第8話【族長の息子と幸せな日々】
何の脈絡もなく殴られた。
「ぶッ」
脳天に叩き落とされた拳に耐えきれず、雪が降り積もる大地に顔面から飛び込んでしまう。視界が一瞬で真っ白に塗り潰され、痛いほど冷たい雪の感覚が襲いかかってきた。
雪の大地に真っ正面から飛び込んだのは、10歳程度の子供である。短く切り揃えられた灰色の髪と銀灰色の双眸、厚手の衣類は雪が降る気候に適している。身長はまだ小さく、どこもかしこも未発達でヒョロヒョロに細い。
雪の中に飛び込んだ子共はガバリと顔を上げると、
「何で殴るんだよ!!」
「これも立派な族長になる為の修行だよ」
子供を殴ったのは筋骨隆々とした狼の獣人である。
野生み溢れる灰色の毛並みと銀灰色の鋭い瞳、左右に引き裂かれた口からぞろりと牙が生え揃う。相対する子供とは対照的に狼の獣人は毛皮のおかげで寒さを感じないのか、薄手の襯衣と洋袴といういかにも風邪を引きそうな格好をしていた。
銀狼族の族長――アッシュ・ヴォルスラムは「がははは」と豪快に笑う。
「エドワード、テメェはまだまだ弱っちいな!!」
「弱くていいもんね」
雪の大地から起き上がった子供――長男のエドワード・ヴォルスラムは、全身に付着した雪を手で払い落とす。
「俺が大人になる頃にはアンドレもエリザベスも成長しているし、そもそも族長なんて継ぐ気ないもん。俺は大きくなったら都会で適当に稼いで悠々自適に生活するの」
「テメェ、腐っても獣人だろうが。少しは闘争心ってのがねえのか」
「ないよ、雪の欠片ほどもない」
エドワードは飄々と笑いながら否定すると、
「とにかく絶対に嫌だから。父さんはまだ現役なんだし、俺が大人になるまで甘えさせてもらうね」
「おいコラ、逃げるなエドワード!!」
アッシュの怒声を背後で聞きながら、エドワードは風のような速さで家の中に飛び込んだ。
家と言っても建物ではない。見上げるほど巨大なテントだ。
銀狼族は1ヶ所に留まって生活することのなく、定期的に場所を変えながら生活をしているのだ。基本的に食べられる魔法動物や野生動物を狩って暮らしており、こうして住む場所はテントを設置して寒さや暑さを凌いでいる。
布製の扉を跳ね除けてテントの中に飛び込むと、暖炉で温められた部屋の空気がエドワードの冷たくなった身体を包み込む。濡れた灰色の髪も手で払ってから「ほう」と一息を吐けば、穏やかな女性の声が耳朶に触れた。
「エドワード、お帰りなさい。寒かったでしょう?」
「母さん」
ちょうど暖炉の前で編み物をしていた狼の獣人が、穏やかな笑顔を浮かべて「こちらにいらっしゃい」と手招きをする。
桃色のエプロンと薄手のスカートを身につけた狼の獣人は、毛皮で覆われた手で器用に青色のマフラーを編んでいた。アッシュと同じく灰色の毛皮と銀灰色の双眸、大きな口から鋭い牙が覗いているのに父親とは違った穏やかさと包容力がある。
ミランダ・ヴォルスラム――エドワードの母親である。雪によって冷たくなったエドワードの頬を撫でた彼女は、
「あらあら、こんなに冷たくなっちゃって」
「母さん、父さんに何とか言ってやってよ。毎日のように殴られるんだけど」
「お父さんもエドワードに銀狼族を引き継いでほしいのよ」
「引き継ぎたくないよ」
不満げに唇を尖らせるエドワードに、ミランダは優しく微笑みかけて抱きしめてやる。
「そんなことを言わないで、エドワード。お父さんはね、エドワードが次の族長に相応しいと思ってるのよ」
「弱い俺が銀狼族なんて引き継げる訳ないじゃん」
エドワードはなおも不満を垂れる。
獣人である父親のアッシュや母親のミランダは、狼らしく全身が毛皮に覆われており筋肉量もエドワードとは段違いだ。特に父親のアッシュはどんなに凶暴な魔法動物や野生動物を拳だけで沈めてしまうほど強くあり、筋骨隆々とした肉体美は他の獣人よりも優れているように思える。
