢れているのだ。


 不思議そうに首を傾げるエドワードは、



「もうお昼なのかな」



 いいや、でも。


 エドワードは眉根を寄せる。

 鼻孔を掠める鉄錆の匂いは、生き物を殺した時に香るものだ。昼ご飯と称して大人たちが野生動物を仕留めたのか――いや、その時はこんな匂いなどするだろうか。



「どこから……」



 エドワードはぐるりと周囲を見渡す。


 匂いを辿っていくと、行き着いた先は自分の家だ。冷たい風が吹いて、テントの扉をバタバタと揺らしている。

 その揺らされた扉の隙間から血の香りが漂ってきた。色濃く、噎せ返るような。



「母さん?」



 エドワードはテントの扉をゆっくりと開ける。


 まず認識できたものが、真っ赤な海の中に沈む母親のミランダの姿だ。仰向けで寝転がる彼女の首は無惨にも掻き切られ、静かにその赤い海の範囲を広げていく。

 テントの隅に追いやられるようにして転がっていたのは、頭部を潰された弟のアンドレと妹のエリザベスのである。怖かったことだろう、その表情が見えないのがせめてもの救いなのだろうか。


 呆然とテント内に立ち尽くすエドワードが最後に見たものは、



「……父さん?」



 赤い海の中にうつ伏せで倒れる、エドワードの中で誰よりも強かったはずの父親――アッシュの姿だった。

《登場人物》


【エドワード】おつかいに行って帰ってきたら家族が皆殺しにされていた。


【アッシュ】基本的に暑がりなので雪が降っていても関係なしに上半身裸にはなる。

【ミランダ】汗を掻くというより全身泥だらけになってくるから叱るだけ。

【アンドレ】お兄ちゃん大好きな双子の弟。エリザベスの兄。

【エリザベス】お兄ちゃん大好きな双子の妹。ヴァルスラム家きっての秀才。

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