一方のエドワードは身長も小さいままだし、筋肉量も同年代と比べれば圧倒的に少ない。規則正しい食生活と適度な運動、睡眠を取っていても身長が伸びる気配はない。近所の子供にも見る間に抜かれていく始末だ。
それに父親へ1発も拳を当てられず、エドワードは弱いままだ。こんな弱虫なエドワードが、銀狼族を率いることなんて出来る訳がなかった。
「父さんは俺のことが嫌いなんだ。だから毎日叩くんだよ」
「そんなことはないわ、エドワード」
「そんなことあるよ」
エドワードはツンとそっぽを向くと、
「弟と妹にやらせればいいよ。俺は、獣人じゃないし」
エドワードの見た目は獣人というより、人間らしいのだ。腕も足も細くて毛皮に覆われておらず、父や母のように毛皮で寒さを凌ぐことが出来ない。大きな口も持っておらず、尻尾もなく、耳も人間らしく小さなものだ。
獣人と名乗るよりも森の中で捨てられた赤ん坊と言われてもおかしくはない。本当に母親のミランダや父親のアッシュと血の繋がりを持っているのか不安になるほどだ。
沈んだ表情のエドワードの頬を撫でるミランダは、
「エドワード、悲しいことを言わないで」
我が子に言い聞かせるように、母親は言う。
「貴方は私の大事な息子よ。それだけは本当よ」
「本当?」
「本当よ」
それからミランダはエドワードを強く抱きしめてから、
「お腹が空いたでしょう。お昼ご飯にしましょう?」
「うん」
編みかけのマフラーを籠の中に戻し、ミランダは鍋が置かれた台所に向かう。台所も組み立て式となっており、カチカチと石を使って鍋の下に設置された薪に火を灯していた。
母親の背中を見やると同時に、エドワードの腰に強い衝撃がやってきた。
弾かれたように視線を腰にやれば、小さな狼の獣人がエドワードの腰にしがみついている。動きやすいように黄色のつなぎを身につけており、小さな手を懸命に伸ばしてエドワードの厚手の衣類を掴んでいた。
興奮気味な子供の狼は、
「にいちゃ!!」
「なぁに、アンドレ。どうしたの」
「あそぼ!!」
子供の狼――弟のアンドレ・ヴォルスラムは「あそぼ!!」とエドワードの手を引っ張る。元気が良すぎる弟だ。
「にいちゃ」
「あら、エリザベスも。遊びたいの?」
「ごほん、よんで」
同じく子供の狼――妹のエリザベス・ヴォルスラムは絵本を掲げて主張してくる。何度も繰り返し読んだ影響で、絵本はボロボロに擦り切れてしまっていた。
グイグイと腕を引っ張ってくるアンドレとは対照的に、妹のエリザベスは聡明であまり自分を主張してこない。いつも控えめでアンドレに手を引かれながら雪の世界を駆け回り、暴走気味の弟を諌めるのだ。
エドワードは膝を折って幼い弟と妹に目線を合わせると、
「ん、いいよ。遊ぼうか」
「ほんと!?」
「ごほん、よんでくれる?」
「読んであげるよ。こっちにおいで、外は寒いから家の中で遊ぼうね」
「さむくない!!」
「ないよ」
「俺は寒いの」
エリザベスが抱える絵本を受け取り、エドワードは何度も読んだことで覚えてしまった絵本を開く。
確か、内容は世界的に最も有名で偉大な7人の魔女・魔法使いのお話だ。この世界を作ったのがどうのと物語は示しているが、果たしてそれが本当なのか試す術はない。
銀灰色の瞳をキラキラと輝かせるアンドレとエリザベスに、エドワードは読み聞かせを始めた。
「昔々、あるところに1人の魔法使いがいました――」
☆
「子供たちは?」
「寝ましたよ、お父さん」
テントの隅に設けられた布団にくるまり、3人の愛しい我が子たちは眠る。生意気なことを言うようになってきた長男のエドワードもまた、子供らしいあどけない寝顔を見せていた。
可愛い我が子の平和な寝顔を見ているだけで、族長のアッシュは心から癒される。この時間帯が彼にとっての至福だった。
ミランダは温めたお茶のカップをアッシュに差し出して、
「エドワードをあまり叩かないであげて。あの子、お父さんに嫌われてるって思っているのよ」
「そんなことねえよ。ミランダが腹を痛めて産んでくれた大事な息子だ、嫌う理由なんてどこにもねえ」
アッシュはすぐさま否定した。
エドワードが生まれた時のことを今でも覚えている。雪が溶けて暖かくなり始めた初夏の頃、アッシュの妻であるミランダが自宅でエドワードを産んでくれた。
産婆が赤子のエドワードを取り上げた時、彼はすでに人間らしい赤ん坊の姿だったのだ。毛皮は生えておらず、羊水で濡れた髪の毛は短い。獣人らしくないその姿に銀狼族の誰もが恐怖を覚えたものだが、アッシュだけは無事に生まれてくれた我が子の生誕を喜んだ。
他の銀狼族の子供とは違った姿のエドワードは受け入れられなかったが、アッシュはこれ以上ないほどに息子のエドワードに愛情を注いでやった。結果的に行きすぎた愛情が嫌われる原因となってしまったようだが。
「エドワードには銀狼族を守れるぐらいに強くなってほしいんだけどな……」
「強くなるのはゆっくりでもいいでしょう?」
ミランダはしょんぼりと肩を落とすアッシュの側により、
「あの子は強さよりも頭がいいわ。きっと、人間と私たち銀狼族の架け橋になってくれるはずよ」
「それもそうだな。エドワードの奴、俺に似ずに頭がいい」
人間による大量虐殺が起こったことが原因で、獣人は人間に対して強い憎しみを持っている。今もどこかで獣人と人間同士で争っているのではないかと思うと心が痛い。
実際、銀狼族の中にも人間に対して強い恨みを持つ連中もいる。「人間のところに戦争を仕掛けよう」「喉笛を引き裂いてやればこちらの勝ちだ」「魔法を使われる前に殺してしまえ」と訴える声が連日のように族長のアッシュへ押し寄せてくるのだ。
ただ、アッシュはそんなことは間違っていると感じる。種族は違えどこの世界で共に生きるのだから、手を取り合えるはずだ。
「人間は頭がいい、俺たちなんかよりもずっとずっとな。だから」
アッシュは眠るエドワードの頭を優しく撫でてやり、
「だからせめて、俺はコイツが生きやすいように強くしてやらねえと」
「お父さん、叩くのはなしよ」
「分かってるっての。叩いたら馬鹿になっちまうことを思い出したわ、俺のように脳筋馬鹿野郎になってほしくねえ」
眠るエドワードは父親の手のひらの感覚が心地よいのか、無意識のうちに口元を緩ませていた。
《登場人物》
【エドワード】銀狼族族長である父親に日々鍛えられ、殴られ、そのせいで生意気なことを言うようになった子供。反抗期に片足を突っ込みつつある。将来は都会に出て適当に稼ぎながら悠々自適に暮らすことを夢見る。
【アッシュ】銀狼族族長にしてエドワードの父親。魔法動物や野生動物を相手にしても拳だけで勝ってしまうほど肉弾戦で最も強い。無益な争いは好まず、脳筋な自分たちよりも頭のいい人間とは仲良くしたいと思っている。
【ミランダ】アッシュの妻にしてエドワードの母親。穏やかで嫋やかな母親で、銀狼族らしくない見た目の我が子であるエドワードにも深い愛情を注ぐ。優しいのだが、この前ヒグマを素手でぶっ飛ばしたことはある。
【アンドレ】エドワードの弟。3歳。遊ぶことが大好きな元気いっぱいの次男。兄であるエドワードに遊んでもらうのが大好き。
【エリザベス】エドワードの妹。3歳。双子の兄であるアンドレのストッパー役。この時から頭が良く、エドワードの読み聞かせで文字を認識できるようになった。